見出し画像

エゴイスト


愛しいと思った。

浩輔を、龍太を、龍太の母親を、愛さずにはいられなかった。

そして、なぜか謝りたくなった。
真っ直ぐな浩輔に。
すべてを受け入れた龍太に。
欲しい言葉をくれる龍太の母親に。

「ありがとう」と「ごめんなさい」を繰り返してしまう、そんな映画だった。



~映画あらすじ~

14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太。
自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる――。




エンドロールが流れ終わっても、本屋に寄って原作を買っている間も、帰り道も、家に着いてからも、ずっと私は吐きそうだった。

処理しきれない大きな大きな、本当に大きな感情が生まれ、泣きそうで吐きそうでわけがわからなくなった。




愛、だったのだろうか。

映画の中で浩輔と龍太の関係を龍太の母親が答えてくれてはいたが、私は映画を観終わったあとも、正直2人の間にあったものが愛だとは思えなかった。

私にとって愛は寛容なもので、何にも劣らない愛こそがすべての救いだと信じている。

それゆえ、愛が困難に打ち勝つ手段にはなれど、人を苦しめる手段になるとは考えていない。

もしも2人を結びつけ、また引き離すものが愛だとするならば、そんな人生救いようがないではないか。

そう思っていた。


ただ、題名には「エゴイスト」とあるものの、この映画が伝えたいことは愛の身勝手さではないのだと感傷に浸りながら感じた。
 
愛は身勝手だからこそ、それ単体で美しいものとしては完結せず、相手によって救済されるのではないのだろうか。

裏を返せば、相手によって救済されない愛は愛ではないということだ。

私たちは無償の愛を至高の愛として捉えがちである。
ギブアンドテイクの関係ではなく、見返りを求めずに注ぐ愛こそが真の愛だと。

無償の愛はたしかに美しい。
自分の身を犠牲にしてでも注ぐ愛は、どんな物語にも決まって登場する。
そしてその愛は、何よりも賞賛されるのだ。

しかし、この無償の愛こそがエゴなのである。
受け取ることしか許されないこの愛は、いわば十字架のようなものなのかもしれない。

たとえば、親は子の将来を想い、習いごとや塾へと通わせる。
子どもはそれを受け取ることしかできず、貴重な時間を奪われ、将来を決められていると感じるかもしれない。

この無償の愛は、相手によって承認されたときにようやく「エゴ」から「愛」へと変貌するのだ。

子どもが大人になったとき、隠された愛に気づけば愛になり、気づかなければエゴとなる。

そしてやはりそうだとすると、2人の間にあったものは確実に愛だったのだと気づく。

愛ではあったが、愛であった喜びよりも、愛であった安堵感の方が強かった。
それほどまでに、愛とは不安定なものなのだと実感した。

愛というものは点で存在することはない。
時間や想い、人生が幾重にも重なり、いつの日にか愛へと救ってもらうのだ。

たった2時間という短い映画の中で、私ははっきりとその重なりを目にすることができた。

それはあまりにもリアルで、鈴木亮平や宮沢氷魚の存在を超越して、浩輔と龍太の人生として目の前にあった。

また、この作品のテーマを愛たらしめているものは、浩輔と龍太の関係だけではない。
龍太と龍太の母親、2人の関係である。

龍太の母親への愛情は、無償の愛だったのか、それとも無償の愛による十字架からだったのかはわからない。

それでも、自分の人生を投げ打ってでも母を守ろうとした龍太の愛は、どれほどまでに彼を美しい存在へと昇華させたのだろうか。



この映画の中では、エゴがいくつかわかりやすく描かれている。
それは「お土産」であったり「お金」であったり「小さな我儘」であったりする。

ただこれらも、結局無償の愛へと還元されるのだ。
その瞬間に気づいたとき、やはり私たちは安堵せずにはいられない。


この映画には、過激なベッドシーンが描かれている。
他にも恋人を恋人として紹介しない場面や、ゲイ同士の会話など、当事者の私にとっては共感しかない場面が多くあった。
これは昨今のBL作品には描かれていない「リアル」である。

公式パンフレットの中に、注意が必要な表現として「BLを超えた~」や「これはLGBT映画ではなく~」といった表現が挙げられていた。

LGBTといったカテゴリを打ち消したい自分に偏見がないかを見つめ直す必要があるという主旨だ。

それでも私ははっきりと言いたい。
決してこれはBLではなく、カテゴライズするのであればクィア映画であると。

公式に解釈違いを申し出るのは頭のおかしい所業だが、私はこの映画をBLとしてカテゴライズして消費されたくないと思った。

BL作品を批判したいわけではない。
ただやはりBLにはファンタジーの要素が多分に含まれているように感じる。
なおかつBL作品がブームとして扱われ、消費されている現状に違和感を感じる。

「男女の恋愛映画はたくさんあるのに、それを消費してるのはいいのか」と言われたことがある。
たしかにこれも消費に違いない。

ただ、明確な違いがあるのは権利がすでに確立されているかどうかという点だ。

同性婚や同性愛が話題となっている現代社会で、まるで理想の物語のように当事者事情を無視してブームとなっていることにモヤモヤするのだ。

だからこそ、この映画をブームとして消費されたくない。
私たちセクシャルマイノリティの存在を世に示すこの映画を、理想ではなく現実に存在するのだと当たり前のように伝えるこの映画を、私は大切にしてほしい。


鈴木亮平さんが、インタビューを通して同性愛や同性婚について語っているのも嬉しかった。

「同性婚に関しては法制化を急ぐべきだという立場です。反対意見も注意深く読ませていただきましたが、何にも優先してこれは人権や個人の尊厳の話だと感じました」


最近、同性婚関連で多くの悲しいニュースが目に入ってくる。

家族観や少子化、婚姻制度の起源など、そんな薄っぺらい建前で私たちが持つべき権利が否定されている現状は、とても悲しいものである。

何より、「同性婚」の話題になったとき同時に否定される「同性愛」を目にするたび、とても苦しくなる。

しかし、ゲイの人たちのSNSでは、私とは真逆の考えの人が少なくない。


「ゲイってことだけが自分の全てではないから、そんなに怒ることなのかなと思っちゃう」

わかる。私もそう思ってた。
ただ、たとえ自分の一部だとしても否定され続けるのは辛くないだろうか。
そもそも、なぜ自分の一部を否定されないといけないのだろうか。


「正直、こうやって同性婚とかで声を上げる人がいるから余計肩身が狭くなる」

実は、東京レインボープライドのときに私も同じように感じていた。
過激な服装で声を上げるのっておかしいなと。
でも、少なくとも今少しだけ生きやすいのは、歴史の中で声を上げてくれた人たちがいたからに他ならない。


「同性婚の話ばかりしてるゲイってそれしか話題ないのかな。見るのも嫌になる」

これに関しては、少し怒りさえ覚えた。
同性婚が認められたら、お前もきっと当然のように選択肢の中に取り入れるだろうに。


おかしいと思わないのだろうか。
尊厳が傷つけられているこの現状を。
何もしていないのに、存在しているだけで否定されていることを。
本当におかしいと思わないのだろうか。


声を上げない、上げようとも思わない人がいるのも重々承知している。
現状、身に迫った危機はないし、現状維持を望む人もいるだろう。
そもそもそんな世間の声をものともせず、何も気にせず、声を上げることを本当に不思議に思ってる人もいるかもしれない。
ただ、声を上げている人たちを否定することはあってはならないと思う。


どうしよう。
ネタバレをしないように書いてはみたが、ネタバレをしてでも語りたいことが多すぎる。
是非この映画を見た人は、感想を送ってほしい。
もしよければ朝まで語りたい。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?