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コロナ禍の社会性

誰にも会えない日々のなかで、ひたすらに自分と向き合いながら過ごしています。家の外は、コロナ禍でいろいろなことがぎすぎすとしてしまっているなあと思いながら、そのことについても少し考えてみました。

とりあえず、体調を崩すのが今まで以上に怖いので、体調管理に気を遣うようになりました。「こんなに必死に体調管理をしたって、どうせ仕事にしか行けないのに」と虚しくなってしまった時期もあったけれど、自分に必要なカロリーや栄養のバランスを考えて食事を摂るようにしたら、今までしばしば感じていた身体のしんどさが無くなって、健康の素晴らしさを実感しました。外食も、友人と家で食事をすることも制限されてしまったので、ありあまる時間を使って料理をするようになりました。作れるものが増えていくと、自己肯定感も少し高まりました。ひとり暮らしを始めた時も、就職してからも、自炊をするようにならなかった私が、八百屋さんでお買い得品を見つけて心躍らせる日がくるなんて、今でも信じられません。

それから、これは私だけではないと思うのですが、どこへも行けず、誰にも会えずに家でじっとしていたら、孤独に押しつぶされそうになって、仕事やニュースの内容なんかのもやもやすることがいつまでも頭のなかをぐるぐるとまわり続けて、精神的におかしくなりかけました。このままでは病気になってしまうと思ったので、ランニングを始めてみました。ランニングにした理由はお金がかからないからです。走って、走って、肺が痛くなるくらい必死に息をして、疲れた手足を前へ前へと動かし続けるのはとても辛いけれど、身体の苦しみでいっぱいいっぱいになっていると、社会情勢や自分の精神的な部分はそこまで気にならなくなりました。はじめは現実逃避のつもりでしたが、走り終わると頭も心も少しすっきりして、ひとつのことで頭がいっぱいだった時よりも、冷静に物事と向き合うことができるようになりました。自分がいかに感情的になっていて、理性的な判断が難しい状況にあるかは、抜け出してからでないと分からないなあと感じました。

きっとおんなじような状況に陥ってしまっていて、そのせいで他人を傷付けてしまったり、自分の身を危険に晒してしまっている人が、今数えきれないほど沢山いると思います。

独りで過ごす時間が増えて、他人との関わりが減ってくると、他者への関心が薄くなってきます。自分のことしか考えなくなると、他人の事情や感情を慮る社会性が失われて、平気で人が傷付くことをしてしまうようになります。面と向かって話す機会が減ったことで相手の感情が伝わりづらくなっただけでなく、顔の見えない相手とSNSで関わる機会が増えて、攻撃的な言葉を発する人が増えたように感じます。

情報化社会でありながら、文献や論文よりも、情報に偏りのあるニュースやインフルエンサーの発信する情報が幅をきかせている点は、日本の恥ずべき部分だと思います。根拠のある情報よりも自分に都合の良い情報にすがりついて、考えることをやめてしまった人は、冷静に考えれば危険だと分かることも平気でしてしまうので恐ろしいです。それが自分だけでなく、周りの人や自分の大切な人を危険に晒していることには、きっと何かを失ってみないと気付かないのでしょう。

他人の考えに触れたり、意見をすり合わせるような機会が減ってしまって、自分の考えを主張するだけの人ばかりになると、それらの考えは物事を良くしていくどころか、今あるシステムをひたすら潰すだけになるでしょう。相手を攻撃し、潰すことが目的となってしまってる言葉は、破壊こそすれ、何かを生み出すことは決してありません。

コロナ禍がつくり出した今の環境が、人を孤独にして、社会性を奪っているのですから、誰のことも責めることはできません。ただ、社会性を失った猿のように、このまま破壊を続けていけば、状況は悪くなる一方で、結局は自分が苦しむことになります。人に会う機会は減りましたが、私達はみんな社会を構成する1人の人間です。そのことをどうか忘れずに、1人でも多くの人が、自分自身と向き合い、自分の気持ちを大切にしつつ、理性的な判断と行動ができるようになりますように。

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