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教員養成のそもそも論-学問と実践

1. アンケート調査の目的と実施ならびに結果
教員養成に関わる先生たちは、「教員養成課程では学問を学ばせることが大切です」「いや、もっと実践的でなくてはなりません」と議論しています。が、この議論において、学びの当事者である学生たちの受け止め方はどれほど考慮されているでしょうか。「教えた学問」「教えた実践」「教えるべき理論」「体験させるべき実践」は、履修した元学生たちにどう伝わったのでしょうか。本稿では、その「そもそも」の前提を扱いたいと思います。

教員養成のあり方を学問として検討するのであるならば、当然、学び手の立場を考慮し、「何を教えるか」に加えて「どう教えるか」そしてそれが「どう学ばれたか」を検討するのが、学問的態度であると私は思うからです。

そして、その結果に基づいて実践が改善されていくのが、理論と実践の統合の実現であり、結果発表!で終わっては、研究の意義が薄れるばかりか、「理論と実践の架橋」を謳う教師教育学が、「机上の学問」という批判を受けても致し方ないと思います。

教師教育者が今の大学で起きていることをリフレクションするためには、今一度、学びの当事者である学生たち、あるいは卒業生たちに、しっかりと感想や意見を聞き、そこをスタートにすることが必要でしょう。そこからこそ、教員養成と学問や実践との関係を考えることができるようになるでしょう。

この問題を考えるきっかけとするために、10月29日から11月1日まで4日間、フェイスブック上で無記名アンケートを実施し、回答を集めました。112名から回答がありました。質問は2つです。

(手違いがあって、一問目、1割2名、2-3割2名、半分1名、7-8割2名という結果がうまく図に統合できておらず、6名は第二問に回答していません。結果に1-2%の誤差が生じてしまいました。お詫び申し上げます)
 
以下は質問と回答結果です。

大学の教員養成課程の免許取得要件となっている授業の中で、自分が学問を学んだと思える授業はどのくらいの割合でしたか?
(先生が学問を教授していた授業、ということではなく、自分が学問に取り組んだと思う授業の割合です。また、どの授業が免許取得のための科目であったか覚えていないという方もいらっしゃると思いますが、ここでは自分の感覚でお答えくださって結構です)

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大学の教員養成課程の免許取得要件となっている授業の中で、自分が教育実践を学んだと思える授業はどのくらいの割合でしたか?
(先生が教育実践を教授していた授業、ということではなく、自分が教育実践を学んだと思う授業の割合です。また、どの授業が免許取得のための科目であったか覚えていないという方もいらっしゃると思いますが、ここでは自分の感覚でお答えくださって結構です)

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さて、最初にお断りしておかなければならないのは、FBという母集団に偏りのあるSNSの特定グループ(教師教育学研究会)とそこからの拡散の範囲で回答を集めた無記名調査には信頼性も妥当性も保障されていないということです。結果に対してある意図を持った複数回回答者がいても確認できていませんし、回答者の年代や受講した課程によって受けた教育の傾向が異なるかもしれませんし、卒後に教員になった者とならない者では、授業に対する意識や気づきが異なるでしょう。また、回答者数が100名程度というのはこの種のアンケートとしては大変少ないと言わざるを得ません。

ただ、このアンケートの主目的は、「教員養成がどうあるべきかを論じるにあたって、履修学生の意見を聞くということが何よりも大切であるということを指摘すること」にありました。学校教員にフレット・コルトハーヘンの、あるいはショーンの、コルブの言うところのリフレクションが必要なように、大学教員にもまたリフレクションが必要であり、理論と実践の統合を標榜するのであるならば、それを自分がなさなければならないし、そういったベースを抑えないままの研究は、どれだけ研究手続きが厳密であったとしても、研究単体で優れているとしても、現場にとっては画餅に過ぎないということです。

2.問題
今回のアンケート結果は、多くの元教職課程学生に「そうだろうな」と受け止められるでしょう。それは、きっと大学教員も同じでしょう。いやいや一般常識は間違っていることがある、だから研究でしっかりと結果を出さなければならないのだ、というご意見もあるでしょう。その通りだと思います。だからそういう研究が進むといいなと思います。

実はこのような問題意識で調査を行った研究論文をかつて読んだことがあります。その調査結果では、多くの回答者が「大学の授業は、教員になった後で役に立たなかった」と答えていました。しかし、その論文の考察には「学生たちは大学の学問や教育の理論の重要性が十分に理解できていない。大学は学問をより一層教えていかなければならない」と書かれていました。なぜ学生たちが、学問、理論の重要性がわからないのか、そこには教師教育者による教え方の問題やカリキュラムの問題などいろいろな原因があるはずです。理論を学ぶ授業を履修したにも関わらず、それを実践につなげられなかったのはなぜか、ということについて十分に考察されておらず、したがって、もちろん解決策を模索するところまでの探究はなされず、せっかくの良い着眼点の研究が、研究で終わっていました。つまり研究と実践の往還がなされなかったのです。

こういった問題点を教師教育学として検討するということが長年なされてこなかったことについて、私はここで改めて問題提起したいと思います。

なぜなら、私は、「大学教員が言うところの学問というものは、実践に何の役にも立たない、理論なんて意味がない」というネガティブな感覚を持って教職課程を終える多数の学生たちの存在を危惧しているからです。教えることによって、逆に否定される。教育がうまくなければそういうことは起こりえます。そしてそのままそういう学生たちが「大学で学ぶ学問なんて大半は役に立たないけれど、就職と将来のために受験勉強は頑張りなさい」と子どもに言う親や教師になってしまうのではないかと憂慮するのです。

一方で、実践については、これまであまり重視されてこなかったために、アンケート結果では大多数があまり学んでいないという結果が出ているわけですが、現在はかつてより比重が高まっています。では、学生はどんな実践をどこで誰からどの程度学びたいと思っているのでしょうか。これだけ学校教育において様々な問題が生じている中で、前の世代の実践を踏襲していいのかという問題もあるでしょう。

3.教員養成と学問・実践
教員養成は、戦後、開放制、つまり、大学で学問を修めたものが一定の単位を修得すれば教員になれるという形をとってきました。つまり深く学問を学んだ者が教員予備軍としてストックされるという仕組みです。私は、開放制は良い制度だと思っています。

しかしながら、日本において、多数の大学が必ずしも学問を修める場ではなくなっている(就職のための資格取得機関あるいは若者の交流やモラトリアムの場になっている)現状がある現在、教職課程の単位を修得して大学を卒業したからと言って、教員の資質・能力を満たしているとは言い切れないでしょう。ゲートキーピングが必要です(ただでさえ、教員志望者が減少しているこの時期に、このような問題提起をすることについて、忸怩たる思いはありますが、だからと言ってこのまま放置しておいても現場はよくならないでしょう)。

教員免許取得のためのゲートをきちんと守るためには、大学教員側の責任として、大学4年間に学生たちをゲートが通れるように育てることが必要になります。あるいは、そのゲートが本当に視野の限定された若い学生たちの通るべきゲートであるか、他の可能性はないかを考えさせる機会を設けることも必要でしょう。それは授業を通してということになります。

教師教育者は、授業の中で、教育について考えたり、教養を身に着けさせたり、多様で深い学問に触れさせたり、専門の学問と教育をつなげたり、実習の機会を作ったり、大学の中にそういう機会が持てるような仕組みを作ったりしながら、学生たちを育てていくわけですが、それによって学んだ経験は学生たちからはどう受け止められているでしょうか。

大学では広く深く学問を教えるべきだと、多くの教員養成課程の教師教育研究者は思っており、教えているつもりです。一方で、近年は、大学に現場出身の実務家教員が多くなり、その先生方はもっと実践を経験させるべきだと思って、教えているつもりです。
が、実際に履修した者はどう思っていたのでしょうか。

この簡易なアンケートによる「信頼性のまったく担保されていない」結果は、検証される必要があるでしょう。そして、研究として出てきた結果が、現場の改善に反映される必要があるでしょう。教師教育が学問的な裏付けに基づいて展開されていくために。

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