大乗仏教は、歴史的人物釈尊の仏説ではない〜権威を超えて〜

大竹晋氏の『大乗非仏説をこえて〜大乗仏教は何のためにあるのか〜』を読んだので、その感想を述べる。尚、本の紹介としての文章でもある。大乗仏教とは何か、原始仏教や部派仏教とは何が違うのか、と疑問を持っておられる方は是非この本を購入してみてほしい。

まず、やはり大乗非仏説はある意味で正解だと私は思う。もっと具体的に、かつはっきりと言えば、歴史的人物釈尊の教えからは逸脱している。大乗仏教の思想に、歴史的人物釈尊の思想に則ろうと云う意識を感じられない。

まず、歴史的人物釈尊の人生を振り返ればわかるが、彼は利他的な精神をあまり保有していない。利他的精神は釈尊の人生に於いては"ついで"であり、根幹ではない。そもそも、彼は妻子を捨てているのだ。更に、原始仏典である『スッタニパータ』を読んだ限りでは、釈尊は、涅槃像に関しては熱心に説き、涅槃に至る事を勧める事はあっても、利他的な精神を積極的に勧める事は無かったと私は記憶している。歴史的人物釈尊の説いた仏説はあくまでも『自利』の為の仏法である。これは、釈尊の人生からも、釈尊に近い人物の証言からも、読み解く事が出来る。

それに対して、大乗仏教は『菩薩』の登場等からもわかる様に、『利他』の思想が非常に多い。つまり、自利よりも利他を説いている時点で、もう根本的に歴史的人物釈尊や原始仏教の思想からは逸脱しているのである。そこには、利他的精神に依る、歴史的人物釈尊の権威否定がある。私は、涅槃に至る途中で利他行を捨て切れなかった人物が部派仏教の中に多く居た為に、部派仏教の一つの部派として成立したのが巨大な大乗仏教教団なのではないかと考えている。つまり、悟りの完成には利他行が必須だと考える人達が多く居たのである。

涅槃を目指すと云う目標は諸派共に同じだが、その過程が全く違う。大乗仏教は、歴史的人物釈尊の様な涅槃に至る過程を否定し、自ら涅槃に至る過程を設定し直した、原始仏教部派仏教とはまた別な、新しい宗教団体である。この、利他故の権威否定と云う強烈さが、独立宗教大乗仏教なのではないか。権威否定をするならば、最早『大乗非仏説』等痛くも痒くもない。大乗仏教は、『仏説』と云う権威に拘らないのだ。

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