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ICT教育による探究学習の可能性と課題


私は、このnoteやFBでしばしば書いているように、ICT教育の導入は

・学校の(教員向けの)メディア環境の充実を推進した上で、
・子どもたちの健康被害が最小限になることを優先して考え、
・子どもたちの学びが進む形で。

と考えている。

そして、探究学習の場での使い方を、
・年齢や発達に応じた時間制限(家庭での使用も含め)や休憩時間の確保などの工夫をしつつ、
・脳や体や心への影響を本人が理解し合意した上で、
・第三者の見守りを確保しつつする

ということが可能なのであれば導入を検討するといい、と思う。

一方で、漢字練習や計算練習などの単純な暗記や繰り返し練習が必要と思われている学習にICT機器を使うことについては懐疑的だ。

それについては、このnote にもすでに記述している。

漢字練習や計算練習などの一見ルーティンでゲーム化できそうな学習こそ、
・先生がしっかりとその学びのプロセスの重要性を理解し、
・教え方の技術を身につけて、
・子どもたちが仲間と一緒に探究的に学んでいく授業を展開すること
が必要だ。

でも、
多くの大人が暗記で点数が取れたという経験を持っているから、
実は、
 そのような手間ひまかかる学習に主体的に取り組むプロセスこそが、
 何よりも深い学びを生み出す思考力の基礎を形成する
ということを実感し、理解している大人は多くはないかもしれない。

私は、基礎学力というのは、
単純学習によって身につく力以上のものであると考えている。

しばしば、学力の基礎を身につけるために、
すでにできあがった形や方法や公式やコツを数をこなして暗記する
ということが推奨され、
それで点数は取れるし成績は上がる。

もし、そのことの副産物として、
生徒たちがエンパワーされて他の深い学びにまで敷衍するならいいが、
そういうことは必ずしもなくて、
ほとんどの生徒たちの場合、
 ・暗記の成果を競うような動機づけになるだけ、あるいは、
 ・学ぶことの意味、学びのあり方を誤解してしまう。
だから、単純学習の害は小さくない。

たとえ少ない回数でも、
脳に「なぜそうなるか」のプロセスがしっかり刻み込まれるような、
そして自分で考えて応用できるような学習の仕方を提供したいものだ。

例えば、
漢字の成り立ちに興味を持ったり、筆跡に関心を持ったりして
いろいろと文字の変化のプロセスを楽しんで学習していくとか
どうしても読みたい内容があって、
そのために自分で文字を類推して読みこなしていくとか、
そういう漢字学習は、後に続く主体的な探究学習の基礎になるだろう。

だから、そういう学びを促進することが可能なICT教材でないなら、
ドリル学習と調べ学習だけのためにICT機器を子どもたちに使わせるなら、
それはいかがなものかと思う。

 単純学習の問題は、実は、
 現在、小学校の教育を席巻しているドリル学習の問題であって、
 ICT教育に限ったことではないのだが、ICTだと、

 ・何か進んだことをやっているように思えてしまうところ
 ・夢中になって長時間利用してしまうところ
 ・脳への影響が解明されていないところ

 が難点だ。  
 コンビニエントなものは人の努力を減じ、
 とりわけ発達途上の能力の獲得を妨げる場合が多いが、
 ICT機器はどうなのだろう。

 実はオルタナティブ教育の学校でも、
 ドリル学習を取り入れているところは少なくなくて、
 それが基礎学習とされているから、要注意だ。

 一方、発達障害と言われる子どもたちの中で、
 脳の一部機能の障害が実際にある子どもたちに対して、
 ICT機器を用いたトレーニングが有効であるという知見があるから、
 そういう活用の仕方を検討することには意味があると思う。
 
要は、どのような学びを身につけた、どのような子どもを育てたいか、そのためにどのような方法を使うのか、なのだ。

さて、もし、基礎学力をつけるための学習の内容や方法を、考えるプロセスを経て獲得した子どもたちが、次の段階として、

・自分の使う機器やソフトにどんな利用規程があるのか、
・なぜICTでメディア依存が起きたり、トラブルが起きたりするのか、
・自分が引き受ける健康被害のリスクは何か

を理解した上で、ICT機器を使うことに私は異論はない。

この点に関して、FBに、佐賀県や麹町中学、修道中学や幼児教育等における幅広い実践を通してICT教育について深く考えてこられた田中康平さんが
こんな投稿をしておられる。

https://www.facebook.com/koheitanaka64/posts/3687351471314778

教育市場でのシェア争いよりも
新製品や新機能のリリースよりも
子どもたちの学びが、どのように豊かになるのか?
の方が100倍重要。
大人の理屈よりも
学習者(子どもたち)の目線
の方が100倍重要。
いや、100倍以上かも。
学習者(子どもたち)は、この環境を活用し、
何を見て、何に触れ、何を知り
どのように思考し、動き、
何ができて、何ができなくて
何を重宝し、何に困るのか
それらを注意深く観察し、絶えず改善していかなければ、
何にもならないどころか、マイナスの結果になって沈没。
となる可能性は低くないかも
なので、デバイスやシステムやアプリ方面で一喜一憂せず
「学習者(子どもたち)をどう観察し、どう改善していこうか」
という方面に知恵と時間と探究心を働かせることが100倍重要。
と思う今日この頃。

さて、もし学校において、生徒と先生たちとの関係性ができていて、
「ここちょっと教えて」「どうしたらいい?」
「こうするといいんじゃない」「いや、それはやりたくない」
「自分たちでやらせて」「すごいね~~」
といった率直なやり取りができるのであれば、

そして、学習する生徒たちの脇に、パソコンだけでなく、
 選書のしっかりとした書籍の揃った図書室や
 様々な生の素材があって、

多彩な専門性や能力を持った人材(=先生やインターンやいわゆる大人、異学年の友人たち、さらに学内外、国内外の様々なリソース)が
 「ふら~っと」その辺にリアルに存在していて、
 その人たちは「どこを調べればあたりがつけられるか」を知っていて、
 知らなければ(大人でも先生でも人は知らないことが必ずあるのだ、という生徒にとってとてもいい教育)、共に考えてくれて、
 一緒になって面白がってつきあってくれる、

という環境があれば、
パソコンはあくまでも、必要な時に使うツールの一つに過ぎなくなる。

しかし、このような環境が揃っていても、
探究学習と見えて、単に調べ学習に留まってしまうこともあるから、
先生たちも生徒たちも、今まで以上にICT機器に頼らない力が必要になる。
ICT機器が単純学習や調べ学習に使われることに留まった場合、
むしろ先生たちが今の授業力を失ない、
生徒たちが思考力を失うことすら起こりうる。
(一部の先生による現行の授業よりは、学び手が自由に学べるICT教育の方がまだましだという考え方はありうるけれども、問題が形を変えただけとも言える)

「調べ学習」は夏休みの「自由研究」のように、
あるテーマに関するいろいろな知識を、
書籍やインターネットで調べてきれいに並べて発表する、という学習だ。

これはこれで意味のある学習だが、ICT機器を使っても、
かつてから書籍を用いてなされていた学習方法と基本は変わらず、
実はICT機器を使えばむしろ
・キーワード検索技術が身に付けば簡単にお宝情報が得られて学べた気分になり、
・プレゼンテーションがうまければ「見た目が整った」発表ができる。

まるで、消費者に向かって、考えずに楽しめて、これが欲しいと思わせる情報を提供するどこかの企業のプレゼンテーション、に似たものになる。

では、ICT機器があるからこその探究学習とはどんな学習なのだろう?

最初は何となく知りたいと生活の中から思うことがあって、
簡単に答えが見つからなくて、
それが少し調べてみたらどうも面白くてはまって、
もっと調べたらもっと面白くて、どんどん調べたくなって、
最初の目的やめあては吹っ飛んでしまって、
全然違う明後日の方向に寄り道したりしながら、
自分でも実際に何かにチャレンジしてみたりして、
実感の伴なう学びをすること、だと、私は思う。
(教育学的にどういわれているとか、文科省がどういっているということはさておき)

つまり、あなた以外の別の誰かも調べれば同じような結果が得られるようなことを見つけ出すのではなくて、
あなたの視点がなくては見つからないものを見つけ、
再構成して分類や分析をし、
自分なりの解を見つけるプロセス、が探究なのだと思う。
そして、その成果は、いったん終わった後も頭の中で熟成していき、
持続的にその人にとって意味をもち、
それ以後に新しく学ぶさまざまなことと有機的に結びついて、
新たな問いを生み出していくものだろう。

それはどんどんどんどん穴を掘っていったり、
ベーゴマにさまざまな細工を凝らして強いベーゴマを追究したり、
自分の声が一体どこまで届くのか叫び続けてみたり、
海岸の石をひたすら大量に収集してみたり、
川底に生きる虫を集めて並べてみたり、するような。
(それって、遊び?)

脳の奥深くまで使わないといけないような。

それをさらに面白くするために
ICT機器が自在に使えれば、きっととても面白いだろう。

でも、そんな学びができる学校はどこにあるのだろう。
ごく少数の生徒、一部の先生のクラスの生徒たちだけができていて、
あとの生徒たちはお茶を濁しているということにならないだろうか。

そんな学習を日本全国で進めていくためには、
先生たちにどんな準備と実力が必要で、
どんな教師教育が必要で、
子どもたちの発想を豊かにするために、
発達上、どんな体験をしておくことが必要なんだろうか。

そういうことを考えたうえで
・周辺の環境整備も含めた有効なICT教育環境はどうしたら実現できるか?
・ICT教育において、教師の役割は何か?
・利用にあたって家庭や社会との協力体制をどう作り上げるか?

についてもしっかりと考えてICT教育の導入が図られることを、
そして、いたずらに導入して健康被害を起こさないこと
を、切に望んでいる。

※ この文章の下書きを、さきほどFB投稿から引用させていただいた田中康平さんに読んでいただいたところ、非常に示唆に富むコメントをさらにくださったので、こちらもご了解を得て掲載させていただく。

探究を豊かで多層的にするための道具や環境の一つとしてICTは有効だと思います。そのためには単元ベースのデザインや、学習環境としてのデザインが重要と思っています。デザインなく与えては諸刃ですよね。

現実はデザインする術を持ち得ず、記憶のためのドリル活用がICT活用の入り口として安直に導入されると思いますが、
元来飽きやすいドリルを継続させるためにアプリ内でメダルやバッジを収集するような報酬型の仕掛けを持つものもあり、学習習慣に報酬が組み込まれる是非についての議論が抜けていると思っています。
随分前から同種の製品がありますが目立った学習効果は見られません。遅かれ早かれ子どもたちはドリルアプリに飽きます。先生や保護者や友達からのフィードバックと、効果的に転用できる機会(探究やPBL的な多層的な学習活動の中で課題解決の一手段として活用できる実感)が不可欠だろうと思います。

身体面(視力や、もう少し欲張ったICT活用でVR利用などでの斜視への影響など)についてもガイドラインが必要だと思います。
一人一台環境は、認知能力の強弱も増幅して表出させる面もあると思います。例えばローマ字タイピングの習得度合いなどは、その差が如実に現れますので、そこで困難を感じる子への指導の在り方なども提案し共有すべきと思います。
一人一台を目の当たりにした時、上手くいかない場面に遭遇する事が多い事、その理由は子どもたち個々に異なる事、などの理解と慎重さが不可欠だと思っています。

ICT推進の方々には、どうも認知能力の高い子が揃った進学校の姿から語るケースもあるようですし、ご本人も能力が高く、困難な子の事情を考慮されていないように感じる事が少なくありません。実際は、特に公立の小学校では、困難な子がいますし、一見できているように見える子も実はそうではないケースがあります。

現場でICT教育に長年関わって来られた実体験からのコメントです。

現在、ICT教育推進に尽力して下さっている方たちの中には、
もしかしたら水を差すように思われる方もいらっしゃるかもしれない。
そう思われる方たちとも一緒に、
子どもたちにとって、子どもたちの学びにとって、
大人である私たちに何ができるかという観点で考えて、
解決策を出していければと思う。
その過程では、思い違いや情報不足などもあるだろう。
修正をかけながら、対話を繰り返して、
よりよいあり方を考えることができればと思う。

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