シマシマ

ねこのシマシマは、まいにち、ずーっと、まって、まって、まっていました。かいぬしのフォー…

シマシマ

ねこのシマシマは、まいにち、ずーっと、まって、まって、まっていました。かいぬしのフォードさんたちは、みんないそがしくて、シマシマにごはんをくれるひまもないのです。ある日、シマシマは、もうまつのがいやになり...

最近の記事

公共空間の消失を超えて

ちょっとおもしろかったので、メモです。 「京太郎のブログ」さん。 公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる 公共空間。 これこそが、個人の寄せ集めからなる集団を、道徳や美徳や信念といったものを定義せずに、規範やルールとして明文化することを避けながら秩序づける、なかなか出来のよいポリティクスだと思っていました。 しかし、京太郎さんのブログを読むに、これももはや、私的空間の拡大とアイデンティティの闘争の果てに消えうせてしまったとのこと。 うーん。確かに。 悲しい。

    • 「荘子」を読む(第二 斉物論篇 六)

      出典:森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス) 「逍遥遊篇」は飛ばして「斉物論篇」を読み進めていきたいと思います。 また、前から読み進めてとくに味わい深いと感じる箇所を取り上げていきます。 第二 斉物論篇 六 生きるというのはどういうことであるのか、と自分に問いかけたこともないような人がいるのであろうか。 そういうものがフッとよぎる人もいるでしょう。 フッともよぎらない人は本当に一生よぎることはないのでしょう。 そして、フッとどころかそればかり考える人もいる。

      • 「荘子」を読む(第二 斉物論篇 二七)

        出典:森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス) 秋水篇を読みました。 最後の荘子と恵子のやりとりは愉しげであり、微笑ましく思いながらも、井の中の蛙や河伯と北海若のやりとりなどは、少しいまいちな気がいたします。 まずはやはり、斉物論篇の「胡蝶の夢」を見てみたいと思います。 短いながらも、「物化」をよくあらわし、深みを感じるというか、気持ちがいいですね。 第二 斉物論篇 二七 万物斉同。 私は私であって、私でない。 そこに区別はありながらも、区別がない。 一でありな

        • 「今を生きる」の誤解について

          ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』は、とても美しい映画でした。 さて、今日書くのは、この感動的な映画とは関係ありません。 しかし、観たことがない方は、ぜひ観てみてください。 「今、ここ」。「今を生きよ」。 そうだ、そうだ。今しかないんだ!今を生きねば! 今、ココに集中しなければならないのだ! はぁ? いや、確かにそう。間違いないんですが、ちょっと待ってください。 このフレーズ自体とてもインフレになってますし、なんて誤解が多いことでしょう。ぜったいに騙されない

        公共空間の消失を超えて

          あなたより1日でも長く生きよう

          最愛の人が病気やけがなどで命が危ぶまれる状態になったとき、さまざまな不安があなたに訪れるでしょう。 長く苦しむことになるかもしれない そのまま亡くなってしまうかもしれない 本人の不安があなたにぶつけられることになって、悲しむことになるかもしれない 付き添ってあげられるだろうか 介護ができるだろうか ちゃんと葬儀ができるだろうか 入院や手術に耐えられるだろうか 保険や預金、その他の整理はできるだろうか 家族間でのいさかいが起きないだろうか 周囲の人と協力して

          あなたより1日でも長く生きよう

          離脱について

          将来のことを考えてみる。やりたいことがない? おめでとう! 「私はこれをやりたい」、「がんばらなきゃ」、「俺はこれが好きなんだ」 よかったね。 でもそれがどうした?? とはいえ、先のことを考えて、うまく生きていかないといけない、ということになっている。 まぁ、そこは何とかしないといけないわな。 先々まで読んでみるみると、何が起こったとしても、私は何とか生きていくだろう。 単純に考えて(考えなくても)、私は守ろうと思うものがあり、守るために生きねばならんだろう。 その守るべ

          離脱について

          なにがわからないのかわからない

          「なぜできないのかわからない」と「なにがわからないのかわからない」は似ているようで全く違う事象という話。 自分が自分で「なにがわからないのかわかならい」場合、その状態ではヒトに伝えることはできないので、ジッと待ってもらうしかありません。 相手が「なにがわからないのかわからない」場合は、ジッと待つしかありません。 せっかちな人は、あれやこれや言ったりするでしょうが、それ自体が邪魔をしてしまいます。 言語化できないそれを「わかる、わかる」と、その分かろうとしている状態をできる

          なにがわからないのかわからない

          なぜできないのかわからない

          ヒトに何かを教えていると「なぜできないのかわからない」事象に合うことがあります。 最近では「それは教え方が悪いから」ということが多数意見のようですし、「なぜ」と問うこと自体、パワハラに繋がるということになってきているようです。 どこまでわかっているのか、現在地はどこで、ゴールまでの道のりを把握して、ひとつひとつクリアしていくべきである、と。 しかし、それでは今そこにある問題を何も解決しません。 むしろ、多くの場合、単に知識不足で、解釈のとっかかり、足がかりが掴めていないから

          なぜできないのかわからない

          沈黙の中にこそ真実がある

          独我論は、実は正確に示唆している。 時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。 世界の意味は、世界の外側に存在していなければならない。 世界のうちでは、一切はあるがままにあり、起こるがままに起こる。 世界のうちには、いかなる価値も存在しない。 それゆえ、いかなる倫理学の命題もまた存在しえない。 何かを為さねばならないという、その不自由さに違和感をおぼえる。 わたしは、本当に、わたしに求められていることを為す。 願わくば、どうしたいということなしに、生きさ

          沈黙の中にこそ真実がある

          目的が先にあるんじゃなくて、要件定義を進めて目的を明らかにしていくという順番。

          目的が先にあるんじゃなくて、要件定義を進めて目的を明らかにしていくという順番。

          イライラしないようにしない

          人にイライラされるとこちらまでイライラします。 私はわりとイライラしている人に敏感なようです。 敏感なだけで、そのイライラを解消できるわけではないのですが、困ることであります。 実際、イライラしている人は、それを合理的に解消しようとするわけでもありません。 ほんとうにイライラを解消しようと思っているのであれば、何らかのアドバイスは可能だったりしますが、ただ単にイライラをぶつけてくる人に対しては、こちらもイライラしてしまうのです。 そして、自分は勝手にスッキリして去っていく。

          イライラしないようにしない

          自己のために為す親切と他者のために為す親切

          ひろゆき氏が「「人助け」に対する考え方の違いについて私見を述べ、反響を呼んでいる」という記事がネットで上がっていました。 ひろゆき氏が過去にYouTube動画で「外国の『ボランティア精神』はどんな考え?」という質問に対して語っていた動画をツイートされているのを受けて、追加で補足ツイートをしたということのようです。 どこかで聞いたような気もしますが、とても好いことおっしゃってます。 Sirabeeというサイトに書かれていた記事を引用します。 ひろゆき氏は、外国の「ボランティ

          自己のために為す親切と他者のために為す親切

          結果にこだわるな

          「結果がすべて!結果を出さなければ意味がない!」 どこのアスリートだよ! この世界において、実は、ほとんどのことが結果です。 ほとんどというより、私が為そうと意図したことですら、為す前からすべて結果です。作為を企図したと思っている自分がいる気がするだけだからです。 結果にこだわらなければ、行為がただ起こっていることになります。 「原因と結果」、「目的と手段」という言葉もかなり怪しいものです。 結果しかないということは、原因も目的もないからです。 そんな中、一生懸命、結

          結果にこだわるな

          何かを伝えるということ

          いつまでたっても伝えることが苦手なシマシマです。 「伝える技術」というノウハウ本は、たくさん出ています。 あぁ、そうだな。こうするといいのかぁ~。なるほど!ふむふむ! しか~し!!!!! 大前提として、伝えたいモノがなかったらどうしようもないことをご存知だろうか。 What! 伝えるためのハウツー(HowTo)はたくさんあったりします。 しかし、Whatはありません。当たり前ですが。 「あなたが伝えたいことは、これです!これを伝えるための技術はこういうのがあります」な

          何かを伝えるということ

          「荘子」を読む

          人生というものをあからめたい人生というものをあからめたいと思ってきました。 これからどうやって生きてゆけばよいのだろうと思ったとき、何もなかった。 一瞬にして激流、あるいは、静寂・無に放り出されたような。 思考した瞬間に絶対的な孤独に放り込まれたような。 「荘子」を読むあれからもう30年経ったでしょうか。 あれやこれやとやってきましたが、ようやく「荘子」を読むときがきたようです。 荘子のイメージとしては、自由。天衣無縫。そして、無為自然。 しかし、荘子という書物は、全体とし

          「荘子」を読む