他力に縋ろうとしたら眠気に襲われた

例のスーパーのイートインに居る。今ここで、大きな窓から降り注ぐ西陽を浴びながらとある本を読んでいるのだが、如何せん、またまた難しい本に当たってしまい、更にこのポカポカ陽気であるから、眠たくて堪らない。普段は500ml51円の緑茶一本を購入してここに居座るのだが、その一本では眠気覚ましにならず、加えてホットコーヒーを一杯購入してしまった。尚、それでも眠い。ただ一応最後まで読みたいので、なんとか読もうとは思う。

なんとか本を読みたい理由はもう一つあって、久しぶりに、このスーパーからの帰り道で夕陽を眺めたいのである。此頃は、太陽が傾くと途端に気温がどんどん下がり始める。そうして、このスーパーに向かう為に歩いていた時間帯の気温とは随分と違う気温に身を包まれながら、広い空と共に夕陽を眺めたいのだ。なのでもう一時間程、読書をしたりしてこのイートインに居座りたい。

因みに、述べるか迷ったが、読んでいる本は『教行信証(本願寺出版)』である。この前、法然の『選択本願念仏集』を読んで、それなりに面白く読めたので、ならば次は親鸞の『教行信証』をと思ったが、今の所、信心は然程湧き上がって来ない。私の様な凡夫には、『歎異抄』ぐらい噛み砕いてもらわなければ、真宗の教えは難しい。此頃、自力に対する不信、他力に縋る生き方への憧れ、これらが私の中で強くなっているので、もうひと押し、衝撃的な提案が真宗から欲しい。成程、自力では何事もどうしようもないのである。しかし、他力に縋ろうとしても、果たして本当に正しく縋れているだろうか、と疑問を持たざるを得ないし、第一、弥陀の本願の有り難さがイマイチ実感出来ない。その有り難さに触れれば、即ち往生間違い無しと感じれば、もっとこう、喜びが沸き起こって来て然るべきだと思う。『歎異抄』では、親鸞が「煩悩のせいで本願の有り難さがわからんのや」みたいな事を言っていた気がするが、親鸞は、本当にそんな境地で生涯を終えたのだろうか。

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