紀伊國屋ビルディング、または前川國男の打込みタイル
NHKの連続テレビ小説『なつぞら』の主人公なつは、新宿の路地裏にある「風車」の二階で暮らしているという設定ですが、ときおりこのおでん屋でビールをかたむけ、ほろ酔い加減でたのしそうにしているのが「角筈屋」の茂木社長。
新宿の地誌を愛するみなさんなら先刻ご承知でしょう、角筈屋のモデルは紀伊國屋書店、茂木のモデルは創業者の田辺茂一で、経営者としてはもちろん、新宿を盛り上げた文化人として(そして希代の遊び人としても)知られています。新宿映画の金字塔『新宿泥棒日記』(監督大島渚、主演横尾忠則、1969年)では、店内での撮影を全面的に許可するとともに、自身も社長役で出演し、快演(怪演?)を披露しています。
ついでながら角筈屋の「角筈(つのはず)」とは、かつて新宿区にあった旧町名。新宿区が管理する角筈公園や角筈図書館、小田急バスの角筈二丁目停留所など、区内のあちこちに痕跡がのこっています。参考までに日本国語大辞典を引くと、
東京都新宿区南部の旧地名。もと東京府豊多摩郡淀橋町の大字。昭和七年(一九三二)東京市に編入されて淀橋区の町名となり、同二二年に新宿区に所属、翌二三年に一部が歌舞伎町となる。同四五年一・二丁目の一部と三丁目が西新宿一~四・六丁目となり、町名としては消滅。郵便局名、出張所名などに残る。
とあり、なるほど新宿区の小中学生はポケモン的な感じで旧町名をコレクションし、角筈マスターをめざすのもよいかもしれません。いまも残っているかどうか定かではなく、まことに申し訳ないのですが、角筈ガードの案内板はぜひともゲットしておきたいレアキャラです。あ、ゲットといっても、写真撮影だけにとどめておいてくださいね。
紀伊國屋書店に話をもどします。
日本を代表するこの大型書店は、新宿を象徴するアイコンであり、東口方面のランドマークとして長く愛されてきました。〝都市〟を構成する要件として最低限必要なのは、品ぞろえの充実した書店、老若男女でにぎわう映画館、居心地のよい喫茶店であると、つねづね考えてきたわたくしですが、新宿が都市と呼ぶにふさわしいのは、なんといっても紀伊國屋書店があるから。そう断言したくなるくらい、並々ならぬ存在感をはなっています。新宿の重心といっても過言ではないでしょう。
創業は1927年(昭和2年)。先に触れた茂一の本好きが高じ、家業の炭屋の脇で開業したのがはじまりです。あと10年もしないうちに100周年をむかえる算段となります。
戦後間もない1947年(昭和22年)、戦火で焼け野原となった新宿にぴっかぴかのモダニズム建築が出現します。モダニズムといえばこの人、建築家の前川國男が設計した木造2階建てで、紀伊國屋書店はここからふたたび本格的に始動することとなりました。当時の資料をみるとたいへんに贅沢な空間だったことがわかりますが、まあそのころは書籍の刊行点数がいまとくらべると桁違いに少なかったでしょうし、だから本の並べ方にも余裕があったのだろうと思います。
地上9階・地下2階、鉄骨鉄筋コンクリート造の堂々たる「紀伊國屋ビルディング」に生まれ変わったのは1964年(昭和39年)のこと。紀伊國屋ホールや紀伊國屋画廊が併設されていたのも画期的で、文化の発信地たらんとする志が感じられます。2014年に竣工50周年を迎え、店頭ではそれを記念したパンフレットを配布していました。
紀伊國屋ビルディングも前川國男が設計しています。モダニズム建築としての特徴は3つ。ひとつめは、打込みタイルによる両側の側壁。ふたつめはプレキャスト・コンクリートでつくられたバルコニー部分のひさし。そして3つめは、入口付近にちょっとした広場のような空間がもうけられているとともに、そこから奥に通路が伸び、抜けのよさが感じられること。紀伊國屋書店のプレスリリースから引用します。
前川國男が「何か一息つける場所を造りたい」と考えて設けた1階の広場は、格好の待ち合わせ場所を人々に提供しています。さらに、広場から裏の通りへ抜ける街路のような「道空間(みちくうかん)創出」は、建築が都市環境との関わりの中で果たし得る可能性を提案した好例として高く評価されてきました。
こうした3つの仕掛けは、どれも意匠性と機能性を兼ね備え、知と文化の殿堂にふさわしい堅実さを醸し出すことに一役買っています。全体のたたずまいは実直そのもの。それゆえ悪目立ちすることなく、しかし新宿という都市空間において、独自の存在感を示すことにも成功したのです。
打込みタイルもプレキャスト・コンクリートも前川によって考案された工法で、そこには素材と技術を造型にどう活かすかという問題意識が垣間見えます。また、こうしたディテールにこそ、モダニズム建築の核心が潜んでいるともいえるでしょう。そうそう、端正な書体をもちいた「紀伊國屋ビルディング」のレリーフもお見逃しなく。いささか古くなってはいるものの、文字のかたちひとつとってみても、手を抜いていないことが実感できます。
わたくしが偏愛しているのが打込みタイルでして、新宿駅西口広場の窯変タイル(1966年、坂倉準三)が西口を代表するタイルだとしたら、紀伊國屋ビルディングの打込みタイル(1964年、前川國男)は東口の雄。ふだんはだれも気に留めないような細部ではありますが、どちらも経年変化によって味わいが増し、地味ながら滋味あふれる風情をたたえています。これまた新宿東西タイル対決とでも題して、夏休みの自由研究にいかがでしょうか。
◎紀伊國屋ビルディング:1964年(昭和39年)竣工。〝前川氏の設計した曲線美のモダンな建物は、当時日本最大の売場面積を誇った書店に加え、劇場や画廊を併設し、新宿の街に新たな文化の風を送り込む拠点となりました〟(「紀伊國屋ビル竣工50周年」パンフレットより)。2017年(平成29年)東京都選定歴史的建造物に選定。
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