原始仏典『スッタニパータ』を読んだので、少し考察してみる

『スッタニパータ(光文社古典新訳文庫版)』を読み終えた。仏教に関心を持っている人なら知っている人が多いであろう、現在の仏教学的には最古の経典とされるこの『スッタニパータ』だが、読んでみて、成程これは最古だとしても不思議ではないと思った。文章には極めて単純さを感じ、その単純さに仏教の原理を感じた。しかしそれ故に抽象的だと感じる部分も多く、きっと多くを語っているのだろうけど、極めて難解な経だとも思った。具体的にその難解さを述べると、結局悟りへ至る道は思う様に得られなかったのである。

私の解釈では、この経で何度も語られていたのは"涅槃像"である。つまり、涅槃に至ればこうなって安らかである、と云う事を淡々と述べている箇所が多かった。それ故にこの経を読んでみて、涅槃に対する憧れを持つ方は多いのではなかろうか。しかしその涅槃像はあまりにも理想的で、現実味を感じられなかった。"抽象的"と先に述べたのもそこで、非常に理想的な涅槃像は示してくれるのだけども、それに至る道筋はあまり示してくれず、全体的に眺めるとどうしても抽象的な表現の連続に映ってしまった。

ただ、涅槃に至った人物像の中には面白い光景もあったので、やや強調して紹介したい。ここで云う「涅槃に至った人物」とは(当然とも言えるが)釈尊な訳だが、その釈尊は、真理を説いた、つまり何かを与えた人から何か布施を受ける事をしばしば明確に拒否していたのである。何かをした対価としての報酬を受け取る事を拒んでいた。それは解脱者の行いでは無いとか、そんな事も述べていた気がする。これを単純に解釈すると、市場に関わる事の否定とも取れると思う。涅槃に至った人物にとって、市場社会は忌避されていたのである。「私は田を耕さない」とかそんな事も述べていた記憶がある。

更に述べると、そうやって真理を説いてくれた事に感謝をしてお粥の様な食べ物を釈尊に渡そうとしている人に、私はそのお粥は要らないから"捨てろ"、と述べるシーン等は強烈であった。これの真意は測りかねるが、経の中ではそのお粥は実際にちゃんと捨てられたのだから興味深い。この事からもわかる様に、原始仏教的に称賛されていた経の内容は、所謂現代日本人的な道徳からはかなり逸脱している可能性がある。涅槃に至った人物が、俗に言われる『聖人』であったかどうかは、研究のし甲斐がありそうだ。

しかし、ここでまた一つ疑問が浮かぶ。以前、中村元先生の『原始仏典』を読んでいて、その時に漢訳で所謂『法句経』と呼ばれる経典の一部に触れたのだが、その一部を読む限りだと、その内容は恐ろしい程に社会的で、協調的で、現代道徳的に感じた。同じぐらいの時期に成立したとされる『スッタニパータ』と『法句経』であるが、何故ここまで内容に差があるのか、興味深い。仏法研究に底は無い。

因みに今は『大乗非仏説をこえて〜大乗仏教は何のためにあるのか〜』という本を読んでいる。私は本来大乗仏教の思想が素敵だと思っていたのだけど、この所原始仏教にばかり触れていたので、そのせいか大乗仏教に対してやや懐疑的になって来てしまった。所謂「大乗非仏説」にかぶれたのである。しかし歴史的に大乗仏教も多くの人に安らぎを与えて来たはずで、その点からやはり素晴らしい思想なのだろうと云う憶測は揺らがず、この『大乗非仏説』という命題に正面からぶつかってみたいと思ったから、この本を読んでいる。

しかし、完全にただの嘆きなのだが、現状私の周りでは仏法について語れる人物がほぼほぼ居ないので、とても寂しい。マルクス主義や歴史の話題を共に楽しめる人は何名か居るが、仏法に関しては居ない。なので、仏教仲間を絶賛募集中である。仏法に興味を持ってくれる人が増える事を祈る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?