大きな玉ねぎの下で(11)
亜紀も学生時代の話を思い出しているようだった。亜紀と夜行バスで会ってからずっと気になっていることがあった。子供がいるということは結婚をしているのだろう。でも、とてもそうとは思えなかった。はしゃぎ回る学生の時の亜紀のままだった。何かわからぬ違和感を感じていた。
「たくちゃん、ここ覚えている?」
「あ、ここで写真を撮ったよな」
「そうそう、たくちゃんがブロンズ像に並んで撮るって背伸びしたり、頬を膨らませて顔を野球のボールみたいにしたりしていたよね」
「そんなことしていたかな?」
僕は、その時のことをはっきりと覚えていた。亜紀は茶系で大きめのカーディガンを着ていたこと、靴は今日と同じ白いスニーカーだったこと、今まですっかり忘れていたことなのに、こんなに鮮明に思い出している自分が不思議だった。それでも、素直に「覚えている」とは言えなかった。
「白いスニーカー、今でも好きなんだよ。ほら、見て。今日も白いスニーカーだよ」
亜紀もあの日の服装を覚えていたのだろうか。あえて、今日、白いスニーカーを履いてきて、この場所で待っていたことを考えれば、亜紀も心の中にある思い出の缶詰を開け始めていたのかもしれない。
「たくちゃん、覚えていないのなら、証拠の写真、探してこようか。実家にあるはずだから」
小さなことにムキになるのも学生時代の亜紀と全く変わっていなかった。
「そんな写真をまだ持っているのか?」
「もちろんよ。実家の内緒の場所にね」
嬉しいような恥ずかしいような気になった。僕も亜紀との思い出の写真や出かけた場所のパンフレット、チケットなどを箱に詰めて実家の押入れの奥に置いてある。
何度も処分しようと思ったのだが、その箱を開けると古いアルバムを一枚一枚めくるように、思い出がさらに深まってしまっうのだ。思い出の場所の景色だけでなく、その時の空気の味、匂い、そして気温や天気までもが身体で覚えているのだ。
「そうだ、亜紀の実家って、徳島県だよね。その写真は徳島にあるの?」
さりげなく、亜紀の今の状況を聞こうとした。
「今は東京よ。お父さんがいい年なのに東京に転勤になって。それで、両親は東京のマンションに引越しをしたの」
僕は、亜紀の一つひとつの言葉に意味があるのだろうと思いながら、心の中で亜紀の言葉を反復していた。「両親が東京のマンションに引越しをした」という亜紀の言葉に、その時、亜紀はどこにいたのだろうか。すでに結婚をしていたのだろうか。でも、すでに結婚をしている亜紀からいろいろ聞き出そうとしてはいけない気がした。
僕たちは日本野球発祥の地のブロンズ像のところから動かずにずっと話をしていることに気がついた。
「たくちゃん、少し歩きたいな」
「亜紀はお腹空いてないのか」
「空いていたけど、空いていないよ」
この表現も昔の亜紀のままだ。意味がわからない表現を使う。
「どういうことなんだよ」
「たくちゃんを待っているときはお腹が空いていたけど、いろいろ話していたら今はそんなにお腹が空いてない」
説明する亜紀だが、それでもよくわからない。
「あの建物、覚えている?」
亜紀は振り返って、そこに立っている茶色の建物を指差した。
「あそこの建物の中でテレビドラマの撮影がされたのを知ってる?あそこに行こうよ」
亜紀は子どもが遠足に行くようにはしゃいでいる。
「亜紀は茶色が好きだから、あの茶色の建物の学士会館も好きなんだよな」
「何、違うって。何も覚えてないの?」
忘れるはずがない。亜紀の誕生日に、絨毯張りしてあるあの建物の中で、二人で食事をしたこと。「フランス料理にする?中華にする?和食がいいかな?」などと行く前からワクワクしていた日のこと。学生時代、お金のなかった二人にとっては贅沢とも思える場所で食事をしたこと。全て鮮明に思えている。
亜紀は振り向いたまま黙って学士会館をじっと見ていた。亜紀もあの日のことを思い出しているようだ。
「たくちゃん、行こう。あの建物に」
「うん」
学生時代なら自然と手を繋いでいたが、今は、ただ並んで歩いている。それが時の流れの証なのだろうか。心は学生時代に戻っても、時の流れの中で、僕たちは歩き方もぎこちなくなっていた。
「まだあった。覚えている?あのエスカレーター」
亜紀が大きな声を出した。今の僕は、学生時代にタイムスリップしたように、全てを思い出している。
「覚えているよ。懐かしいな。そうそう、このエスカレーター、動くのが遅いんだよな」
「たくちゃんは、遅すぎるってイライラしていたけど、私はもっと遅くてもいいなと思っていたよ。たくちゃんと一緒だったしね」
亜紀はドキっとすることを言い出した。僕は話をそらそうとした。
「なんであんなに遅いのかな?」
「私に聞いてもわからないけど、一緒にいる時間を長くするためじゃないかな。今日もあのエスカレーターで建物の中に入ろうね」
さらっと話す亜紀に僕はドキドキしていた。学生時代の僕たちにどんどん戻っていく感じがした。
「そうそう、この遅さ、最高ね。ここのエスカレーターより遅いエスカレーターって日本にはあるのかな」
亜紀は聞こえる言葉で独り言を言った。
(二人は学生時代の思い出を鮮明に覚えていた。でも、素直にそれを話すことができなかった。 次回に続く)
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