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「荘子」を読む(第二 斉物論篇 二七)

出典:森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)

秋水篇を読みました。
最後の荘子と恵子のやりとりは愉しげであり、微笑ましく思いながらも、井の中の蛙や河伯と北海若のやりとりなどは、少しいまいちな気がいたします。

まずはやはり、斉物論篇の「胡蝶の夢」を見てみたいと思います。
短いながらも、「物化」をよくあらわし、深みを感じるというか、気持ちがいいですね。

第二 斉物論篇 二七

昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶と為る。
栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自ら喩(たの)しみて志(こころ)に適する与(かな)。
周たるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、
則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶為(た)るか、胡蝶の夢に周為(た)るか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。
此れを之物化(ぶっか)と謂う。

森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)p.73

いつか、荘周(わたし)は、夢のなかで胡蝶になっていた。
そのとき私は喜々として、胡蝶そのものであった。
ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。
そして自分が荘周であることに気づかなかった。
ところが、突然目が覚めてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。
いったい荘周が胡蝶の夢をみていたのか、
それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、
私には分からない。
けれども、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。
それにもかかわらず、その区別がつかないのはなぜだろうか。
ほかでもない、これが物の変化というものだからである。

森三樹三郎[訳]『荘子Ⅰ』(中公クラシックス)p.73

万物斉同。
私は私であって、私でない。
そこに区別はありながらも、区別がない。
一でありながら変化するものであり、変化しながらも一なのである。


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