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なぜできないのかわからない

ヒトに何かを教えていると「なぜできないのかわからない」事象に合うことがあります。
最近では「それは教え方が悪いから」ということが多数意見のようですし、「なぜ」と問うこと自体、パワハラに繋がるということになってきているようです。
どこまでわかっているのか、現在地はどこで、ゴールまでの道のりを把握して、ひとつひとつクリアしていくべきである、と。
しかし、それでは今そこにある問題を何も解決しません。

むしろ、多くの場合、単に知識不足で、解釈のとっかかり、足がかりが掴めていないからじゃないでしょうか。

基本的知識が不足しているのであれば、当然ながら、不足している領域の知識や考え方を学習する必要があります。
それをしようとしないのは、やる気がない、理解する気がないということ。
自分では努力せず、なぜか突然ひらめくのを期待していたり、テスト勉強してないまま、テストに知っている問題だけがでたらいいのにーとか言ってたりするヒト。
あるいは、今持っている知識だけで新たに発見しようとしてたりする(車輪の再発明)。もちろん、それで発見されたものは穴だらけのものになるので、使い物にはなりません。

つまりは、そういうヒトは、改善する見込みがありません。
そのヒトはそれに向いてないのだから、早く違うことをした方がいい。
教える側も教えられる側も時間の無駄なのです。

一方で、
それが社会生活上必須なことだったら、どうでしょう?
そのヒトを排除して、できるヒトだけで進めていくのがいいのでしょうか?
できない(もしくはやらない)ヒトにとっては、その状況はとても苦しいことでしょう。とても生きづらいこと。
そのヒトたちを排除するのは、統治システム上、とても危険なことです。詰まるところ、なぜ排除してはいけないのかという根拠は、人権うんぬんの話ではなく、単に、そういうヒトたちを放っておくと社会が危なくなるから、ということなのです。

なので、「バカは放っておけ」あるいはもっとラディカルに言えば、「バカは排除しろ」という論理は、それそのものが暴力的なだけでなく、社会的にも危険なのです。
だから、ヒトに教えるということは、粘り強くやっていくしかない。それはそのヒトのためではなく、統治システム上の要請なのです。
そもそも「できる/できない」ということは、だれでも獲得可能な「スキル」であって、決して「人格」そのものではありません。必須スキルを高めていく、その価値をもっと高く評価していいと思います。

とはいえ、
最近流行りの、新学習指導要領に掲げられてしまった「生きる力」というのは、それそのものが暴力的です。
「生きる力」を求められることが、「生きづらさ」になってしまっていることに、なぜ気づかないのか。そして、「生きる力」の中身そのものが「生きさせる力」ということになっているという下劣さ。それを教える仕組みそのものの構築不可能性、求められる全体性の気持ち悪さ。んー、まさに暴力的です。
求められる「スキル」が過剰ではない範囲においては、「教育の機会均等」などと言っていられます。ある程度できればよいのですから。
しかし、その求められる「生きる力」が過剰になったとたん、学ぶ機会を平等にしたところで、学び取る才能を衡平にしなければ、上記と同じ理屈で、解決にはならないのです。そしてそれは、今の効率重視の社会では不可能です。

ほとんど期待できないことですが、逆説的に、
社会が「生きる力」を求めなければ、また、必要としなければ、上記は解決可能な問題となります。
そもそも問題ではなくなる。
みんなが生きる力を高めることを求められ、合わない人は生きづらくなるというディストピアではなく、みんなが生きる力を必要とせずに、それぞれが素直に生きられる、そういう世の中になっていける。
それが本来、わたしたちが求めていくことではないでしょうか。

急ぎ過ぎているこの社会で、しなくてはならないと思っているその事自体を諦められるまで待つ、ということはとても難しいことです。
しかし、それは悪くないことです。
ほとんどの場合、そのしなくてはならない事を、私はしたくないという思いに駆られている(執着している)だけだから。

それでは、また。

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