自己のために為す親切と他者のために為す親切
ひろゆき氏が「「人助け」に対する考え方の違いについて私見を述べ、反響を呼んでいる」という記事がネットで上がっていました。
ひろゆき氏が過去にYouTube動画で「外国の『ボランティア精神』はどんな考え?」という質問に対して語っていた動画をツイートされているのを受けて、追加で補足ツイートをしたということのようです。
どこかで聞いたような気もしますが、とても好いことおっしゃってます。
Sirabeeというサイトに書かれていた記事を引用します。
ひろゆき氏は、外国の「ボランティア精神」の考え方という文脈で語っているので、米仏の考え方と日本の考え方のどちらがいいという話ではないのですが、相手のためを考えるより自己満足で人助けする方が、表出される親切行為が増える(気がする)ので、米仏の考え方のほうが社会的には厚生が上がるんじゃないかというお話かと思います。
これを読んで、「そもそもその親切行為の何が善いのか」については、ちょっと考えさせられました。
そもそも、自己満足のための親切行為は必ずしも善くありません。
これとまったく同様に、他者満足のための親切行為も必ずしも善くありません。とすると、親切行為が増えたからといって善くなるとは限らないということになってきます。
親切行為でも、その行為が評価されるまでは、善かった(親切であった)か悪かった(迷惑だった)かは分かりません。
結局、実際のところ、自己のために為す親切でも他者のために為す親切でも、どちらでもよいのです。
しかし、一方、その自己のため、他者のためというのが、過剰な承認欲求の裏返しになってないか、という点は重要なところです。
過剰な承認欲求は苦しみをもたらします。(苦しんだらいけないというわけではないです。)
「人に親切にした」ということがダイレクトに「私、満足」に繋がるのであればそれはOKです。
しかし、「人に親切にした」と「私、満足」との間に、実は「その人が感謝してくれた」というのが入っていたとしたら。。。
人に親切にした ⇒ その人が感謝してくれた ⇒ 私、満足
これはすぐに、
人に親切にした ⇒ その人は感謝してくれなかった ⇒ 私、不満
になります。そして、感謝してくれなかったら逆ギレする人はけっこういます。
結局のところ、自己のために為す親切と他者のために為す親切を比較してもあまり意味がなくて、本当は、「自己のため」でも「他者のため」でもなく、そういった目的なく、「あたりまえ」にそういう行為になっているのが好いのです。
「あたりまえ」というと「世間や社会の常識」とかいう意味もありますが、もちろん、「世間のため」でも「社会のため」でもありません。
ただ単にそうした、そうするのが自分にとって自然だからやっただけ。
これは結構難しいところです。
考えてやってたらできません。むしろ、考えてやるからできないのです。
考えずに、自然に出てきた行為がそうだった、というだけでよいのです。
とはいえ、
表出する親切行為そのものは、自己のためでも、他者のためでも、世間のためでも、あるいはそういう目的がなくても、あまり変わりませんから、ふつう他人はあなたの自然の行為というのを理解できません。
だから、いろいろ空気を読んだり、直接訊いたりしなきゃ、あなたのその自然な行為もうまく行為にならなかったりします。
「あきらめないで!」あなたのその行為は、ただ素敵です。
それでは、また。
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