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驚異! 文字のガラパゴス列島 --野間秀樹著『日本語とハングル』文春新書から

*この文章は,文藝春秋刊行,文春新書の973,野間秀樹著(2014)『日本語とハングル』の「第2章第1節驚異! 文字のガラパゴス列島」の抜粋です.試し読みにどうぞ.
 なお,原著は縦組みです。横組みのこのnoteでは読みやすくするために、原文のゴシック体表示を一部変更しております.また,見やすいように,1行空けたところがあります.原著のふりがなは( )にしています。
*新書版は現在、入手困難ですが、電子書籍版もあります。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00LPBTLO4

第2章 ハングルから日本語の音(おん)と文字を照らす--文字のガラパゴス列島を行く

2-1 驚異! 文字のガラパゴス列島

絢爛たる〈エクリチュール=書かれたもの〉の驚異


 数千を数える世界の言語の中で、日本語の特徴は? 他言語の世界から見たら、驚異の以外の何物でもない、それが、日本語における文字のありようです。人文学の世界では、〈書かれたもの〉や〈書くこと〉を〈エクリチュール〉ということばで表すことがあります。フランス語からとり入れた外来語ですが、文字によって書かれるさまざまな営みを考えるのに、なかなか便利に使われています。
 日本語の世界は、まさにエクリチュールの驚異と言ってよい。文字を用いるありようが、実に多彩、まさに絢爛豪華なゴシック建築とも言えそうな、巨大なエクリチュールの空間となっています。

日本語の文字をめぐる絢爛豪華=エクリチュールの群雄割拠カテドラル


 仮名、漢字。万葉仮名に変体仮名。アラビアではインド数字と言っている、アラビア数字の1, 2, 3。ローマ数字のI, II, III。もひとつおまけに漢数字。ラテン文字、別名ローマ字abc、大文字小文字入り乱れ、忘れてならないギリシャ文字、α(アルファ)β(ベータ)、γ(ガンマ)δ(デルタ)の大文字は、聞かれて難しΩ(オメガ)かな。振り仮名、読み仮名、送り仮名。音読み、訓読み、音訓を、並べて読めば、重箱(ジュウばこ)読み、訓音並べて湯桶(ゆトウ)読み。修行(しゅぎょう)、言行(げんこう)、行脚(あんぎゃ)行(ゆ)く。呉音、漢音、唐宋音。縦書き、横書き、散らし書き。明朝、ゴシック、勘亭流。王羲之(おうぎし)、仮名書(かなしょ)に、ペン習字。

 仮名や漢字やアラビア数字などを用いるだけならともかく、漢字の読みも幾通りもあり、さらに〈書〉という芸術まであります。
 このように日本語の世界は、およそ文字に関しては、絢爛たる文字の群雄割拠カテドラルとも言うべき様相を呈しています。上代からの様々な文字の仕様と使用が生き生きと保存されています。日本文字列島はまさに文字のガラパゴス列島と言えるでしょう。おお、誤解なきよう。これは「ガラケー」=「ガラパゴス携帯」などのように卑下して言うのではありません。言ってみれば、文字をめぐる世界遺産が活火山のように今も息づいている驚異の象徴です。

〈書かれたことば〉のマルチ・トラックを実現する極限の離れ業(アクロバット)=振り仮名


 〈振り仮名〉一つ見ても、生活(せいかつ)、一生(いっしょう)、生(い)きる、生(う)まれる、生(お)う、生(は)える、生米(なまごめ)、生憎(あいにく)、生一本(きいっぽん)、などというのは生粋(きっすい)の振り仮名で、まあ素直な方、漫画などでは、先生(あいつ)、先生(センコー)、先生(あかひげ)などという離れ業もあり、これを極めるのは至難の業、往生(おうじょう)せいや、ってなところです。非日本語圏からやって来た人々が、日本語を学ぶ苦労も偲ばれましょう。明治時代などの書物、全ての漢字に振り仮名が振ってある、いわゆる〈総ルビ〉の本の存在理由(レゾンデートル)もおのずからわかるというものです。

 この振り仮名が文字論にとって凄いのは、単なる〈読み仮名〉ではないというところにあります。こう読め、と指示しているだけではない。「先生(あいつ)」などという振り仮名を見ると、よくわかります。「先生」という文字と、「あいつ」という文字の両方、謂わば読み手に一度に二トラックの文字を読ませている仕掛けなのですね。振り仮名とは、二つのトラックの文字を一度にブレンドさせて受け入れよ、というプロトコル=規約でもあるわけです。さらにこうしたダブル・トラックだけでなく、三(トリプル)トラックもありえます。本書でもまま用いているのですが、「周時経(チュ・シギョン/しゅう・じけい)のように、文字の左右や上下にもルビを振ることができるからです。

 実は、複数の人が一つの言語場で語りあう〈話されたことば〉は、原理的にマルチ・トラックでことばが実現します。二人の対話なら、AさんとB君のことばが同時に実現したりするのです。Aさんが「だからね、問題はね」と言っていることばに重ねて、B君が「そうじゃなくてね、大事なのはね」などと言う。これは例外的に話が重なるのではなく、〈話されたことば〉においては、原理的に、もともと複数の人の会話が対位法的に実現する仕組みになっているわけです。

 これに対し、〈書かれたことば〉ではトラックは基本的に一本しかありません。書かれた文章は常に一つのトラックが延々と続いていく仕組みです。それを部分的にせよ、謂わば無理矢理複数トラックにするのが、振り仮名の原理的な仕組みなのです。もし最初から長い文=センテンス全体を二行に書いたら、それはダブル・トラックにならず、結局、事実上は一行ずつ別々に読むことになってしまいます。瞬間のように感じられる短い文字列に振るので、振り仮名が部分的なダブル・トラックを実現するのです。〈書かれたことば〉が原理的には単線的であるという性質があるからこそ、可能なことなのです。

ハングルの世界の〈振りハングル〉〈振り漢字〉


 ではハングルの世界に振り仮名はないのか? ……

*小説家の池澤夏樹先生が、2014年6月8日『毎日新聞』朝刊書評欄で「言葉使い生き生き 得心いく言語論」というタイトルで『日本語とハングル』の書評をお書きくださっています。そこではこんなことばで紹介してくださいました:
「日本語についての、言語一般についてのこの無類におもしろい本」

----『日本語とハングル』目次----


はじめに
第1章 ハングルから照らすアングル
    ――いい按配の構図

1-1 文字か、言語か?
1-2 言語と国と民族と

第2章 ハングルから日本語の音(おん)と文字を照らす
    ――文字のガラパゴス列島を行く

2-1 驚異! 文字のガラパゴス列島
2-2 音から文字へ――仮名、ローマ字、漢字
2-3 ハングルは仮名みたいなものじゃない――我が身を顕(あら)わに
2-4 仮名と訓読み――極限用法への道

第3章 ハングルから日本語の語彙を照らす
    ――単語の饗宴・単語の迷宮

3-1 語彙のレイヤー ――やまとことばアマルガム
3-2 固有名詞の魔窟――何でそう書くの

第4章 ハングルから日本語の文法を照らす
    ――西欧語文法よ、さようなら

4-1 語順を制する者が、文を制する――文の相似形
4-2 助詞が微笑む――てにをはの落としどころ
4-3 主語はお入(い)り用(よう)ですか
4-4 猫である。――同定詞の〈である〉ファミリー
4-5 日本語形態論をハングルで解剖する

第5章 ハングルから日本語の〈書かれたことば〉を照らす
    ――文体万華

5-1 〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉――全然違う!
5-2 韓国語の〈書かれたことば〉
5-3 日本語の〈書かれたことば〉の質感(テクスチュア)――見るほどに

第6章 ハングルから日本語の〈話されたことば〉を照らす
   ――えっ、私、こう話してた?

6-1 〈話されたことば〉はマルチトラックだ――ね、聴いてるの?
6-2 誰も見たことのない〈話されたことば〉を覗く

おわりに――始めるために
ハングルの字母表

野間秀樹(2014)『日本語とハングル』文藝春秋:
https://www.amazon.co.jp/dp/B00LPBTLO4
ISBN‎ 978-4166609734

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