見出し画像

自己紹介(2024.4.13)

小説の続きを書くために勉強中。
楽器はおろか、ドレミもコード進行も分からないので、なかなか大変。

"『猫ふんじゃった』すら弾けないが、韻踏んじゃったらお前もライマー"と、マミーD(ライムスターのマイクロフォンNo.1 MC)が『ザ・グレート・アマチュアリズム』という楽曲内でラップしていた事を思い出す。

とはいえ、"お前もライマー"(ライミングする人、韻を踏む者、つまりラッパー)には、なれなかった。

ダンサーにもなれなかった。
安定を求めて公務員にはなったけど、安定剤飲んで血尿垂れ流しながら辞めた。


幼少期は空手をずっとやっていた。
転校が多く馴染めずいると、すぐに目をつけられるいじめられっ子だったから。親が小学校4年の頃、通わせてくれた。それでも喧嘩は弱かった。
ただ、団体競技じゃないから好きだった。
多分合ってた。
ブルース・リーもジェット・リーも
アンディ・フグも、桜庭も、五味も、ミルコ・クロコップも青春だった。

高校2年〜20代はダンスしかしていなかった。
楽しい思い出しかない。
社会人になる前は、毎日10時間くらい練習してた。
好きだし誰よりも練習してたけど、人の考えた振り付けが覚えられないから、最終的に、「ノブは間違えたらそっからは自由!」っていう無敵の称号をもらった。無茶苦茶だけど、そういう寛大な人たちが周りにたくさんいた。

あとはネット大喜利にもハマって、ダンス以外の時間はずっと大喜利のネタを作ったり、ネタ投稿してた。

お題:鼻から出てきたらびっくりするもの。
回答:6


お題:写真で一言

回答:そばアレルギーこわい

「文字だけでどこまでやれるのか?」っていう初期衝動はこの時抱いたものかもしれない。

ある日、お題に、風神雷神図屏風が一枚添付されていて、「写真でひとこと」という定番お題があった。どなたが回答したかは失念してしまったが、それに対する回答が、

「」

だった。感動すら覚えた。表現力や発想の妙について考える良い癖を身につけるきっかけにもなった。
それから、今でも交流している友人や心優しい先輩も出来た。不思議なもんで、顔も名前も知らなかった誰かと、ちゃんと顔を見ながら話をしたり、何かあると電話で話をしたり、手紙を書いて送ったりするのは、リアルとネットの線引きをしないと危ない世の中で、ある種の例外で、心を豊かにした数少ない成功例だと思っている。


これが「」に見えたのは、なんと6歳の男の子だった、
という事を後日知った。素晴らしすぎる。


19歳の頃の一人暮らしは最悪だった。アパートの真裏が屠殺場で悪臭がすごかったし、水回りはずっと腐敗臭が漂っていた。水道管が腐っていたらしい。
でも、まあ楽しかった。バイトでもらった廃棄の弁当を夜勤明け、誰もいない浜辺で食べるのが日課だった。上手くトーストが焼けた日も嬉しかった。
狭いし、西日がきつい部屋だったけど、いつも誰かしらうちに居て、朝までゲームをしたり、一緒にレポートを書いたりしていた。

懐かしい。
セメダインさんのキャッチコピーに
エントリーするってのは一種のロマンだった。
こんときは痩せてたなぁ(笑)
第47回宣伝会議賞に初エントリーした。当時はラジオCMや劇画っぽいテレビCMが作りたかった。
にしてもヒドイ絵コンテ。なんだ『双頭の紅魔牛』って。
言葉の力を信じ始めた25歳の4月。
あん時は認知症対応型デイサービスで働いてた。
ラジオから流れてきた『アンパンマン』のテーマ曲の歌詞で
泣いた5月の事も多分忘れない。
新聞広告や、駅に掲示されるような
文字主体の広告が好きだった。

27歳の夏に右足の半月板を損傷して、もうバトルには出れないと医者に宣告された。1時間以上の高負荷運動をすると膝に水が溜まったり、高熱が出る体になってしまったからだ。

28歳の頃から、職場で先輩たちからいじめを受けるようになった。悔しかったから、休まずに1日13時間以上働いて、それを一年以上続けた。いや22歳の頃からそんな感じだったな。

で、腎臓にソフトボールサイズの水が溜まって、血尿が止まらなくなった。

29歳7か月の時に、当時電通で働いていた同い年の女の子が過労死したとニュースで報じていた。

29歳8か月の時に、鬱になり、某自治体の社会福祉法人を辞めた。その時の検査で、脳の発達に偏りがあることがわかった。主治医からは、自分の得意なことを仕事にした方がいい、と言われた。

30歳の誕生日プレゼントは、Webライターへの転職成功という変わったものだった。コピーライターになりたかった当時は、必死に転職活動と『宣伝会議賞』というコンテストへの応募活動を併行していた為、夢が叶って本当に嬉しかった。48万分の1という狭き門のコンテスト一次審査も通過できた。

でも、現実はそう甘くはなかった。自分の作るキャッチコピーや宣伝文が、営業マンやお客さん達から不評だった為、『逆SEO対策』という仕事を任されるようになった。

約半年間、ネット上に会社から言われるがまま、嘘でっちあげのサクラレビューを書いたり、指定された5,6個のキーワードで1200文字以上の記事を月に40個作っていた。

「自分の書いた文章が誰かを不幸にさせてしまう。」、「自分が文章を書かなければ、むしろその方が社会のためになる。」

そういった理由で、31歳の冬には退職していた。
そこから、元々学生時代に取得した社会福祉士の資格を頼りに、また嫌な思いをした介護や福祉の世界に戻ることとなる。

体も心もボロボロで、何度も死のうとした。
いや何度も言い過ぎか。3回だ。いや4回か。

こんな不幸自慢をしたいわけじゃない。
小説だ。いまは小説を書くんだ。

まさか、こんな事をしているだなんて、27歳の頃の自分が知ったらびっくりするだろうな。

1日なんてあっという間過ぎる。すぐに日付が変わる。寝る間も惜しい。でも眠たい。今日はもう寝ようかな。どうしようかな。

まあ今日は寝るか。無理はいかん。
いや、やっぱ書くか。

まだ終わってねえよお前は。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?