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ご機嫌なわたし

自分が大好きだ、自分の容姿も中身も結構好きだ。でも昔は大嫌いだった。自分の事が嫌いで嫌いで仕方なくて鏡に映る姿も醜くて人に見られるのも嫌だった。色んな経験を積み重ねて学んでいくうちに少しずつ自分を受け入れる練習を続けて、いつの間にか自分の事が大好きになっていた。ハイリスクノーリターンなところも失敗してもごめんなさいと謝って落ち込んで寝たらすぐケロッと治って先に進むところも、思い立ったら行動せずにはいられないところも、自分がこうしたいとか夢を見つけたら誰に何を言われても絶対やり抜くところも、思ってる事は話すより先に行動に移して結果を出してからいうところも。

働いてた会社を辞めたことを黙ったまま勝手に新しい会社の面接を受けて採用されて働き始めて数ヶ月経ってから親に初めて、そういや仕事変えたから、なんて言ってしまうような、そんなめちゃくちゃな自分が今は凄く好きだ。

言い方が悪いけれど自分が好きな人というのはあまり他人に興味が無い。興味が無いというより人の事があまり気にならないのだ。それは毎日、自分に夢中で毎日、自分と向き合って自分の事を考えているから他の人の事を考える時間や余計な思考に囚われている時間が極端に少ないというこなのかもしれない。そして自分が大好きな人間は嫉妬心というものがとても少ない。正直なところ、私は人に嫉妬するという感情があまり湧き上がってこないしその気持ちがよく分からない。

例えば会社で上司から仕事で評価されると嬉しいし頑張ろうと思えるが、よくあるケースに他の人が褒められているのを見るとあの人ばかり褒められてずるいとか、私だってこんなに頑張っているのにとか、あの人は贔屓されているとか、そういう声を耳にしたり目にすることがある。でもどんなに嫌いな相手が褒められていても、私は一ミリたりとも羨ましいとは思わない。妬ましい気持ちにもならない。褒められる人には褒められる理由があるのだろう、評価されるということは誰かが求めている何かに対して答えを導き出したのだろうと私は思う。人に嫉妬をしたり妬ましく羨ましいという気持ちが芽生えやすい人間は大抵、自分が受けた恩恵やいただいた感謝を棚に上げたり、自分の良いところを見失ってしまっている。

きっと褒められている人を妬ましく思うあなただって会社で誰かに感謝されているし褒められているはずなのに誰かが評価されると妬ましく思うのは根底にある不安や自分の受け入れられないネガティブな部分があるからなのだろうと思う。私自身も働いていると沢山褒めてもらえることがあるし自分では気づかなかった才能や能力について褒められたこともある。そうなんだ、嬉しいな、と思うし自分はこういう部分で評価されているのであれば他人が何を褒められていても気にもならない。

自分の事が大好きな私は言ってしまえば褒められなくても全然平気だ。私の良いところは私が一番よく分かってて私は何が出来て何が苦手かも知っている。自分に対して良くやっているな、と労う事もできるし反対にどういうところで躓き落ちやすいかも分かっているからそうなる度に原因の究明と対策、次はどうしたらそうならないか常に考えている。人から褒められると頑張ろうと思えるのはもちろん良いことで大切な活力だと思うけれど結局のところ、誰かに褒められることに価値を見出してしまうと褒められなかったときのマイナスな感情が大きくなっていく。誰かのさじ加減で決めた良し悪しで動いていく人になる。自分で考えて選択して答えを出して、積み重ねて、それで人は成長するし突き抜けて行く。導き出した答えが例え正解ではなかったとしても考えた過程があり学びとなる。この考え方に至るまで暗闇にいるような時間を過ごした。もがき苦しむような時間がとても長かった。

やっぱり大人になって、自分の事が大好きになって本当に一番思うことは失敗することの大切さだと感じる。よく聞く失敗しない人間に成功はないだとか、失敗を恐れるな、という言葉があるけれどあれは本当に本当で失敗だけは多くした方がいいと思っている。

わざと間違えたり怠慢をしろという意味ではなく、成功したりどんどん上に突き抜けていく人のほとんどがやはり何事も場数を踏んでいるし沢山、経験を重ねている。チャレンジすることの大切さというのは結局のところ、悩んだり考えたり気付いたり閃いたりする回数とチャンスが誰よりも多く用意されているということ。失敗の確率は勿論多いがそれと同等、或いはそれ以上に成功の確率もしっかり用意もされている。失敗という恐怖心のせいでその陰に隠れた自分をもう一段階、上に引き上げられるチャンスを手に出来ず通り過ぎてしまうのが本当にもったいないと思う。失敗は成功より価値のあるもので時として大きな財産となる、人は失敗や間違いを回避したい生き物だからこそ失敗や間違いなど多くの経験を積んだ人から情報を得ようとする、失敗には成功以上の価値があるのだ。

持ち物、生活の質、容姿、全てにおいて幸せを人と比べない。難しい事かもしれないが無意識に自分に夢中になれば自分を好きになれば何を言われても攻撃されても、攻撃されていることや嫌味を言われていることにさえ気づかなくなる、私が私に夢中だからだ。

嫉妬してしまうのは悪いことではない、妬ましい気持ちや羨ましいと思うのも決して恥ずかしいことではない。当たり前で自然なことで普通なことだ。きっと誰しも持っている。自分の黒くて人に見られたくない部分、私は嫉妬という気持ちが芽生えないと言ったが、もしかしたら突然、何かがきっかけでそういう気持ちが湧いて出るかもしれない。自分を受け入れる行為は本当に苦しく大変な作業だ。毎日を過ごしていて自分を見返したり振り返ったり向き合うという時間は意識しないと取れない。大体、何かに苦しみだしたり悩んだり泣きたくなるような時は自分と向き合う行為を忘れていた時や自分の感情やその時どう思ったかを受け止めたり自分の気持ちを整理したりする作業を後回しにし続け怠っている時が多い。

私は昔こそ相手にどう思われるか、ばかりを気にして生きていたけど今は自分優先で生きている。何が食べたいか、どこへ行きたいか、誰に会いたいか、何に触れて感じてどう思ったのか。その気持ちは人に伝えたいか、自分の心に大切に閉じ込めておきたいものか。わがままや傲慢とは違う、私を優先することで私がご機嫌になる。ご機嫌で楽しそうな私がいるとそこはもう確実に楽しい空間だ。おのずとそんな自分が好きだなと思う瞬間が増えていく。自分の好きなところが増えていくとやがて人と比べる行為が減っていく。機嫌の悪い自分が顔を出したり何かを否定ばかりする自分が出てきたり、その回数が増えていくとそんな自分すら当たり前に受け入れる行為を辞めてしまう。

私なりの自分軸というのはやっぱり自分の機嫌は自分でとるということなのかもしれない。自分の事が大好きで本当に良かった。これからもそんな自分を大切にしてあげたい。

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