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理論篇4:アナーキズムとしての恋愛=ゲーム設計論

Q9:恋愛はどのようなゲームであるべきか?

主張14:恋愛を純粋な享楽のためのゲームとして設計するとき、人は必ず一度はアナーキストであらねばならない

《目的》

 人々が恋愛のゲーム設計に取り組む際の最も大きな心理的社会的障壁について描写する。

《原理》

 ロマンティック・ラブ・イデオロギーを解体するのは、容易ではない。容易ではないし、あっさり実現することはほとんど不可能に近い。
 確かに、ロマンティック・ラブ・イデオロギーには多くの暴力と差別の根源が潜んでいる。しかし、社会の再生産システムとしては非常によくできたシステムであり、それ故に「ロマンティック・ラブ帝国主義」とでも呼べるような、政治・経済・文化・法制度・言語・宗教……およそ社会のあらゆる領域において性愛のあり方、さらには人間のライフコースのあり方そのものを規定し尽くしてしまっている。
 そればかりでなく、異性愛主義に必ずしも当てはまらない愛の形を望む人々に対しても、〈伝統家族〉主義者はロマンティック・ラブ・イデオロギーによる植民地支配を繰り返してきた。LGBTQ+に対しても「結婚式」が必要だとか、「パートナーシップ制度」が必要だとか、「親権」はどうするだとか、当事者の人権に配慮しているようでいて、そもそもの発想自体が「恋愛→結婚→出産」の三位一体プロセスの枠組みを出ない議論が繰り返されるのはなぜなのか。性別のトランジション、通称名の使用やオルター・エゴの認知、同性愛パートナーシップやポリアモリー・パートナーシップ、その他あらゆるQueerなライフコースに関してなぜいちいち〈パパ〉の承認を経ないといけないのか。〈パパ〉の言うことを守っていたら、私たちは自ら命を絶つか、殺されるか、全く誰からも無視されたままだったのに! もちろん、「だからこそ、私たちは〈パパ〉と闘い、〈パパ〉が『いいよ』っていうその日まで永久に闘い続ける!」と固く誓う人たちを私は全力で応援する(大切なフェースにいる人たちだからだ)。しかしその一方で、心のどこかでは、いずれ〈パパ〉と和解したその日からあの人たちすら私にとっては敵なんだろうな、と思わずにいられないのはどうしたことだろう……。
 つまり問題なのは、〈パパ〉すなわち父親(男性たち)・行政・国家に認めさせるために、当事者である私たちが、これまで享受してきた性のあり方の自由さやゆるさやクリエイティブさをいちいち手放すか、さもなければ背中に隠したまま〈パパ〉と対峙しなければならないことである。この意味で、恋愛のゲーム設計に取り組む際の最も大きな心理的社会的障壁は、ミクロには父権主義者=男性優位主義者であり、マクロには国家である。
 考えてみてほしい。私たちは〈パパ〉が「いいよ」って言う以前から、同性を愛していた。あるいは男性も女性も両方好きになった。異性装をした自分を心から愛した。生まれた時に社会から押し付けられてきた性別とは別の性を自ら選んで生きてきた。だって、自分らしく生きるために、〈パパ〉の「いいよ」なんか待ってられなかったんだもん。
 ジェンダーに欺瞞が潜んでいないか疑って、それを暴こうと試みたりもした。だって、〈パパ〉の言うことは正論に見えて、どこか私のことが見えていないような奇妙な「空白」があったもの。しかも、その「空白」について語ろうとすると、完璧主義者である〈パパ〉の逆鱗に、なぜか、触れてしまう。
 見よ! ロマンティック・ラブ・イデオロギーが機能不全になった今、なんとあちこちに「空白」が見えることか! しかし、だからと言って「〈パパ〉の大ウソつき! もう二度と信用しない!」と言い切れる人は、居ても極めて少数であろう。私はそのような生粋のアナーキストになることについて、半分は勧めたい一方、半分はしんどいからやめとけと言いたくなる気持ちを抑えられない。ただ、一時的にアナーキストであること、つまり「空白」の中に足を踏み入れ、そこにしばらくの間とどまりながら他者と、社会と、何より自分自身と深く向き合うということは、「恋愛=ゲーム」にハッキングを加えようとするハッカーたちにとってどの道避けることのできない通過儀礼かもしれない。

《効果》

 つまりは、こういうことさ。いちいち誰かの承認なんか待つな。先手を打って、こちらからやらかせ。今、すぐに。

主張15:恋愛に代わる新たな親密性のゲームをDIYしよう

《目的》

 恋愛をロマンティック・ラブ・イデオロギーから単離するための補助線としての「新たな親密性のDIY」とは何かを考察する。

《原理》

 以下の図は、ロマンティック・ラブ・イデオロギーから「恋愛」「結婚」「出産」をそれぞれ単離させた時に起こる現象を描いたイメージ図である。

以下、「ゲーム」「親密性のDIY」について述べていくが、「パートナー契約」「リプロダクション」「セックス」についてもいずれ言及する予定なので、この図は覚えていてもらえるとうれしい

 つまりはこうだ。
 主張11で、「恋愛」以外にも親密性のゲームは無数にある、といったが、実をいうとこれは言い過ぎだ。今のところ「恋愛」以外で人と人とが親密な関係を築くためのゲームは、友愛に基づく「友情」だとか、愛好するものを同じくする「ファン」だとか、住居を同じくする「ルームメイト」だとか、そういうものが挙げられる。しかし、「恋愛関係」や「家族関係」ほど密度が強固ではなく、そのゆるさ故に結婚「契約」や「子育て」にはなじまない、とみなされてきた。
 しかし、主張13で描写した未来像では、むしろゆるい親密度の関係性とみなされてきた関係性が、一躍「契約」行為や「子育て」の担い手になりうる可能性を示した。
 したがって、戦略としてはこうなる。
 親密度を(やや)ゆるくして、ルールや縛りを減らす。
 ルールや縛りを減らす代わりに、徹底して対等な人間として互いを尊重しようとする。
 縛りの少ないゆるさを逆手にとって、関係人口を増やす。
 関係人口として巻き込んだすべての人と対等に、協働して子育てや家事をこなす。
 プライバシーは守りつつ、他者に対してオープンな時間を最大化する。
 この仕組みをサスティナブルに運用できれば、何と名前を付けようが「新しい親密性をDIYした」ことになる。
 これを実践しようとする人を私は「静かなる革命家」と呼びたい。しかし、わが国で実践している人は極めて少ない。それは、この国にアナーキストが少ないからではなく、次の主張で述べる全く別の種類のアナーキスト(おそらく生粋のアナーキストでありテクノロジー・ギークでもある)が享楽としての「ミニマルな恋愛=ゲーム」を開発し、それをもってロマンティック・ラブ・イデオロギーから恋愛を単離することに未だ成功していないからである。

《効果》

 人々は恋愛に代わる新たな親密性のゲームを妄想しだすであろう。

主張16:恋愛はもっとミニマルなゲームであるべきだ

《目的》

 ロマンティック・ラブ・イデオロギーにおいて三位一体状態にあった「結婚・出産のプロセスのための恋愛」から「恋愛」だけを単離するとはいかなることか、またどのようにして可能になるのかを考察する。

《原理》

 『恋愛=ゲーム論』における私の最大の関心は、一言でいうと次のようなものだ。

「恋愛がゲーム理論的に記述可能な戦略的状況であるならば、その国の文化やセクシュアリティを問わず、あらゆる恋愛に共通した戦略や合意形成のサブセットを抽出することができるし、最小限の数のサブセットだけを組み合わせることで、数学的・経済学的に最もシンプルでミニマル、普遍的で理念的な『恋愛=ゲーム』を発明することができるはずだ」

というものである。どう具体的に数式で記述できるかは、私は今のところ関心がない。このプロジェクトにどこから手を付けていいかも、分からない。この文章で私が試みているのは、良くてせいぜい酔狂なハッカーの求人募集、悪くてただのナンセンスな言葉遊びだろう。ただ、私は先の一文で、ロマンティック・ラブ・イデオロギーから「恋愛」だけを単離するとはどういうことであり、どのようにして可能になるのか、言い尽くした気でいる。
 重要なのは以下の二点だけである。

  1. 素朴な恋愛感情の動きを見ないで、パターンや形式だけに着目する(恋愛をゲームとして単離する)

  2. 恋愛関係に入るまでと入った後でどう行動が変化するかにはこだわらず、あくまで合意形成の種類と数だけをカウントしてモデル化・数式化する

 これを考えついた時の私の問題意識を述べる。
 私の認識では、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの最も有害な点は、恋愛をクソゲーに変えたことである。
 まず、「結婚・出産のプロセスのための恋愛」は、あらゆる困難を抱える人間の人生のモードをVery Hardにした。今まで何人の人が幸せな結婚と子どものいる家庭を夢見ながら、それ以前に恋愛がうまくいかないことで挫折してきたことだろう!
 そして、ゲームとしてみたとき、「結婚・出産のプロセスのための恋愛」はあまりにも仕様が複雑過ぎる。難解な規則が羅列され、選択できないほどの無数の戦略からどう行動するか選ばされ、利得を得るのもすこぶる難しければ、合意形成に至る道も鬼のように険しい。おまけにBOSSである〈パパ〉の非承認攻撃はこれまでの積み重ねを台無しにするし……。こんなゲーム、強制でなければ誰が好き好んで遊ぶだろうか。
 確かに、ライフコースのプロセスを単純化したことについては一定の評価を与えてよい。「恋愛→結婚→出産」の流れでいいと考えるだけで、自分の人生の進路についてある程度悩まなくて済むからだ。ただし、それと引き換えに、各プロセスにおいて配慮しなくてはならない戦略や必要な合意形成の数が指数関数的に増大してしまった。ゆえに、恋愛の攻略法については今日無数のマニュアルが存在するも、誰にでも当てはまらなかったり、奇妙な「空白」があったり、飛び道具的なトリッキーな解釈によってそもそも恋愛=ゲームであるという認識すらゆがめてしまったりしてきた。
 そんなことはもうやめよう。恋愛はもっとシンプルで簡素なゲームであってほしい。その方が楽しい。恋愛がもっと簡単なゲームだったら、私たちは文字通り誰とでも恋愛できるし、素朴な恋愛感情以上の愛情が自分の中に芽生えるのを感じて、これまでフってきた人たち含め人間すべてに尊敬と愛着の念を抱くに違いないはずだ。

《効果》

 しかし、多くの人はそう考えないだろう。「最適のパートナーを探すために」恋愛をしているのであって、いつ出会うかもしれないパートナーのために大事なイチゴはとっておきたいし、フった相手なんてどうでもいい。だってそれが〈パパ〉の言う恋愛なのだから。
 おっと。そうなると私の考えはアナーキーになってしまうかもしれないな。ただ、常識は疑った方がいいぞ。私が繰り返し明確にも暗にも人々に伝えていることは「恋愛に関する常識を疑え!」。

主張の総合

 ロマンティック・ラブ・イデオロギーは恋愛に関する規則と戦略を極度に複雑にし、合意形成が極端に困難な難易度の高いゲームにしてしまった。そればかりでなく、異性愛主義に必ずしも当てはまらない愛の形を望む人々に対して恋愛文化の植民地支配を繰り返してきた。
 ロマンティック・ラブ・イデオロギー亡き後のこれからの恋愛は、手で数えられる程度の合意形成を達成すればよく、シンプルでミニマルな最小限度の取り決めで運用されるような簡単なゲームになるべきであろう。そして同時に、恋愛に代わる無数の親密性の形があってよいし、なかったらDIYすればよい。

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