見出し画像

ショートショート 「事故物件」

唯一の楽しみはほんの数秒間。
あの男が飲んだ高級そうなウイスキーの空き瓶とAmazonから届いた未開封の荷物が乱雑に放り込まれたこのベランダに立って。
私は至福の時を待っている。
平日の5日間、毎朝決まった時間に彼は細身の紺色のスーツを着て出勤する。
そしていつものタイミングで一度だけ振り返り、私“らへん”を見て笑顔で手を振るのだ。
世界で一番美しいこの小さな現象が見たくて今日も私は外を眺めている。

私の同居人はとにかく醜い。
髪も髭も鼻毛も伸ばしっぱなし。
ずっとパソコンの前に張り付いて何かボヤきながら株の値動きを見ているか悪態つきながらゲーム配信ばかりしている。
毎日同じTシャツを着て、風呂に入るところもほとんど見たことがない。
それは少なからず怖がっているからなのかもしれないけど。
とにかく臭いだろうし太っていてブサイクだ。
だから、私は部屋に入らずにベランダで過ごしている。
第一、自分から「家賃を安く済ませたいから事故物件を紹介してくれ」なんて言って私の部屋に引っ越してくる男にろくな奴がいるわけがない。
私にだって選ぶ権利が欲しい。
悲しいけど死人に口なしってことなのか。

私は浴槽にお湯を張って、手首を骨が見えるぐらいまで切って、睡眠薬を大量に飲んでちゃぽんして死んだ。
自殺の原因は付き合っていた男性が奥さんと別れてくれなかったから。
昔から私には男運が無かった。
だからこそ、せっかく死んだのだからこそ、良い男を見つめていたいのだ。

そろそろ時間だ。
私はベランダのフェンスに手かけて今か今かと、彼がこのマンションから出てくるのを待っていた。
4月なのに今日はとびきり天気が良いからちょっと暑いと思う。

見えた。

片手にジャケットを持っているのに涼し気に彼は歩いてきた。
そして、いつものように振り向いて私“らへん”を見ながら手を振る。
私は恍惚とした表情を浮かべてこの世に生を享けていたことに感謝する。
もし私に下半身があったなら滴るほど濡れているはずだ。
彼が欲しくて堪らないのにどうしても叶わない。
せめて彼からの視線は真っ直ぐに私に向けて欲しい。
なのに、彼はいつも私の部屋の真下を見ている。
私の部屋のちょうど2階下の部屋に彼らが住んでいる。
そこには彼の奥さんであろう女がいて、毎朝ベランダから少し身を乗り出してあざとくブンブンと手を振っている。
私はあの女に送られている最高の笑顔のおこぼれを頂戴するためにこの世に居座っているのだ。

どうにかならないものか?
あの笑顔が私のものになればきっと成仏できるのに。
もうこんな汚い男との共生同居生活から抜け出したい。

家のインターフォンが鳴った。
どうせウーバーイーツかAmazonだろう。
ブ男がドアを開けると何やら馬鹿でかい荷物が届いた。
男が受け取るとそのままノシノシとこちらに向かってきてベランダの扉を開け、適当な場所に荷物を下ろして中に戻って行った。
ほんの一瞬の出来事なのに全くもって不愉快。
あいつは多分臭いし多分ベタついてるし大嫌いだ。
私には身体がないけれど圧迫感は感じる。
だからこういう荷物は早く開封して部屋の中に入れて欲しいのに。
ダンボールに印字された文字を読むとどうやらランニングマシーンのようだ。
無駄以外の何物でもない。
あんな男は呪う価値もないわ。
明日になればこの不快感も解消される。
あの笑顔を見られれば私は救われる。

翌朝は昨日よりもちょっと涼しそうだった。
湿度も低そうだしもっともっと爽やかな彼に会えるような気がした。
私は期待に胸を躍らせながらフェンスに手をかけて待っていた。

そして、ふと、自分が死んだ日のことを思い出してしまった。

「君はどんな女性よりも素敵だけど、妻には敵わないんだ」なんて一切しっくり来ない別れのメールが届いたあの時。
死ぬほど愛していたわけではないけど、死ぬほど惨めな思いにさせられたあの時のこと。
気付いてしまった。
あの日、殺すべきは自分ではなくて奥さんの方だったのだと。

もうすぐ彼が出てきてしまう。
ちょっとベランダのフェンスが劣化していたことにして。
ちょっと住人の男が不用心だったことにして。
私はベランダにある雑多なゴミと荷物の山をフェンスに向かって立てかけた。
私には身体がないけど、強く思えば物理的な力をコントロールすることが出来る。
もう見えるはず。もう見えるはず。
彼が見えた。
ベランダから真下を覗き込んだ。
標的はいつものように身を乗り出している。
彼が振り返るのを見計らって強く強く念じた。
フェンスは重みに耐えかねて崩壊し、ガラクタたちは放り出された。
彼が振り返った瞬間、ランニングマシーンは女の背中に命中し赤く滴りながらガラクタとなって落ちていった。
これで彼の視線は私のものになったはずだ。

翌日、私の部屋の中のガラクタも警察に連れられて綺麗に片付いた。
私はウキウキしながら外を見ていたけど、何日経っても現れない。
その日から私は彼に会うことはなくなった。

私の惨めさは何も変わらなかった。
あの女も相変わらず、フェンスから身を乗り出して今日も朝から晩まであざとくブンブンと手を振り続けるのであった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?