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生まれる前~幼少期

のあです。

私が生まれる前、両親の簡単な背景から書いていきます。


※前回の記事はこちら「初めに



実の親のこと


母は若かりし頃、OLなりバーの雇われ店長なりと、色々な事をやっていた陽キャの音楽好きガール。
友人知人が多く、何でもやってみようの精神で生きていたという。

超美人ではないが、角度によっては普通に美人に見える。
昔から現在に至るまで、すっぴんまたは薄化粧がデフォルトなのがすごい。

本当に老けにくく、ずっと実年齢より15くらい若く見えている。
スキンケア用品と日焼け止め以外に顔に何か塗らないから若々しく見えるのかな?


対して、田舎育ちで上京後アルバイトをしながら画家となった父は、年上彼氏。

11歳差でのちにゴールインするのだが、父曰く、「お母さんを狙っていた男はいっぱいいたけど、会社勤めでもない俺が一番時間を共に出来たから勝てたんだろうなあ…」だそう。


父はとても口下手だが、非常に優しい男だ。
おまけに絵の腕も素晴らしかった。(途中で画家は辞めてしまったし売れずじまいだったが)

しかしそんなに頭は良くはなかった。
お世辞にも勉強が出来るタイプとは言えないし、勉強以外の面でも地頭が良くはなかった。

口癖は「俺は田舎モンだから…」。

農家の長男坊であったが若い頃逃げるように上京し、弟に全て放ってしまうような一面もあった。
ましてや安定して食っていける可能性も低い険しい道を選び、一家を放って都会へ逃げてしまったのだから、当時ともなれば特に異例で、今でも親兄弟には頭が上がらないという。
(和解は済んでいるとの事だが)

今は70歳近い筈なので、好きに生きられない時代と地域に生きていた時の葛藤もちょっと理解はできる。


ロマンチックで突っ走る癖に小心者で心配性な父と、好奇心旺盛でとにかく明るい母。
一見対照的にも見える夫婦だ。


母は昔パンクス好きな時期が長かったらしく、何かと仲間は多かった。
曰く、周りがみな聖子ちゃんカットの中ひとりだけショートカットを貫いたり、洋画を観漁ったり、激しい音楽を好んだりしていたが、逆に孤立はせず、人が周りに多く集まるような女性だったらしい。

個性的ながらある意味キラキラしていて、社交的で、友達からも好かれる。

そんな感じで良い面ばかりと思いきや、母はたまにヒステリックかつ、結構なアホだった。


非常にドジが多く、頭は良くはなく固定概念に囚われがちで、昔は今で言うネットワークビジネスに掴まった時期も少しだけあった。

しかし親(私にとってのおじいちゃんおばあちゃん)の教えのお陰か、どうにか根っこの部分はしっかりしていた為、生活力はあった。
そのうち怪しい事はスッパリと辞めたり、仕事をいくつか掛け持って頑張っていた。

私は物心ついてからずっと貧乏暮らしだったものの、母側のおじいちゃんとおばあちゃんは昔立派なお家柄だったようだ。

そんな私の母、そして父。
言っちゃえばまあ私が小2に上がるタイミングで離婚しちゃうんですが、わりと面白い組み合わせの夫婦だったのかもしれない。



二人の結婚からしばらく経ち、母、懐妊。
その子どもがおバカでちょっと出来が悪いのは、ここまで文章を打っている本人もなんとなく納得。

母と父の特徴をほぼ全て受け継いでいるような人間が私だからだ。

ただ、私は無事健康に生まれたし、人生の中では激しく精神をゆさぶられるような出来事もいくつかあったけれど、ここまで大きな病気も無く辿り着いたし、両親にはある程度感謝している。

しかし私は幼少期から物覚えが悪かった。

更に、10代の頃から既に記憶力がひどく悪く、感情の起伏がたいへん激しい。
自分の頭には何かしらの症状名がつくのではないか?と疑いながら、何だかんだ脳神経外科もメンクリも足を運ばずに32歳まで生きてきた。

常に頭の半分にモヤがかかっているような感覚がずっとある。
どうでもいい時は冴えているのに、暗算など日常生活で役立つ計算が出来ない。

こうして自宅で過去をゆっくりと一人で振り返るのはいいのだが、瞬時に物事を考える事が本当に本当に苦手だ。

脳の半分がロックされているような感覚。
生きづらさは毎日感じているけれど、その辛さにももう慣れてしまった。


話がちょっと脱線してしまった。

とにかく私は、性格が異なる歳の差夫婦だった父と母のあいだに生を受ける。

お産が終わる頃の深夜帯、病院までひどく慌てて駆け付けた父は、入り口のガラスのドアすら見れず思いっ切り正面から突っ込んで顔をぶつけたらしい。
(マンガか?)

幼女時代、皆で住んでいた場所どころか生まれた場所も詳しくは知らないし、よく覚えていない。

まだ物心が全然ついていないのか、はたまた覚えていたが加齢により記憶が上書きされまくって忘れてしまっているか。

…いや、食卓の黄ばんだ照明の下で出されたしいたけのお味噌汁が怖かったという謎の記憶だけは何故かある。

そう、怖かった。

部屋の古いライトで黄色く照らされたしいたけ、皮が剥かれていない人参など荒々しくざく切りの野菜が詰まったお味噌汁。
幼女の頃の私はそれが美味しく感じずひたすらにイヤな光景だった。
という、感覚と光景が脳裏をふと過ぎった。今。

(ていうか大人になった私は野菜も具沢山味噌汁も好きなんだけど、子どもに与える物は多少は小さく切れよって思う…)

変なシーンだが、それが一番古い記憶かもしれない。


私は大人になってから母に似ているとよく言われるようになったが、元々は違った。

小さい頃の容姿は父に似ている部分が多く、一言で言えば、全く可愛くなかった。


父ゆずりで昔から日焼けをしやすい子で、小さい頃は特に浅黒い肌をしていた。

体型もデブ程じゃないがパーツがどれもかなりむっちりしていて、周りの女子からはだいぶ浮いて見えた。
やけに浅黒く、野暮ったい身体の女の子。

近所の細くて可愛い子がお下がりのお洋服をくれた事があるが、スカートもキャミソールもあまりにもサイズが違って、頑張っても入らなかった。
その中からどうにか着られたわずかな服も、あまりにデザインが可愛過ぎて当時の私には一切似合わず、近所の男の子達に大笑いされたという最悪の思い出がある。

まぶたは左だけごくごくたまに奥二重になるが、右は常時一重だった。

片目だけ二重のアンバランスな顔も嫌だったし、片目が二重じゃない時も両目腫れぼったい一重だったので、高校生の終わり頃ようやくメイクを知るまではずっと垢抜けない黒豚でしかなかった。

親は否定したが、私はずっと自分をブスでずんぐりむっくりな子どもだと思っていたし、少なくとも周りの視線はそう物語っていた。



小学生の頃からメソメソ


5歳頃からは、両親と3人でさらに小さいアパートに越した気がする。

恐らく生活が苦しくなってきたので狭い場所へ移ったのだと思うのだが、入学予定の小学校のすぐ近くだったので、折角ならと小学校近くのアパートを選んだのかもしれない。


のちに入学し、初登校日、聡明ではない子どもがポツンと投げ出され、ご近所とはいえどよくわからない道を歩かされる。
人生初めての一人での登校に、どうしたらいいか不安でいっぱいだった気がする。
お母さんが遠くから心配そうに見守っていた記憶がある。

こうして、あっという間に学校生活が始まった。

小学生の間、九九と日本地図は本当に覚えるのに苦戦してイヤだったけど、父の影響で少年漫画が大好きだったため漢字学習だけは若干得意だった。


住んでいたアパートには、同じ小学校に通う女子が一人だけいた。
自分から特に仲良くなるという事はなかったのだが、相手が友達がいなかったので一方的に付きまとわれた事がある。

その時霊感キャラにハマっていた彼女により、「のあちゃんのみらいがみえます。のあちゃんは明日の昼12時にしにます」と謎予言をされたのが幼少期で一番怖かった出来事。

こちらからしたら一切友達とは思っていない同級生の一人だが、私は当時この予言が本当に怖かった。

明日の12時って学校だ…最期におとうさんおかあさんに会えないんだ……と泣いた。

当然予定の時刻には何も無かった訳だが、たいへん悪質で幼稚だ。

彼女はクラスは違ったと思うが、同じ小学校に通い、同じアパートの別室に住んでいたので毎日のように顔を合わせるし、私にとっての最初の地獄がこの日々だったのかもしれない。

非常に狭いアパートだったが四児のヤンママが暮らしていたお部屋の長女で、成長してからもフカシが多く、中高でも孤立して不登校になったと後に噂で聞いた。

霊感が本当にあったら悪いのだが、少なくとも私の目には、嘘つきで人の気を引きたいだけの肥満の少女にしか見えなかった。
そりゃ心も成長しなきゃ嫌われもするよ。


小学校時代、今思い返しても男女共に意地悪な奴が多かった。

良い思い出は全くと言っていいほど無い。


しかしこれは、私がメソメソした陰キャブスだったからなのだろうか?

誰かにとっての悪人は誰かにとっての善人だ。

もしかしたらそんなにイヤな奴は居なかったのかもしれないが、少なくとも私に良く接してくれる子達はあまり居なかった。


小学1年生の終わりに、父と母の関係も終わった。

何か大きな事件があった訳ではないらしい。
しかし、画家くずれの父と一緒の生活が苦しかったであろう事は容易く想像できる。

ある日突然母に、
「おとうさんとおかあさん、どっちについて行きたい?」
と訊ねられた。

しかし私は考える事がこの頃から非常に苦手だったため、上手く考えたりその先を想像したりが出来ず、大して考えもせずに、
「おかあさんが私を産んだから、おかあさんについて行く。」
と答えた。


全然深い事は言っていない。
表面上でしか考えられずに発した言葉だ。

かくして突如両親は離婚し、私は母と2人で更にボロいアパートへ引っ越す事となった。

生きていて、どんどん住処が小さく汚くなっていくのは不思議だった。

父もそのうち引っ越したが、私と会いやすいようにしてくれたのか、同じ街のボロアパートに越した。

距離がそう遠くないのでとても遊びに行きやすく、今にして思えば週末私が父宅へお泊まりに行っていた間に、母も仕事やプライベートや再婚活の時間を作れていたのかもしれない。

そしてなんと、驚く事に今現在も父は同じアパートにずっと住み続けている。

軽く20年以上同じ所にいる。
再婚は一度もしていない。



シングルマザーとの生活


小2に上がったタイミングで、担任の先生から、
「今日からのあちゃんは、(母の旧姓)のあちゃんです。よろしくお願いします。」
とクラスでアナウンスされ、当然親の離婚を経験した事が無い周りのクソガキクラスメイト達は、なんで?なんで?とよくわからずしつこく訊いてくる。

これも大分しんどい思い出の一つだ。

しかも新しい苗字はわりと変わった名前だった為、長い間それをイジられ続ける事となる。

私は辛かった。

離婚後の父との交流は、ほぼ毎週末遊んだりお泊まりしたりと結構長めに続いたが、父のアパートの目の前に建っている一軒家の娘がしつこく私の苗字をバカにしてくる女子だったことが判ってからというものの、そのブスが家の前で遊んでいないかキョロキョロ確認してから父の家を出入りするのが癖になってしまった。

週末おとうさんちに遊びに行くにあたって一番嫌だったのがゴキブリとの遭遇、そして二番目は、このいじめっ子の女と鉢合わせるかもしれないという恐怖感だった。


シンママとなった母と住み始めたウサギ小屋みたいなアパートはあまり快適じゃなかったし、友達ができても呼べないくらいの狭さで恥ずかしい思い、みじめな思いを充分に味わったし、途中で叔父が金を借りた闇金から電話がかかってきたりもして、鍵っ子となった当初の私は常に恐ろしい思いをしていた。

何も知らずに電話に出た時、「おーーい、のあーー、Hした事あるかーー?」と闇金業者に訊かれ、とても怖かった。
知らないおじさんに名前を呼び捨てにされて、男相手に金を取れるかどうか訊ねられるのは小学校低学年の幼い女子にはキツい。

母が激怒して、借金した兄(叔父)に文句を言ったり警察を呼んだりしてくれて、その後自宅にいる時や近所を歩く時に怯え続けることはなかったが。


母は昼間OLをやって私の為に頑張って働いてくれたけど、鍵っ子時代はなんだかんだ孤独だったし、困った時に大人がいないと心細い。

私は小学校低学年のうちは寂しさからついイライラする事も多かったし、かなりアホだったので、鍵を忘れて家に入れない時にカッとなってカッターナイフでピッキング(ですらないけど)をして鍵穴に刃を詰まらせ、結局鍵穴交換する事になって母に大目玉を食らった事もある。
これは流石に頭が悪いのでごめんという感じ。


でも、ボロアパートで大きい動物は絶対に飼えなかったけど、途中お魚や文鳥を貰ってきて一緒に飼ったり、母子2人きりで交換日記を始めようと提案しだしたり、私が少しでも寂しい思いをしないよう、普通の感性に育ってくれるよう努力してくれた方だと思う。


母の日に、私が今までの人生で貰ってきたお年玉をかき集めて5,000円以上くらいのカーネーションの花束を購入した事があるらしく(自分では一切覚えていないが…)母は最初それに感謝してくれたが、流石に私が利用した花屋さんへ行って話をして、一輪を除いてどうにか返品したそうだ。
善意にしても何にしても、はた迷惑な突発的行動が多い子だったかもしれない。

私がもっと聡明な子だったら、成績や周りからの評価が良かったら、小さい頃からお手伝いを本気でやれる子だったら、色んな形でお返しができていたのかな。

…でもまあ、自分もこれより20年ほど後にシングルマザーを経験して思うのだが、マトモな親なら多少手がかかっても責任持って子どもを養い続けるし、寂しくないよう生活が少しでも楽しくなるように工夫してあげるのは当たり前だし、私も離婚後は自分の子にそうしてきた。

もっと言えば、どんな形であれ片親の道を選ぶのは親の勝手で、子どもは一方的に割を食う場合が多いので、その分親が努力して幸せにしてあげなきゃいけないと思っている。
(親に感謝していない訳じゃないよ!)

新しい生活が板についた後も私は相変わらずで、頭も良くなかったし、そもそも同級生のヤジのせいで勉強も落ち着いてしづらいし、4年生くらいで教室でお漏らしをしてしまうほどに内面も幼かった。

書いてて情けなくなるね。

漏らした時の事はあまり思い出したくないけど…。
よう教室のド真ん中で漏らせるな、逆に。


話を聞いていなくて、次に移動する教室がわからず、一人だけ授業が終わるまで廊下で立ち尽くしていた事もある。

今にして思えば結構ヤバいと思うが、とにかく何も考えられず、ただただ悲しい気持ちでその場に立っていた記憶がある。
やがてチャイムと共に移動先の教室から戻ってきたクラスメイト達も、不思議そうな顔でこちらを見ていた。


友達は少なかったし、お小遣いも全然無かったため、子ども同士で近所以外に遊びに行ったり電車に乗ったりもほぼ経験がなく、電車の乗り方もだいぶ成長してからちゃんと知ったくらいだった。

生活は暗かったが、学校からの帰宅後の一人時間は徐々に楽しくなり始めた。

心の支えだった漫画を読むか、母がせめて寂しくないようにと途中で繋いでくれたケーブルテレビのアニメを観たりするか(アニマックスとかカートゥーンネットワークとか見てた)、従兄弟の超お下がりのスーファミかゲームボーイで遊んで、ずっと大人しく過ごしていた。

特に楽しかったFF6とMOTHER2、いずれも名作だけどカセットと本体が古くてデータ消えて心折れたの思い出して懐かしすぎる……。
世の不条理を最初に学んだ時だったかもしれない笑

FF6はその後どうにかクリアしたが、MOTHER2は中盤プーと合流するあたりでデータが消え、その後頑張って一からまた進めて最終戦前まで漕ぎ着けたが、そのタイミングで再度データが消えたのが萎えすぎて未だにクリアしていない。
(今現在Switchでプレイできるのでそのうち…とは思っている。)
それにしても、ギリ友達の家でもスーファミ稼動してる所あったけど、息の長い名ハードだよね。
ファイナルファイトみたいなベルトスクロールアクションのセーラームーンの謎ソフト…好きだ。


後ほど中古のPS1もお下がりで貰ったのだが、プレイステーションソフトもかなりオモロかった。
90年代後半の雰囲気エモエモのエモ。

3Dムービーが入るし、めちゃくちゃだけどストーリー面白いゲームが多かった気がする。
こんな感じで親戚のお兄さん連中からの貰い物ばかりで、最新のゲームは全然遊んでいなかったと思う。

いや、のちのち誕生日に父からプレゼントして貰ったゲームボーイカラーとそのソフトは新しかったな……確か。
ポケモン金銀と、それ以降もクリスタルまでのポケモンは毎回どうにか入手して結構楽しんでいた。

ポケモンが面白いのは誰もが解る周知の事実として、マイナーなソフトも結構好きだった。
父が中古ゲーム屋さん巡りに付き合ってくれるようになってからは、頑張って買ってもらって色々と揃えた時期もあった。
そのうち鍵っ子で放課後もずっと一人で過ごす事に抵抗なく、むしろ一人の時間が楽しくて仕方なくなったっけ。

何だかんだ自分はRPG寄りのゲームが好きなんだなあと解ったのも収穫だった。

コーエー(現コエテク)のもんすたあ★レース2というゲームもハマって、記憶力の弱い私にしては珍しく今でもBGMや使用モンスターを思い出せる。

サンリオタイムネットというサンリオ版ポケモンみたいなゲームもやり込んでいて、一度父におねだりして幕張メッセまで連れて貰ってイベント限定モンスターもゲットしたが、ラスボスのザッキーの顔グラが当時怖くて(今見れば全然なレベルだけど)、おまけに強過ぎて何度も心折られ、戦闘前のモンスターっぽいグラに入る前の時点からザッキーの姿を恐れるようになってしまい、とうとうクリアができなかった…。

なんか、考えてみれば、良くも悪くも幼い頃から常に一人の時間があったんだな。

今でも私はこういう時間が必要で狂いそうになる時がある。
ごくたまにだけど。

一人っ子、学校での時間が苦しい、ひとり親、バカ、鍵っ子、いずれかのファクターが関係しているのかどうか定かではないが、すっかり自分自身のペースとテリトリーを守る事への優先順位を上げてしまった。
それも無意識に。

いよいよ根暗になっている気もしなくもないが、楽しい事が人生に生まれて、それにハマること自体は仕方が無い。
そのうち、母がどこで入手したのかデスクトップPCを家に置き、そこからは私もインターネットを見よう見まねで使い始める事になる。

やがて母不在時でも自由にPCを使えるようになり、ネットも私の生活の一部となる。

楽しかった。
世界が一気に広がった。


切っ掛けは思い出せないが、小さい頃から私はアニメやゲームの女の子キャラが大好きだった。
キュートでセクシーな2次元女子にめちゃくちゃ惹かれた。
現実世界のアイドルやタレントはよくわからないので、絵の中のキャラクターに限るというか。

性の目覚めも女の子キャラのイラストだった。

実は自慰行為自体は、ネットでたまたまエロい知識を見てしまう前から既によく判らず行っていたのだが(床オナ的姿勢で目覚めた…)、この頃からは2次元の女子キャラのパンチラとか際どい絵とかを見ておまたをこしこししていた。

その後の人生でレズに目覚める事は一切無かったけど、性的趣向はわりと男よりな気はする。


そのうちワンピースのナミさんにどハマりし、ネットを使えるようになって好きなキャラ達の二次創作イラストや小説にもハマった。

親に内緒でめちゃくちゃな量のお気に入り創作をプリントアウトして保管したり、小5~6くらいの頃にこっそり通販で小さな同人誌を買ったりもした。

ネットなら自分の琴線に触れる作品をいっぱい見つけられる事に感動したものだ。


漫画・ゲーム・ネットのお陰で自分の心の居場所を見つけたと思ったのだが、このアパートで生活を送っている間に母に気持ち悪い彼氏ができた事があり、その後は再び不安な思いで過ごす。


この彼氏、どこからどう見ても母よりも歳上のオヤジで、全然格好良くもない性格もさして良くもない太ったメガネデブで、あだ名はタヌキ。
(本人が名乗った)
ふざけてセクシーな雑誌記事を私に見せようとする無神経さに母が愛想を尽かすまで、二人の関係は続いたと思う。

私とはそんなに仲良くないのに、たまにノコノコとうちに泊まりに来るのも嫌だった。
私は小学生、アパートは非常に狭いが襖を挟んだむこうで2人はいつも寝て、私は1人で寝ていた。

玄関先で私が見ていないと思って母と行ってらっしゃいのキスをしている姿を目撃してしまった時の衝撃が忘れられない。
セックスを見たり聞いたりは一切無くても、なかなかキツいものがある。

実はリアルタイムで母とつい数日前に会ったので、思い切って訊ねてみた。
何で当時アイツと付き合ってたん?と、なるべくフランクに。

その答えとしては、
「当時は婚活に必死で、のあの今後の学費や生活費、心の安定の為に、友人知人から紹介された相手と手当り次第デートしたりしてパパを探していた時期だった。そのうちタヌキさんと付き合ってみたけど、やっぱ色々合わなくて別れちゃったね…。」
との事だった。

今後順に詳しく書いていくが、私も色々あって今はまあまあその気持ちが解るので、「ふーん」で終わった。



余談


そう言えば、初代たまごっちのぎんじろっちを36歳以上まで育てきり、電池切れにより殺した事がある。
(当時の母と同い歳まで育てたよ!と得意げだった記憶がある)

学校へ行っている間は持ち込めないので、登校前にステータス画面とかにしておいて時間を進めないのがコツだった。


初恋もなく親友もおらず、同居している母親は仕事に婚活に忙しそう。
私は心の安定を求めてゲームと漫画に没頭し、たまにネットで小説を読んだりマウスで絵を描いたりしてマイペースに過ごしていた。

と、ここまでが大まかな私の小学生時代の話だ。


以上、中学生編に続きます。

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

次のお話「しんどいティーン時代の話

この前ふいにアイスカフェラテを奢っていただく事があり、これぞささやかだけど大きい幸せだぁ!と思いました。 なんだかいつもより美味しく感じました☕️ 誰かからカフェラテを飲ませて貰える分、明るく生きられる気がします。