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求めるところに価値があるのか


何をやればいいのかわからなくなる。

好きなことで生きていこうとする時の、これって意味あるのという問いに対しての答え。


意味を求め出すと迷宮入りするからしないようにするんだけど、じゃあなんでするのかって?


やりたいからやっている。それしか残らない。その楽しさの中に入っている時が心地よいからやっている。

でも、その先に道が続いていないとしたらそれまで。

どこに向かえばいいのか不安で押しつぶされる。


高いコンフォートゾーンを設定することによって、自分はできると言い聞かせる。しかし、その現実が目の前にあるだけという認識。

自分はできると追い込んで一生懸命やる先に、手に入れたい理想はあるのだろうか。


そんなオールを必死に漕ぐのも嫌になって、全て手放してどうでもいいやという状況にしてみる。


とても身軽になった。のは一瞬だけだ。何してるんだろうっていう疑問が生まれてくるんだ。そしたらやりたいことやるしかないからやるんだけど、これって結局同じじゃんっていう。

やりたいことやってますけど、この先どうなるのっていう不安をどう解釈すればいいのだろう。


全てがただの自己満で、やりたいからやっているというその世界に魅力を感じる人なんているのだろうか。


認めてもらいたいからやっているわけじゃなくても、物理的に生きていこうとした場合このエネルギーの変換をするには関わりが必要だ。

ここの変換が行われるのかわからなさすぎる。

やっています。やっているけど、それで何になるというのか。


価値にとらわれすぎるというのもまたおかしな話だと解釈する。無駄なことにも魅力はもちろんある。それをどう影響させればいいのかわからない。

みんなそこにもがいてるんだから、いわゆる普通に生きるのと変わらないじゃないかとさえ思う。


やりたいことだけで生きる先に希望を持ち続けたらたどり着けるのか。


そんな変人に価値を見出してくれる人はいるのだろうか。人を避けるように生きてみるものの、ここの関わりかたで左右されるのかという疑問をどう払拭すればいいのだ。

個性だの独自の世界観だのというものの、ただ一人で踊っているだけの楽しさと虚しさのコンビネーションに人は価値があるとするのだろうか。


みんなが求めているものは大体こんな感じだよねとか、人間の心理的に惹かれるのはこれだみたいな。そんないわゆるマーケティングに頼らないといけないのだろうか。

いかに認知させられるか、いかに欲求を刺激するか。

そこに疑問を持ったとして、次どのように展開すればいいのだろうか。


あいつ何やっているんだと思われたままで、本当に何やっていたんだという悲惨な未来。そうならないために、今やるべきことをやっている。

楽しい波動を選択し続ければいいというものの、その先がただ楽しいだけに終わりそうで恐い。


何もないところから価値を生み出していくという無価値創造という遊び。


誰もがそれで生きていけるようになるにはいつになるんだ。先駆者ってしんどいよな。誰かの後ろに立っていた方が楽だ。

でも、どこにいようが苦労がある。

生きること自体の苦しみを乗り越えた先の遊びに熱中する。


あぁ今日もとりあえず生きている。


あなたはそれをした先に何を求めているんですか。




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意欲の波が激しいタイプの人間です。常に一定に保てる人が羨ましい。何もしないを選択しているだけであって、内部は荒れまくっているという。ドクドク。


傍観者の戯論



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