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ホームレスサッカーとの不思議な出逢い

とある一冊の本が人生を変えた

大卒直後

 ことのはじまりは、”とある一冊の本”との出会いに遡る。
 2016年4月、大学を卒業した私は、新卒で総合家電メーカーのSHARP(シャープ)に就職し、たまたま郷里の大阪が配属先となって帰阪することになった。なんだかんだ慣れ親しんだ地元の空気を懐かしみつつ、疾風怒濤のサラリーマンライフを過ごしていた。

 マクロな視点で述べると、当時の会社は、世界最大手のEMS企業(Electronics Manufacturing Service=電子機器製造受託)である鴻海精密工業からの経営再建支援案に合意し、当該企業グループ傘下となる形で買収された。多方面の方から心配の声が届いたが、実際はそうでもなく、目まぐるしく変わる会社の環境や体制に内側から体感できる経験を得られたのは非常にエキサイティングな日々を送ることが出来て、貴重な機会に巡り合うことも出来た。このときの経験や会社の動きは、今後のビジネスライフに於いても参照していきたいと思っている。

 一方でミクロな視点で述べると、私はBtoBのビジネスセールスとしてキャリアをスタートさせた。いわゆる法人営業という職種だ。“ビジネスソリューション事業本部”という横文字を掲げる当該部門は、コンビニやオフィスで置かれているデジタル複合機、商業施設や公共交通機関で掲示されているインフォメーションディスプレイデジタルサイネージ)、流通業を中心に小売店等でお会計する際に用いるPOSシステム機器などをメインで取り扱う事業である。一見、シャープといえばテレビや冷蔵庫等の白物家電といった”コンシューマー向け家電”のイメージを持たれる方が多いなかで、私はその真逆の業種業界へと足を踏み入れていくこととなったのだ。

社会はそんなに甘くない

 私は当時の会社状況を生意気ながら曲解し、「もっと外に向けてシャープの良さをアピールしなければならない」と思い立ち、配属後の面談で「新規開拓をやらせてください!」と宣誓し、新入社員だからという言い訳も功を奏してスタートダッシュを切ったものの、休眠顧客や未開拓企業のリストを回っても殆んど門前払いを喰らう日々を過ごした。
 「1年目でお客様からシステムの受注をもらってくるのは難しい。逆算志向で物事を考えていくと、まずはお客様から頂く名刺交換数、アポイント数、訪問件数、デモ実施等、目標数値を設定して日々の営業活動に取り組んでいこう。」
 という上司からの有難い基本中の基本アドバイスを頂戴し、最初のうちは会社から与えられた目標受注金額等を気にせず、仕事に取り組んだ。
 
 ただ、世の中そんなに甘くはなかった。
 一先ず上司から頂いたアドバイスに基づき「とにかく名刺交換を増やしていこう…!!」と思った当時の私は、本来の営業活動の主旨を逸れて名刺交換だけにフォーカスするように活動し、門前払いを喰らって名刺交換出来なかった未開拓の顧客に、何度も繰り返し訪問を続けていると、お客様もついに堪忍袋の緒が切れて、
・「来るなって言うたやろ!」
・「シャープさんってそんな酷い仕事しはるんですか!」
・「鴻海に買収されてから最悪やね!」
と思ってもいなかった言葉を投げられる始末。或いは、
・目の前で渡した名刺を破られる
・オフィスの扉を開けた瞬間に水をかけられる
という状況に見舞われてしまい、何度もお客様に「すいません」「大変申し訳ございません」「名刺交換だけでもお願いします」と頭を下げながら一人で泣く日々が続き、それを上司に報告しても特に何事も無く、労いの言葉も無かった。会社に相談しても意味がないと思った私は、自分で自分を励ます以外、気が持たなくなっていた1年目の新入社員時代だった。

サッカーの世界も甘くない

 どんどん追い込まれた私は、営業日報も書く気力が無くなり、部署の飲み会には極力参加しなくなり、上司とのコミュニケーションも減っていく悪循環だらけだった。この状況はまずいと思いながらも、どうにも成果が上がらない日々が続いたなかで、「気晴らし程度に」「あわよくばもう一度サッカーの世界へ戻ろう(という名目の現実逃避)」というモチベーションで学生時代に取り組んでいた競技サッカーを再開させて、関西の社会人サッカーチーム等へ練習参加していった。
 しかし、どうにも身が入らず、中途半端なコンディションが続き、思うようにプレーが出来ない日々に見舞う形になり、全く気晴らしにも現実逃避にもならない状況に陥った。競技に於けるサッカーでは、1日練習を休むと、元のコンディションに戻すのに3日必要と言われているように、習慣的な練習環境だった学生時代と比べて、毎日仕事をしながらサッカーのトレーニングを継続することのハードルの高さを実感した。
(※元々下手だったので、たいそうなことを言える素質はない。)

"転機"となったホームレスサッカー

 社会人2年目に突入した2017年の夏、とある転機が訪れた。
 「何かもっと成果に繋がるマインドセットやスキル向上を図れないかな」と、自己啓発系のウェブメディアやビジネス書を読み漁っていた中で、よく嗜んでいた「lifehacker(ライフハッカー)」で下記記事と出会った。

『野武士ジャパン・・・?サッカーなのか?なんだこれ?』
私にとって、この記事に書かれていた内容は”目から鱗”だった。

サッカーというスポーツ、コートに立ち同じゴールを目指す過程で社会復帰のために必要なスキルやコミュニケーション能力を学んでもらおうという取り組みが世界中で行われています。それがホームレス・ワールドカップ、ストリートサッカーの世界大会です。

https://www.lifehacker.jp/article/170706_nobushi_japan/

 ホームレスになってしまった人たちが、社会復帰の為にサッカーというスポーツに興じ、しかも世界大会があって、日本はボロ負けを喫してしまうも、そこから彼らが学び得たことは何なのか、etc…
 率直な感想として、この記事に衝撃を受けたことを今でも覚えている。こんな世界があったのかと感じ、サッカーを通じたこの活動に心から感銘を受けたのだ。この活動を通じて監督を務める蛭間芳樹さんが気になり、すぐにこのホームレスサッカーの世界大会出場の一劇を綴られた著書「ホームレス・ワールドカップ日本代表の あきらめない力」を手にした。

 この書籍を読み、当該活動の意義や真意に「間違いない」と確信した私は、実態を探るべく、すぐにこの野武士ジャパンの活動母体であったビッグイシュー基金の門戸を叩くようになった。

それまでの私について

学生時代

 野武士ジャパンの現場を初訪問した話の前に、なぜこの活動に感銘を受けたのかの理由を説明する意味合いで、少しだけ私の学生時代を振り返っておきたい。
 将来の進路に迷っていた高校時代、中途半端な進路は歩みたくないなと思い、適当な理由で進学するのは自分の人生も適当になると危機感を覚え、何か1つのことに真剣に打ち込めないかなと思いながら、部活動で続けていたサッカーに於いて、プロのサッカー選手になろうと決意した。
 しかし、上手な方ではなかった。むしろド下手な部類であったものの、当時は仲間と過ごす日々や絆、プレーすることの楽しさ、プレイヤーとしての自己陶酔に生理的と言って良い程までに固執していた。当然このままではプロになれないと感じていた私は、「どうすればプロになれるのか?」と考えた。
 当時はスマホやSNSは盛んではなく、どちらかというとまだガラケー中心で携帯ブログが流行っていた時代。情報取得に疎かった私は、単純な理由で「キングカズ(三浦知良さん)が単身ブラジルで武者修行してプロになった」話を鵜呑みにして、「自分もブラジルに単身留学して武者修行してプロになろう!」と思い立ち、進路相談でも学校の先生や仲間、家族にもそう伝えた。

「や め て お け」

 全員からそう忠告された。特に家族からは
・「現地で死んでもらっては困る」
・「(最低でも)大学には進学してくれ」
と言われる始末。当時の私には恥ずかしながら理解出来なかった。
 とにかく、あまりにも反対されたことに億劫になっていた私は、当時のサッカー部監督に「大学サッカー」の存在を教えてもらった。当時から大卒Jリーガーの台頭は著しく、自分にとっての「ブラジル留学」=「大学進学」であるなら、家族の意向にも沿う為、諸々合点がいくだろうと思い、ようやく大学進学する方向で進路を歩み出した。
 自分の目指したいサッカーやプレースタイル、キャンパスライフに合う大学サッカー部はないかなと進学先を探した。当時、FCバルセロナやスペイン代表の黄金時代に魅了され、「4-3-3」「パスサッカー」そして「キャンパスとグラウンドの距離が近い箱庭型の大学」「実家から遠い」等の条件で黙々と探しつづけた結果、東京都八王子市を拠点とする中央大学が目に飛び込んできた。しかも、私の中学・高校時代と同じくオレンジ色(※実際は金茶色と呼称)のサッカーチーム。ここしかないと感じた瞬間であり、その日から私にとって、中央大学は”仮想ブラジル”となっていった。

厳しくも誉れ高い大学サッカー界

 1年間の浪人生活を経て、私は中央大学に進学し、すぐに一般組から当時のサッカー部監督に直談判し、門戸を叩いた。普通では絶対無理だが、当時の監督のおかげで何とか入部することが決まり、「やっとここから武者修行が出来るぞー!」と思い立ったのも束の間、全国レベルの強豪校・ユースクラブから名を挙げた猛者達が集う大学サッカー部。圧倒的なレベル差に驚愕した。そして、今までの自分のプレー観がガラッと変わる日々だった。パス、シュート、フィジカル、スピード、判断。あらゆる側面で強度が高い大学サッカーライフは圧倒的に厳しい日々ではあったが、間違いなく圧倒的成長を感じ取れる誉れ高い環境であった。

大学にも”卒業”がある

 ”仮想ブラジル”のつもりで進学したものの、そこは大学であり、”学問”の現場だ。当然、それまでの高校生活同様、卒業がある。卒業までの4年間で結果を出さなければプロになれないと思いつつも、残念ながら結果が伴わず、やむなく就職する方向で進路を考えるようになった。
 当時、私は「どんなプロになりたかったのか?」と自問自答していた。ただプロのサッカー選手になっただけでは味気ないと思っていた私は、自分の思い描くサッカー観やプレースタイルを大事にしていきたいと考えていた。当時の大学サッカー部のGM(ゼネラルマネージャー)がよく仰っていた【人に感動を与えるサッカー】には共鳴していて、人に感動を与える為、つまり誰かの為にプレーする発想が好きだった。
 この発想は、(今もそうだが)当時としては一般的にプロを目指す選手であれば真逆の発想で、「プロであれば自分が活躍すること、自分のことを一番に考えて取り組むべき」という考え方とは相容れられない発想だった。突き詰めると「卵が先か鶏が先か」論に陥ることにはなるが、発想の出発点が「(自分ではない)誰か・何か」というところは大きなポイントだったように思える。当時の私は実感していなかったが、恐らく前述の「プレイヤーとしての自己陶酔に生理的と言って良い程までに固執していた」ことに対するアンチテーゼだったのかもしれない。
 或いは、それまで育ってきた家庭環境(※元来、両親は仏教徒で、仏教的な発想には共感している部分もある)や教育環境にも影響された部分は大いにあるだろう何よりも味方が負けているときや味方の為に動くプレーには一番火が付くタイプで、一生懸命になれる。そんな精神だったんだろう。

言語化することの難しさと日々の学びの大切さ

 そんな私のサッカー観やプレースタイルに基づく就職活動には苦労した。当時の私はこれを言語化し、どうやって社会の為に強みとして発揮出来るのか、上手く表現することが出来なかった。出会う大人たちに言われた言葉の中には辛辣なものもあり、
・「人の為?だったら警察官とか消防士になればいいじゃん」
・「人に感動を与えるの?アーティストにでもなるつもり?笑」
という大変厳しい且つ嘲笑混じりのアドバイスを受けることが多々あり、「一体どうすればいいんだ・・・」と悩んでいた時期もあった。
 幸いにも、そんな気持ちを正直に面接で述べた今の勤め先(シャープ)に有り難くも奇跡的に拾っていただき、今に至るわけだが、当時の私がもしホームレスサッカーや、スポーツを通じた社会学・開発学的な知見を備えておけば、卒業後の進路も少し変わっていたかもしれないと思うと、感慨深いものを感じている。
 現在、ホームレスサッカー界隈では、
・就労支援
・若者支援、ひきこもり
・貧困救済
・LGBTQやジェンダー課題
・社会福祉
等の社会で何かしらの困難を抱えた当事者やボランティアの人々が多い。そして、勤め先のシャープは1977年、日本で初めて障がい者雇用の特例子会社認定の第一号として、社会的困難を抱えた当事者に対して理解があり、ホームレスサッカーとの出会いがなければ勤め先のこういった側面も知ることがなかっただろうと思うと、日々の学びの大切さと有り難さを感じる次第である。

▼シャープの障がい者雇用について▼

話を戻すと(感銘を受けた理由)

野武士ジャパンの練習に行ってみよう

 それまでの私について振り返りが長くなってしまったが、そのような経緯もあって、私にとってホームレスサッカーとの出会いは、まさに【人に感動を与えるサッカー】、人の為のサッカーであると感じた瞬間だった。
 この感動を書籍を読んだだけに留めるのは絶対に後悔すると思い立った私は、野武士ジャパンの練習に足を運んで現場を見てみようと思い、運営母体のビッグイシュー基金に問い合わせた。
 聞くところによると、どうやら東京と大阪で2つに別れて練習しているとのことだった。当時、私は大阪勤務だったので、大阪のチームに顔を出そうとして、関西テレビ社屋がそびえ立つ扇町公園に足を運んだのだった。

To be continued…

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