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公共空間の消失を超えて

ちょっとおもしろかったので、メモです。

「京太郎のブログ」さん。
公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる

公共空間。
これこそが、個人の寄せ集めからなる集団を、道徳や美徳や信念といったものを定義せずに、規範やルールとして明文化することを避けながら秩序づける、なかなか出来のよいポリティクスだと思っていました。

しかし、京太郎さんのブログを読むに、これももはや、私的空間の拡大とアイデンティティの闘争の果てに消えうせてしまったとのこと。

うーん。確かに。
悲しい。

京太郎さんのブログは2019年の記事でしたけど、ますます混迷を深めているようにも思います。しかし、今年(2024年)あたりはもう少し何かましな方向に行くんでない?(根拠なし)

全体としてどうなっていくのかはわからないけれども、個々の居場所のなさや社会的な暴力の緩和のためには、アイデンティティなどという相対的でしかないもの(どこまでいっても信頼を置けないもの)と社会的な評価あるいは他者からの承認というもの(経済計算の基礎となるもの)とを同じ地平にのせたり同一視したりすることはそろそろやめるべきだなぁと思う。

ここを乗り越えていくには、「ワタシの多重性」というものを知覚しさえすればよいし(なぜかなかなか知覚できないわけですけども)、そういう人が増えれば、公共空間を新たに自生させることになると思う。
というか、そうなるといいなぁと思っている。

以下、2024/2/15加筆。

公共空間の可能性の簡単な考察

公共空間の可能性のイメージ

A,B,Cはそれぞれ私的セクタであり、それぞれ10づつ生産力がある。

図1では、A,B,Cがそれぞれの私的空間のみで100%能力を発揮して、社会全体として30の生産物を生み出している。

図2では、A,B,Cがそれぞれの私的空間では80%だけ生産し、残り20%は公的空間に提供している。
その結果、私的空間では、24の生産となっており、公的空間では、提供された6の生産物が、交換や協力などを通じて、9の生産に変換されている(※仮に1.5倍になるとした)。
私的空間と公的空間を合わせた社会全体としては33の生産物が生み出されている。

すなわち、公的空間へのプライベートな生産力の提供によって、社会全体としては、より大きな生産物が生み出されている。(※もちろん、分配の仕組みによっては、そのセクターへの富の帰属は減るかもしれない。)

これは、直観的に正しい。
より効率的な配分があるから交換や協力が発生するという市場メカニズムからすると、それが発生する限りにおいて、生産は増えるだろう。

ここでいう公的空間とは、会社であっても国であっても、自治会でも町内会でも、PTAでも、少人数グループでもなんでもよい。
ここでは、公的空間にインプットされた生産物が1.5倍に変換されてアウトプットされるという仮定を置いたが、社会全体としてより大きな富(あるいは福祉と呼びたい)が生み出されるかは、もちろんその公的空間での変換能力(あるいは単に技術と呼んでもよい)の如何による。

この公的空間の変換能力は、固定的ではないにしろ、個々の能力や文化、風土などにも影響される。信頼できる公的空間においては、変換能力は高くなり、信頼できない公的空間においては、より低くなって、マイナスにもなる。

ここらあたりは、モデル化できるだろうし、経済学等の理論的な裏付けも可能だろう。また、さまざまなレベルで文化人類学的な観点での実証研究をすることもできるだろう。

より興味深い課題は、

  • 私的セクタが公的空間へ生産力等を提供する文化があるか

  • 公的空間に信頼性があるか

  • 公的空間への技術的な支援を公的セクタが継続的に担っているか

といったことであろう。
とりわけ重要なのは、リベラル的な雰囲気に包まれたアイデンティティのクライシスが、このすべての課題の達成を困難にしているという側面への考察となる。

それではまた。

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