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宮部みゆき「過ぎ去りし王国の城」

こんにちは、Nollです。

最近、少しあることに引っ張られててやばいと思ったので、引っ張り戻すために文章を書くことにしました。「あること」というのが、YouTubeで「リトルナイトメア」というゲームの実況をついつい見てしまうことです。そんなこと?と思う方もいるでしょう。が、時間を見るとだいたい30分くらい気を取られていたことになります。自分でやるというのはまず無理です、下手な上にそれこそ時間がかかるのが目に見えているからです。それで楽しければいいのではというのもあるかもしれません、個人的にはまずいのです。そりゃもう、ね。
先日書いた記事の「時間について」でセネカの時間=財産としたのに思考を変換したとき、「なりかわりについて」で自分の時間を違う誰かに取られているとしたらと感じたとき、これってどうよと行ったことに対して振り返り、比べた時私には下向きだったのです。
見ているときはその作りとか、怖さとか、発見とかに対して何も考えないで見て居られたけども、終わってから凄くしまったと後悔しました。
構造や登場人物の不気味さ、悪夢(狼)追いかけられる羊(主人公)のような食うか食われるかの追いかけっこ。謎解きミステリー。
恐怖が娯楽になっている。私があ、やばいと思ったのはまさにここです。「怖い」という本能を刺激して、もっと見たいもっと気になるこの先どうなるというのを誘発していくところです。ほかのゲームなら、敵を倒していく、レベルを上げる、という感じです。大本になるのは達成感や爽快感を脳にダイレクトにプレゼントすることです。そうすると、脳はより多くの快が欲しいぞと逆に要求してきます。きりがないです。娯楽は基本はそもそも気分がいいという風になれるように作られるから、どんなものであれ何らかの余韻はあるものだと思っています。楽しかった、つまらなかったなどはその中身といえると思っています。


「読書について」を書かれたあの大先生はこう言ったことがあります。「良書は読みすぎて読みすぎることはないが、文学の中には悪書が多くあり、それは読者のお金や時間と労力をむしり取るようなものである。」「読者の精神に害を成すもの。」と。
もっと短縮していうと無駄なことはしないに限るというのです。これは本にも限らずに多くのものに言えると思う。うん、今でもかなりずけずけと心に刺さってきます。

さて、前置きが思った以上に長くなってしまいました。このゲーム動画反省した時に、過去に読んだ宮部みゆき先生が書かれた「過ぎ去りし王国の城」という作品が頭の中に内容も含めて浮かんできました。

中学3年の尾垣真が拾った中世ヨーロッパの古城のデッサン。分身を描き込むと絵の世界に入り込めることを知った真は、同級生で美術部員の珠美に制作を依頼。絵の世界にいたのは、塔に閉じ込められたひとりの少女だった。彼女は誰か。何故この世界は描かれたのか。同じ探索者で大人のパクさんと謎を追う中、3人は10年前に現実の世界で起きた失踪事件が関係していることを知る。現実を生きるあなたに贈る、宮部みゆき渾身の冒険小説!

裏表紙にある引用をそのまま引っ張らせていただきました。自分の分身が入れるデッサンの紙というのをもっと身近なものに変えてみたとします。今、大人気な作品がたくさんあると思います。では、そこに入り込んで逆に現実へ戻ってきたときなんのダメージは全くなかったでしょうか、具合はどうだったでしょうか、気持ちはどうでしょうか。自分は現実で生きようと思えるでしょうか。

少なくとも私はそうは思えなかったので、無駄なことをしないを増やす練習をしていこうと思う。自分が一歩ずつ前に進む方法は如何に重荷を減らすか、だと思います。少なくとも古典作品はそれを手助けしてくれる無敵の教材だと思います。



余談ですが、この作品の中にA.E.コッパードが書いた「過ぎ去りし王国の姫君」という作品が登場します。こちらのタイトルはもっと古い時代に書かれた話なので、気になった方はぜひご一読を


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