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「今を生きる」の誤解について

ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』は、とても美しい映画でした。

さて、今日書くのは、この感動的な映画とは関係ありません。
しかし、観たことがない方は、ぜひ観てみてください。

「今、ここ」。「今を生きよ」。

そうだ、そうだ。今しかないんだ!今を生きねば!
今、ココに集中しなければならないのだ!

はぁ?

いや、確かにそう。間違いないんですが、ちょっと待ってください。
このフレーズ自体とてもインフレになってますし、なんて誤解が多いことでしょう。ぜったいに騙されないでください。

むしろ「今、ここ」なんて忘れちゃってください。

実は、そんなことは、本当にもうどうでもよいのです。
「今」に集中しようとしないでください。

そんな努力は何の役にも立たないし、集中しようとすればするほど、「あなた」から遠ざかります。

「今、ここ」「今を生きる」という状態は、本当は、「過去にこだわっておらず、未来を怖れていない」状態のことです。

今に集中「しようとしている」状態ではありません。

過去でもなく、未来でもなく、そして、今でもない。

追憶に耽らず、未来を怖れすぎず・期待しすぎず、今を貪らない。
そこが、「今、ここ」にいる「あなた」です。

がんばって「今に集中している」から「あなた」なのではなく、「あなた」になっているから、「今に集中できている」のです。

今に集中しようとするのではなく、
追憶に耽らず、未来を怖れすぎず・期待しすぎず、今を貪らない。

その「状態」を続けるのはなかなか難しい

今に集中することは、とてもシンプルなことです。
なんとなくならすぐにできるでしょう。
今やるべきことをすればいいだけなのですから。

しかし、その「状態」を続けるのはなかなか難しいことです。
だから、いろいろな虚妄や誤解が生じているのです。
ただ、「今、ここ」を実現するためには「今に集中しなければならない」という誤解だけは、捨て去りましょう。それは逆なのです。

「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」

何か参考になるとすれば、『エックハルト説教集』がいいでしょう。
無明とは何かを知ることができるかもしれません。

聞きなさい、次のような人々は皆商人である。
重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。

『エックハルト説教集』「魂という神殿について」

M.ウェーバー『職業としての学問』もおすすめです。
自分で考える覚悟ができるかもしれません。

いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされない。
自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に――人間関係のうえでもまた職業のうえでも――従おう。

M.ウェーバー『職業としての学問』

さぁ、シンクに溜めてしまった食器を洗ってしまおう。

それでは、また。

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