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先生による「やりすぎ教育」

「先生による『やりすぎ教育』」について、まだしっかりとまとまった文章を書いておらず、来年度、東京都の養護教諭の皆さんにお話をする機会があるのですが、ちょっと先なので、どこかでまとめなければと思っています。

先生の「やりすぎ」については、実はインタビュー取材などがほとんどなく、教育系雑誌数冊に文章を書いた程度です。母親の虐待は責めやすく、先生のマルトリートは責めにくい日本の風土がありそうです。社会が先生の「やりすぎ」に関心を寄せ、変化を求めるにはしばらくかかりそうです。

そんなときに、福岡教育大学大学院若木常佳先生の授業を受けている皆さんが、『やりすぎ教育』の読書会を開いていろいろと議論して下さいました。
これから教員になる皆さんと、現役の教員の皆さんです。

その読書会で出てきた感想を送って下さいましたので、それに対してコメントを書きました。雑駁なものですがシェアさせていただき、そうすることで、徐々に、先生による「やりすぎ教育」について整理していきたいと思います。よろしかったら皆さんからも体験談やご質問を寄せていただければ幸いです。

(昨日、授業にゲストで呼んでいただいたのですが、結局、このnote の原稿については「書いたから読んでおいてくださいね」ということで終えてしまい、授業ではほぼ別の話をさせていただきました(笑))


さて、そんなわけで、この投稿は、先生の「やりすぎ」に対する議論の一部です。このような場を設け、事前に手厚い準備をして下さった福教大の
若木常佳先生に心より感謝いたします。

(ちなみに、オンライン授業の最初に、学生さんに「自己紹介がてら、自分が小中高に出会った先生の中で、何%の先生が、担任になってほしいと願うようないい先生でしたか?チャットに書き込んで下さい」というお題を出しました。5%から90%までの回答があって、13人中10人が30%以下、60%が2人と90%が1人という結果になりました。平均28.8%でした。多くの先生方は自分はその少ない%の方に入っていると思っておられると思いますが…。)

ここから、若木先生がまとめて下さったテーマ別の皆さんからのコメント、それに対する私からのコメント、の順で、6つのテーマについて記述します。


テーマ1  何が「やりすぎ教育」を生じさせてしまうだろうか。自分はそれをしてしまうのだろうか?

《やってしまいそう》
・自分もしそう。子どものためということや周囲の人の目があって,してしまいそう。
・自分がダメな教師と思われたくないという思いがある。それで厳しいルールを設定して高圧的な教師になるのではと危惧がある。
・自分は叱ることができにくいので,他の方法,ルールを決めて,細かく決めてしまう
他者から任せられた時には,スイッチが入ってしつこく細かく指示した。
大人が大人に責任を課して,大人の願いだけが働いているのが「やりすぎなのかな」と思う。
・高校までは「やりすぎ教育」と思ったけど,「教員採用試験」で求められることがそれで,それに対して練習した人が勝つのかなと思った。自分の思いをはっきりさせることは重要だが。何かの試験に対してはそう(相手に合わせるように)なる
「評価者」が望ましいという姿になるように,練習したし,同じステージにあった望ましい姿を身につけさせられて,それが染み付いた。「その場しのぎ」があるということが日本の学校教育だと思った。
正解があるなら苦手だから教えて欲しい。ああそうなんだと思って従う
・やっていく中で見つけていくことがあるので,先回りしてされたくないという思いがあり,ありがたいとは思わない。

★私からのコメント
 自分の持つ「リスク」をリフレクションすることができる力が皆さんにあることをうれしく思います。常にリスクに気を配っていることができれば、行動を変えていける可能性があります。
 さて、皆さんの子どもに対する行動の基準は、自分の中ではなくて、外にあるようです。誰か自分より権威のある評価者によって低く評価されてしまったらという不安を抱えているということが共通項ですね。
 子どもの頃からさまざまな評価にさらされ、身の危険を感じてきた人たちが、大人になって、子どもたちにマルトリートメントしてしまうということが起きているようです(同時にそうしてしまう自分も責めているように思われます)。先生という職業に就こうという人は、もしかしたら従順な、上に弱いタイプの人が多いのかもしれません。唯我独尊という人が教師になることは少ない時代かもしれません。
 教員が揃って示し合わせたかのように口にする言葉に、
「学習指導要領に書いてあるから仕方ない」「教育委員会が指示するから」「文科省がそう言っているから」ということがあります。
 本当にはそうではない場合が少なくないし、もしそう書いてあっても、目の前の子どもたちの最善の利益にかなわないことであれば、抗しなければならないこともあるかもしれません。でも、実際に、上からの命令に従わない場合に非難されたり低く評価されたり、自分にとってデメリットが生じたりするリスクはあるので、理解できないことではありません。
 でも、「上に従えば、自分は責任を負わないで済む(気がする)」という姿勢は、DVや虐待が生じるときに「巻き込まれたパートナー」と同じです。それを理由により弱い子どもたちを傷つけていいということにはならないのですが、「私は見ていただけです。コントロールされていました」「あの時、私にできることはなかったんです」と言うし、実際に恐怖におびえている場合には、抵抗できないのかもしれません。
  どういう条件の中であれば、自由に意見が言えますか?
 そういう条件を整えるように動く術は持っていますか?
 もし自分にそれができないのだとしたら、子どもたちに「自由に」「主体性を持って」「自信を持って」と言うことは難しくなりますよね。まず、自分の周りから、自分と同じに考える仲間を見つけて、共に条件を整えていくためのアイデアを考えていきませんか。簡単なことではないのですけれど、子どもたちにはもっと難しいことです。だから、一人ひとりの大人が、気がついた教員が、動かなければなりません。


《やりすぎない教育、社会ってあるんですか?》
・「やりすぎているな」と思うところはあるけれど,やりすぎない教育ってどんなのだろうと思った。どんな教育をイメージして持っておられるのだろう。
・この現象は,日本だけなのだろうか。日本特有なこと

★私からのコメント
 教育、というと「無理にでもやらせるもの」というイメージを持っておられるのでしょうか。そうだとしたら、やりすぎない教育の実際を見てみることをお勧めします。
 国内、世界各国の学校教育例の紹介も含めて、授業の中でもう少し深めたかったのですが、できませんでした。そこで、武田緑さんのこの本をご紹介しておきますね。また、改めていつか、私から自分が体験してきた話や見てきた話をご紹介できればと思います。


テーマ2 学校の「教育虐待(エデュケーショナル・マルトリートメント)」ってどんなことだと思う?
・給食の時間に無理やり食べさせるなど,学校の中には虐待がある。用意された中にあるものを全て食べることが求められる。それはなんの意味があるのか?自分の決めた量を食べることはできない。マルトリートメントだと思った。この空気感が嫌。よく食べてくれる子には「ありがとう」と大きな声でいう。圧迫感を感じさせてしまっている。
・年齢が高い教員ほど,食べさせようとする。問答無用で「完食」を押し付けるのでは?正しいと染み付いているから。違うところに目が向けられないのでは?そうすると教育虐待になるのではないか。
・今の子供達に必要な栄養は取る,ということがある以上,食べるべきだと思う。だからそのことが考えられる場合は,「食べて」と言う。
・その子どもに適切な量は子どもが決めるべきでは? できるかどうかわからないけれど。
残食0 にしないと大人が大人に指導される。大人の都合が優先されてる。
目的は~だからと説明してその行為をするとそれは虐待ではないと思う。

私からのコメント
 「学校の「教育虐待」ってどんなことだと思う?」という問いに対して、給食指導が出てきたことに、ちょっと驚きました。でも、よく考えてみると、「用意された中にあるものを全て食べることが求められる」というのは、勉強においても同じことが起きているわけで、根っこは同じところにあるということかと思います。先生はいいことをしていると思っているのですし。(学校の場合は、虐待、とは法律上、定義づけられないので、書籍の中にも書きましたように、エデュケーショナル・マルトリートメント、という言葉を私は使っています)
 もっといろいろな例が上がっても不思議ではないのですが、今回は、一つの事例として、この件しか上がっていませんので、この件に絞って回答しますね(調べてみると、実際、完食を求められたことをきっかけに不登校に入る子どもたちの数は少ないようです)。給食、を、勉強、に置き換えて読んでいただくと、考えの巾を広げることができるかもしれません。

 
給食指導はよかれと思ってなされます。家庭における食生活の変化がある中での給食指導はとても難しいでしょう。子どもの発達を考えた食事と、子どもの食べたいもの、食べ慣れているものはしばしば異なります。
 日本の学校給食は本当によくできたシステムで、子どもの発達を考えて栄養や分量が定められているのですから、本来的にはそれが食べきれればいいのですが、そもそも時間が極端に短い、先生に時間的余裕がない、アレルギーの子など特別な対応も必要で手が回らない、給食費滞納などそもそも担任の業務が煩雑で心の余裕もない、COVID-19で黙食を強いなければならないなど、様々な問題が出てきています。
 「おかあさんやすめ、ははきとく、まごはやさしい」は、発達によい食材、悪いメニューの最初の一文字のリストですが、「おかあさんやすめ」のメニューしか食べられない子どももいます。カナダに住んでいたとき、ハンバーガーとスパゲティしか食べられないという人たち(大人もです)にしばしば出会いました。成人病の原因になりますし、食事が楽しくないし、子どもの言う通りでいいのか、という問題は残ります。

 ですから、無理やり食べさせるのは虐待、という考え方もある一方で、それも程度次第、やり方次第(その食べ物の果たす役割を伝える、楽しい食の場面を演出する、小さい時から誰かが食べているところを見て育つ、実際に栽培や収穫、調理の経験をするなど)だと私は思います(私自身は、小学校2年生の時に、担任ではなく臨時で来た先生に、残してしまった四角いマーガリンをそのまま一個食べるまで休み時間ずっと見張られて、塊を食べさせられた記憶が鮮明に残っています)。
 食べられない理由はさまざまです。
 実際のところ、現在、離乳食がきちんと飲み込めない赤ちゃんが急速に増えてきています。様々な育て方の問題が身体発達に影響を及ぼし、そのために食べられない子どももいます。そういう問題が頻出していることにやっと専門家が気付き始めたところですから、これから学校給食の問題にもなっていくでしょう。
 私が、子どもの発達に関する様々な問題を、社会的なマルトリートメント、と呼んで、親や教師個人の問題で終わらせないようにしようとしているのは、そういう背景があります。そもそも子どもたちが育ちにくい社会なのです。そういう社会になっていることに皆が気付いて動き始めなければ、どんどん子どもたちの発達は変化していき、その子どもたちが大人になって親になってと連鎖していきます
 つまり、この問題は、食べさせるのが虐待、食べさせないのが虐待、と言うレベルの話ではなく、
① 先生と生徒との人間関係の問題
  自分が嫌いな食べ物を、寄ってたかって皆に食べさせられる状態を思い   
       浮かべて下さい。絶対に嫌、ですよね。
② 子どもの発達上の問題
  栄養のバランスは大切ですから、好きなものだけ食べさせている、と言
  うのは問題です。食べさせ方の工夫が必要ですが、それを多忙な教員が   担うことが可能か、というもう一つ別の問題が出てきます。
  また隠れた身体発達の問題もあるかもしれません。
③ 家庭における養育の問題
    そうすると、家庭の協力、乳幼児期からの食の問題の改善が必要になり   ます。
④ 社会における食へのあり方の問題
 などをトータルに判断して対応しなければ解決できないことなのです。

 エデュケーショナル・マルトリートメントはちょっと複雑です。

学校は,なんのためにあるの?と聞かれたら,どう答える?》
・学校は子どものためにあるけれど,学校を動かしているのは大人だから大人の都合で動かさざるを得ない。できるだけ他の大人の目に触れないところで,子どもを優先させたいと思うが。最低限のやるべきことをコンパクトに抑えて,子どもの自由な学習時間を確保できるようにしたい

★私からのコメント
 
本当に子どものためにあるのか、というとちょっと疑わしい気がします。なんのためにあるの?という質問自体、その存在に子どもから疑問を投げかけられ、歓迎されていないことを示しているようです。
 いろいろな答えが考えられますが、それよりも、そういう疑問が生じてしまう、ということについて、私たちは考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 

テーマ3 「子どもたちが自分の生きる世界を理解し把握するために学ぶ」
1章47 ページを,自分の教科や学級でどう実現する?
・指導要領は時代とともに変わっているが,科目が,必要だとされるものに対してどんどん増えている。たくさん求めすぎでは? その全てができるように求められているのが今の教育では?
・それは,もしかしたら,得意なものを見えやすくすることかもしれない。自分を見つける手段として科目が増えているのかもしれない。選択肢に触れることで自分の世界が広がるし,自分が見える。
均等を求めているのは誰なのか。社会か
・社会から全教科(の学びを)求められるとは思わない。義務教育段階だと広く浅く学ぶことが求められるのかな。それぞれの教科担任がそれぞれの教科ができること,楽しさを知ること,魅力を知るために押し付けているイメージ。
・全部均等にできることは自分の世界が「完璧」になることを自分に求めてしまう気がする。その子どもが自分の世界や自分の得意が見えるように働きかけたい。
・この「子どもたちが自分の生きる世界を理解し把握するために学ぶ」ために,自分の教科で関わることができれば。
社会や実生活と結びつくことが大切では?そのことが,子どもが生きている世界の把握や発展につながる。将来自分が何をしたいのかを考えるきっかけにしたい。

★ 私のコメント
    赤ちゃんが学ぶのは、それが
  自分にとって生存に関わるからです。
  新しいことを知ることで世界が広がって楽しいからです。
  子どもたちも同じです。
  生きていくうえで必要なことを学び、世界を広げていきます。
   ただ、今は、学校以外からも様々な知識や情報、技術を得ることができるようになっています。トータルに24時間どんな学びをしているのか、を考えて、学校で教えるべきことをもっと基本的なところ(その生徒が生きるために必要なこと)に限定することが必要であると私は考えています。
 そもそも、先生が「教えている」ことと子どもたちが「学んでいる」こととの差がありすぎます。「教えなければならない」と先生たちが思っていることの何割を子どもたちは学んでいるでしょうか。実際に学べる分量を量りで図って、そこ以上は詰め込まないようにするとか、応用の利くものを詰めるとか、工夫しなければ、子どもは無限の受け入れ先を持っているわけではないのです。しかも、睡眠や遊びのように、子どもの発達に欠かせないことに取り組む時間も保障しなければなりません。学校は、宿題という残業なしで、一日、体験の裏付けのあることを240分も教えたら十分ではないでしょうか。その容器に入る範囲のものを提供するようにと思います。

 以前、熊本県の教育センターで、教職員の皆さん120人に、
「(熊本空港からのバスの中でキャバクラの宣伝がとても多かったので)このようなキャバクラに勤めなければ食べていけない貧困家庭で育っている中学生女子が現実に熊本県内に住んでいて、中学校にも通ってきているはずですが、あなたが昨日、生徒たちに教えた授業内容は、義務教育を終えてキャバクラで働いているキャバ嬢たちにどのように役に立つ内容だと思いますか?」「その生徒には、義務教育の間にどんなことを教えることが大人として、社会としての責任でしょうか」という問いを投げてワークをしたことがあります。

武田 信子 「大学・教委の連携研修―教員研修モデルカリキュラムにみる連携促進のポイント― 第4回 リフレクションを基盤としたミドルリーダー育成プログラム」ジアース教育新社 2015  

この点については、授業でもう少し話していきましょう。
 

テーマ4 大人(保護者や同僚)が過剰に一人歩きしたり先回りする。教員になった時に、このような保護者に出会った時に自分はどう声をかけるだろう
・教育熱心の中に教育虐待があるという図があった。それを考え,保護者がやりすぎているなと気づいた時に,どう声をかけるかなと思う。「子どもさんはどう思っているのかな」と子どもの思いに目を向けるような発言をするかもしれない。
・子どもと直接しっかり話をして,子どもの代わりに親に伝えるということはできないかな。アドボカシーのような感じ。
・学校が家庭にそこまで入ってしまっていいのかなと思う。子どもの第1養育者は親。学校が正しいわけではないから。学校の先生がそれほど偉いわけではない。
・家庭に踏み込むわけではないが,自分は絶対的な正義として「子どもの人生は子どものためにある」と思っている。親が,自分がこうなって欲しいと思っていて親がそれを子どもに求めるのなら,それは間違いだ。
・本当に「子どもの人生は子どものためにある」とあるなら,大人は何をするだろう?自分の得意を後押しして欲しかった気がする。ダメとか,無理とは言わない。目指すことはいいけれど,「保険」を一緒に考えてほしい。
・自分は失敗させて欲しかった。先回りして失敗させないようにしているように思う。では自分は「やりすぎ」にならずに,失敗も見守れるか?担任とか受験校を決めるとなると難しい。
・誰かの失敗があれば,「大丈夫?」というのではなく,「次のステップだね」とLINE した。そういう関わりをしたい。

★ 私のコメント 
 この部分については、2つの note が役に立ちそうです。

 先生だから、保護者だから、ということを超えて、一緒に育てていく子どもたちに対してどう接するか、共に考えていけるといいですね。


テーマ5 自分の中に存在している価値観とどう向き合う?
・個人的なことだと自分の価値観を通していいけれど,教育という場面ではそうはいかない。
・自分の中でなりそうだけど,いろんな価値観を持った人がいて,それを聞いて決めるのはその人。村が必要という話が本の中にあったように,その人の周りにいろんな価値観の人がいて,いろんな価値観が入ってきたらいいなと思った。
・教室や学校が「村」だったらいいのでは?
・他の人と価値観がぶつかった時どうする?自分の価値観を置いておいて,相手の価値観を理解して,合理的に考えたいと思ったけれど,価値観があって目的ができるのか,目的があって価値観ができるのか,どうかなあと思う。どちらが先なの?
・価値観が先かなと思うけれど。価値観はどこで生まれたのかという問題も残るけれど。

★ 私のコメント
 民主的な対話ができる世界の中では、それぞれが自分の持つ価値観を表に出して話ができるでしょう。自分の価値観を表に出さない人と、互いに本当に良い人間関係が持てるでしょうか。

 教育という場で価値観を出してはいけない、というのは、日本の場合はそういうふうに考えられていることが少なくないようですが、私が滞在していたオランダでは違いました。先生が、「私はこう思うけれど、あなたはどう思う?」とちゃんと聞くということでした。
 先生の言うことは絶対という風土がある日本では、危険も伴うかもしれませんが、先生と生徒も「知識量や教え方や経験が多い」先生と、「子どもなりの考えを持っている」生徒たちとが、対等に話し合える条件が整得られれば、お互いにいろいろと話し合っていいのだと思います。

 学校や教室を 村 にするという発想はいいですね。そのためには多様な村人が必要です。学校が今のままでは、村 にはなりません。逆に、地域が学校になればいいと思いませんか。かつて子どもたちは地域で様々なことを学んでいました。今はそれがなくなってしまいました。体験、経験、多くの人間に出会うこと、それらをどう作っていくかを考える必要があるでしょう。いろいろな人に出会ってこそ、価値観ができていくと思います。


テーマ6 「いい人生」ってなんだろう? 「人間の価値」ってなに?
・やりたいことがわかって,それができる人生
・生きがい(このために~する,ということ)があることがいい人生
・私が「幸せ」と感じられる人生,そのために努力する人生

★ 私のコメント
 哲学的な問いですね。誰が「いい」って決めるんでしょう。
   自分の人生については特に、 一人ひとりが決めることだと思います。
 最低限の健康で文化的な生活ができて、そこそこに生きられたらいいなあとは思いますが(これが難しい)、第三者に「いい」とか「悪い」とか言われるものでも、言えるものでもないように思います。
 「悪い」としか言えない人生はあると思いますが、それ以外の人生は、いろいろな波の中で年月の経過とともに変化していくのだろうと思います。本人の意志で何とかできるようになるまでの子ども時代、特に乳幼児期は、セイフティな環境の中で生きてほしい、それがその人の人生の根っこになるからと思っています。 

 実はこれ以外に、各章ごとにこの倍以上のコメントをいただいたので、昨日は、そちらへのコメントを中心にお話しさせていただきました。どこかで研修や講演、ワークショップなどの機会がありましたら、またどうぞ聞いてみて下さい。

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