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何かを伝えるということ

いつまでたっても伝えることが苦手なシマシマです。

「伝える技術」というノウハウ本は、たくさん出ています。
あぁ、そうだな。こうするといいのかぁ~。なるほど!ふむふむ!

しか~し!!!!!
大前提として、伝えたいモノがなかったらどうしようもないことをご存知だろうか。
What!

伝えるためのハウツー(HowTo)はたくさんあったりします。
しかし、Whatはありません。当たり前ですが。

「あなたが伝えたいことは、これです!これを伝えるための技術はこういうのがあります」などと、懇切丁寧に教えてくれるものはありません。

でも、伝えるのが苦手な人って、HowToスキルが足りないというよりも、
伝えること、つまりWhatがそもそもないのが原因であることって、ままあることだと思う。
そりゃそうよ。だって、伝えたい事って、そんなにないよ。。。

仕事で伝えなきゃいけないことにしても、それほど伝えたいと思わなかったりする。
その場合でも、話はしなきゃならない。相手が待っている。
そして、話は迷走して、何が言いたいのかわからないので、相手がイライラしてくる。
何が言いたいの?なんて言われちゃって、こちらもイライラする。
だって、Whatがないんだもの。しようがないじゃない。(笑)

世の中に正解がないことの方が大半なので、その中で、こうであると主張することは、なかなか難しい問題です。
全体像が見えなかったり、見えない部分の展開を場合分けするまでいかなかったり。
そうすると、主張=Whatが曖昧なので、HowToは使えない。HowToはWhatがあることが前提なので。

では、Whatを固めることをすればいいじゃない。
その通り!That's right! Exactly!

でも、Whatを固めるのって、無理やりっぽくてイヤだ。(笑)
本当は伝えたいモノがないのに、無理やりこれが自分の伝えたい事だっていうの。。。
ウソやん。ウソついてるやん。イヤやんそんなん。私はウソが大嫌い。(笑)

でもWhatを固めないと社会的なコミュニケーションがとっても難しくなります。
そうすると、もう世捨て人になるっきゃない!自然と戯れたい~となります。でもそんなお金はありません。(笑)

というわけで、
(1)なぜそれを考えるのかということを腑に落としておく
Whatを固めるためには、まず、その動機が大事です。
んー。なんかここに問題がありそうだと。ここに課題がありそうだ、と。これを解決したり、改善すると、ちょっと何かがよくなりそうだ、と。そういうこと。

(2)調べて調べて調べまくる
これができたら次にやることは、全体像を把握するために、調べて調べて調べまくる。
調べて調べて調べ尽したら、これより先は不定であるというところまで行き着くでしょう。
分からないのではなくて不定であるというところまで。
不定であるから、この先は、あり得るパターンとして考えておく。想定外もあるかもしれない。
代表的なパターンで場合分けしておいて、その場合に応じたアクションを列挙しておく。

(3)全体像を明らかにする
ここまでくると、不定ではないところまでは、見える範囲の全体像として、明らかになってくる。

(4)部分に切り分けて論理的に整理する
全体像が明らかになったら、全体を部分に切り分ける。部分を論理的に整理する。
そうすると、全体がすっきりして、ストーリーとしてわかる。
ストーリーとして分かるというのは、意味論的に分かるということ。
ここまでくるとHowToスキルが使える。逆に言うと、ここまでこなきゃHowToは役立てられない。

(5)削って削って削りまくる
ストーリーができたら、伝えなくても困らない部分をどんどん削っていく。
すると、次のような形に収まっていくだろう。

導入:課題感の話の流れで、ここの話をしますよ。
分析:この課題感は、こう認識するとスッキリするよ。そして、実は、全体像はこうなっている。
施策:だから、採り得るアクションはこうである。
結果:アクションの実施によって、こういう結果(パターンA、B、C、想定外)が予想される。
リスク回避:結果=リスクに応じて、事前にケアしておく点はこれらがある。
Next:結果によって、これらが次の課題として浮上してくる可能性があるが、それはその時また検討しましょう。

最後に。
誤解が多いところかと思いますが、Whatを固めるには、自分自身の主張を持たないといけない、自分を強く持たなければならない、と一般に思われています。
でも、実は、伝えるのが苦手な人は、ここに足を取られてしまっていることが多い。
実際、本当にWhatを固めるには、まったく逆で、自分というものを完全に捨て去らなければならない。
Whatは単に一つの行為であり、決して、自分自身ではないのです。
そして、それは行為としての自分自身なのです。

それでは、また。

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