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応答せよ!2000 韓国ポップスとことば :野間秀樹 『月刊しにか』大修館書店 2001年9月号 所収

韓国ポップスとことば

   野間秀樹(のまひでき)

*「応答せよ! 1997」などという韓国ドラマがヒットしました。この拙文は謂わば「応答せよ! 2000」といったところです。かの素晴らしきBTSなど今日のK-POPの栄光の、20年前の淵源を垣間見て、懐かしむひとときを。なお、この文章の掲載誌『月刊 しにか』(大修館書店。2001年9月号。pp.114-117)にはユ・スンジュン、オム・ジョンファ、チヌ=ションのCDのジャケットの写真が掲載されていますが、ここでは割愛しています。また、僅かな字句の変更を施しています。

 ここ数年来,韓国のポップスが日本でも注目されるようになった.今や日本にも韓国の歌手たちのファンクラブができ,ヴァージン・メガ・ストア,HMV,WAVEといった大型CD店には韓国のCDが並び,インターネット上でも韓国ポップスの話題にはことかかない.韓国語のあちこちの市民講座を覗けば,韓国音楽にのめりこんでいる学習者が10人のうち,1人や2人は必ずといっていいほどいる.書店では『HOT CHILI PAPER(ホット・チリ・ペーパー)』(H.E.D.出版局刊)という韓国ポップス・映画の専門月刊誌や『K-POPSTAR(コリアン・ポップスター)』(マガジンランド刊)という季刊誌まで売られている.韓国ポップスは,一部の言わば好事家たちの世界から,一般の若き音楽フリークたちの世界へと,急速に浸透しつつあるのである.同時に,チョ・ヨンピルやケ・ウンスクのような演歌歌手ではなく,宇多田ヒカルや椎名林檎といった感覚で,韓国の若き歌手たちの歌が好まれるようになったことも注目に値する.日本語圏で受け入れられる韓国音楽は,演歌とナツメロ一色であった感性から,同時代の感性へと,完全な変革を遂げた.
 同時代の若き人々の感性がそのまま互いに理解できる事態というのは,日本と朝鮮の歴史を見れば,驚嘆すべき事態である.少なくとも感性にあっては,国境を越え,言語を超えて,音楽に聴く人々の身体が反応しているのである.

 韓国ポップスは,1990年代に入って,ソ・テジという人物の出現によって変わった.マイクの前で歌を聞かせるだけの世界から,ステージの内外を貫く,エンタテインメントの世界へと,歌の存在しうる領域を一挙に拡大してしまった.ラップを事実上,韓国語に定着させたのも,ソ・テジである.フランス語と韓国語ではラップはできないと言われていたのに,ソ・テジがやってのけたので,その後フランスでも行われるようになった,というようなまことしやかな話まであるほどである.その後,デュース(DEUX)という二人組などを中心に展開されたヒップ・ホップの隆盛を経て,ラップは韓国ポップスのアップテンポの曲には不可欠のものとなった.バラードとよばれるスローテンポの曲にまで,ラッパーがついていることも珍しくない.2000年紀に入った今でも,ラップは韓国ポップスを彩りつづけている.

 さて,韓国に比べれば,ラップは日本ではほとんど流行しなかったといってもいいほどである.これには言語音の構造にもかかわっているように思う.日本語の音節構造はほとんどが母音のみか,子音+母音という,開音節の単純な構造で,子音+母音+子音という閉音節構造が頻出する韓国語とは,音の密度がひどく異なっている.日本語では,ラップにおいて,いくら速いテンポで開音節を並べ立てても,いかにも間延びしてしまう.
 これに加えて,いわゆる脚韻を踏むラップの歌詞づくりも,韓国語では見事である.日本語の歌詞では,一般に脚韻というスタイルは好まれないのか,歌詞に凝る作詞家の作品に,稀に見える程度のような気がする.そういう意味では,宇多田ヒカルなどは脚韻というスタイルを自家薬籠中のものとしていて,日本語の歌詞の伝統から大胆に踏み出している.韓国語では,例えばチヌションという二人組の『マレジュォ(言ってくれ)』という曲のラップの強引な韻の踏ませ方などは,圧巻である.その後,英語と韓国語を混ぜて脚韻を踏ませるなどということもしばしば行われている.『A-YO!(エイヨー)』なども聞いてみたい.『コージンマル(嘘)』というバラードで全編にラップの掛け合いを見せたg.o.d.(ジーオーディー)というグループは,メインボーカル1名にラッパーが4人もいる構成である.高速・高密度で展開し,脚韻で締めていく韓国語のラップの響きには聞き手の感性はいやがおうでも反応する.

 S.E.Sという女性3人グループは日本でも人気が出た.コンビニでCDを売っていたのにはさすがに驚いた.日本のCMなどで活躍し,現在注目されているBoA(ボア)は14歳の少女である.フォーク系のものなら,キム・ミンギやヤン・ヒウンといった,70年代からの歌手たちは,日本でもファンが多かった.『アチミスル(朝露)』はその代表曲である.現在のポップスの中でも,フォーク系のものは,日本でも更に広く受け入れられている.例えば東京外国語大学では26の言語の概説のリレー講義があり,今年度は600人ほどが聞く大講義になっている.朝鮮語の時間にイルギイェボ(天気予報)というグループの『チョア・チョア(好きだ,好きだよ)』という曲を聞いてもらって,「はい,この曲がよいと思う人!」と尋ねたら,500人ほどがワーッと手を上げていた.壮観である.ギリシャのアクロポリスの丘で,「アテナイ人諸君,この曲どう?」と聴いたら「異議なし!」と聴衆に答えられたような心境になった.この曲『チョア・チョア』は,1996年,韓国の街という街を埋め尽くしていた大ヒット曲である.また,ユ・スンジュンの『ナナナ』は,1998年の前半は韓国全土がこれで燃えたと言ってもいいほどの大ヒット曲である.この『ナナナ』という曲名も,ふと人を考えさせるような曲名である.しいて言えば,いかにも外来の音である「ラララ」を――元来,ラ行音で始まる音は朝鮮語の固有語にはなかった――韓国固有の音の「ナナナ」にして,しっとりと濡れた艶をつけたといった趣である.教生役の女優チェ・ジウと暴走族の高校生ユ・スンジュンの淡い恋物語に仕立てられているこのビデオ・クリップは,我が朝鮮語の入門の授業では定番になっている.学生の何割かは,これ1本で朝鮮語学習への動機付けが完璧に形成されるのである.ちなみに,韓国ポップスのビデオ・クリップは,これ以降,ストーリー仕立てのものが激増したように思う.チョ・ソンモなどは雪の札幌でロケを敢行している.雪の中で自転車に乗って!
日本の歌手でも韓国語を操る者まで現れた.SMAPの草彅剛は韓国語を話して韓国でも人気である.一昔前では考えもできなかったことである.

日本語と韓国語を交えてラップに興じる少年たちが,少女たちが,見えるだろうか? 時代の感性は日本と韓国を更に近づけようとしている.あとは我々の旧態然たる思想と感性を鍛えなおすだけだ.

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