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200年前の詩人とファミレスで会話をした。

本を読んでいると、たくさんのことばにであう。ことばとの出会いは、すなわち人との出会いだ。ことばが十人十色な世界の見方を教えてくれる。

読書は著者との会話だ。なんてことをよく聞くが、なんとなくその感覚がわかってきた。今日はそのことについて書こうと思う。

一冊の出会い

最近、大岡信の「ことばの力」という本を読みはじめた。
ぼくはこの本と、中学2年生の休み時間、国語の教科書のなかで出会った。

14歳のぼくに、ことばと文章の美しさを教えてくれた。

この本は、何遍かの随筆文がまとめられたものだ。ぼくが読んだのは、一部分の抜粋だったので、全部読んでみたいとずっと思っていた。全部読んだら、ことばの全てがわかってしまうのではないか、というくらい14歳のぼくは感銘をうけていた。笑

今年ようやく手に入れて、じっくりと読んでいる。かみしめるように読んでいる。ぼくにとっては「ご本人登場」みたいなものなのだ。笑

ことばとの出会い

読みすすめていく中で、こんなことばと出会った。

見えるものは見えないものにさわっている。聞こえるものは聞こえないものにさわっている。それならば、考えられるものは考えられないものにさわっているはずだ。

これは大岡先生の言葉ではなく、18世紀ドイツの詩人ノヴァーリスのことばだ。

ぼくは、これを読んだとき、なにか一種のもどかしさのようなものを感じた。なんというか、脱皮の途中でもがいているような感覚というのだろうか。

分かりそうで分からない。何かは感じている。きっと、この言葉が自分のものとして感じられるようになったら、それはきっと世界が広がったということだろう。そんな感じがした。

200年の時を超えて

ノヴァーリスは29歳でその生涯を終えている。ぼくと同世代だ。こんな素晴らしい感性をもった彼と、ぼくは本を通して出会えたのだ。200年の時を超えて。岐阜のガストで。

いままさにぼくの正面の席に、彼が座っている。

本ってすごいな。タイムマシンみたいだ。

そしてもう一人。僕の隣には大岡先生がいて、この詩を解説してくれる。

これは詩人の直感がとらえた大変に深い洞察を表している言葉である。(中略)ここであらためて気付いて驚かざるを得ないのは、ノヴァーリスがこの奥行きのある思想を語るのに、まことにささやかな言葉しか用いてないということである。彼はあたりまえの言葉を使って簡潔に書いている。しかしそこで語られている思想は、豊かな展開の可能性をひめている。

先生は、いつもぼくに言葉の美しさを教えてくれる。

ぼくは本を通じて3人で会話しているのだ。

そしてこのnoteを読んでくれているあなたも含めて、4人で会話をしている。時間も空間も越えて。


読書が会話だという感覚が、少しわかってきた気がしませんか?


*ぼくのnoteにおけるテーマは「考えるきっかけをつくる」です。大喜利のお題みたいなものです。みんなはどんな風に考えるか教えてください。

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