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日常の中のナショナリズム

「そういう決まりだから」は理由?

フラットシェアでの話。
ドイツでは生ごみを可燃ごみと分別する文化(制度?法律ではない。罰金もない)がある。
生ごみからコンポストを作るためだ。
そのための紙製のゴミ袋も売られている。
フラットメイトはドイツの分別文化に忠実で、私はそうでもない。
特に夏は生ごみは臭くなるし、早く処分した方がいいのに、家にゴミを溜めておく感覚がわからない。

先日生ゴミの袋がなくなった。私は生ゴミのために袋を買う意味がわからず、彼らが使っていない大きめのタッパーがあったので「これを次回から生ごみケースにしない?再利用できるし」と提案したけど、彼らは「このタッパーはまた今度使うかもしれないし、食べ物を入れるかもしれないケースにゴミを入れたくない」と。

彼らといると、私はミニマリストだと自覚する

「使うかもしれない」ってその時はいつ来るの?
彼らはものを溜め込む癖があるらしい。玄関にずらりと並んだ履かない靴、コート。一切使わないけどキッチンにかかったどぎついエプロン。バスルームの共同スペースに置かれた未開封のスキンケアグッズ。
ミニマリストとして生きたい私には信じられない。


また生ゴミ袋の話に戻る。私は「生ごみを分別する理由がわからない」と伝えると、一人は、議論で私を言い負かすかのように「自分の出身国でもそうだった。ドイツ人もそのルールに従っている。このようにしてことが運んでいる。だから従わなくてはいけない。」と。プラス「生ゴミと普通ゴミ分けることでゴミを捨てに行く回数が減る」と。

どっちにしろ頻度は変わらないと思う。彼らがいっぱいゴミを出すのに、私はゴミを出す量が少ない。なのに私はゴミ係で、彼らのゴミのために外に出る意味がわからない。

何より気に掛かったのは、「そういうルールだからそうやっている」というargument。それ理由になるの、と思った。
ルールがあるから従うの?ルールは絶対なの?
ルールがあれば、あなたは自分の頭で考えるとかしないの?
あなたは自分の人生を生きてるの?地方共同体、国のルールのために生きているの?

言い返さなかったけど、「あああなたは大多数に従って、自分では考えない人なのね」と思った。

都合のいい時だけ登場するナショナルアイデンティティ

その人はドイツ出身ではないし、ドイツ語もあんまり話せない。「ドイツ料理は美味しくない」「ドイツの人は冷たい」「ドイツのファッションは・・・」とか、あんまりドイツが好きではないコメントを耳にする。

なのに、ゴミの分別に関しては、出身国とドイツを持ち出して、自分の意見を正当化させようとする。

私は自分のアイデンティティを国籍に求めることがよくわからない。それは私がノマドとして生きたいと思うからなのかもしれないけど、
例えば「私は日本人」と思うと「日本人はこうあるべき」が頭の隅にインプットされて、その枠内に従って行動することになり、自由に自分らしく生きられなくなると思う。
「私は大学生」「私は女性」「私は20代」。こういうカテゴリにアイデンティティを求めることもそうだと思う。

国籍を超えて個人で向かい合うこと

前からなんとなく思っていたけど、
その人は古風で、伝統や権威を重んじるというか、
真面目でユーモアにかけるところがある。
思いがけない、自分の常識と外れたコメントを私が発すると、
「理解できてない」みたいなのがすぐ顔から読める。
権威とか、常識、大多数派、社会の目を気にする。
私が地元で小さい頃見てきた大人に似ている。

その人は変えられないけど、私はその人といて違和感を感じるたび、
私が国籍とかそういうカテゴリ系のアイデンティティを飛び越えて個人として人と向き合いたい、と思う。
マジョリティとかに責任・前例を求めず、自分の道を自分の責任で切り開く。
だからその分クリエイティブで、自由で、ユニークに輝けて、ワクワクする。

受け取るかどうかは人の自由として、ステレオタイプとか常識を疑って、枠とかシステムを取り払っていく。そう生きていきたいし、そういう生き方もあるんだよってことを伝えたい。

あと半年ほどで大学生活も終わるし、その頃には仕事も見つかり、
次の住まいを見つけていると思う。

フラットメイトよ、私について内省する機会を与えてくれてありがとう。

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