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農家になった。そして両親のこと。vol.2


「山、最高〜!田舎最高〜!」

2018年夏。

私たちは絶景を目の前にはしゃいでいた。

ついに和歌山県民になってしまった。



” 田 舎 暮 ら し ”


三男を出産した1ヶ月後、大阪から和歌山県かつらぎ町に移住した。

知り合いは1人もいない。

大きな変化だ。

夫は1ヶ月休暇制度を使い、家族全員で生活を整えた。車を2台購入し、ペーパードライバーだった私は教習所で練習をした。

近所の人がとっても親切で色々助けてくれた。

長男、次男が保育園に通っていたので、友達もたくさんできた。

田舎の人間関係濃い説は本当だ。1人友達になると芋づる式に友達が増えていく。

”生き物の多様さ”  にも驚いた。

大阪で息子達は、ダンゴムシをかきあつめ、蝉を捕まえていた。蝶々はレアキャラ。カブトムシ1匹購入するのに、高速で高槻市のペットショップまで1時間かけて車を走らせた。


そ  れ  が  だ。


かつらぎ町の自然はすごい。

カブトムシやクワガタ、蛍も飛んでくる。

コウモリくらい大きなクロアゲハが、優雅に庭を舞っている。

他にもテントウムシ、バッタ、カマキリ、カタツムリ、トカゲ、カエル🐸がぴょんぴょん。

ふと、空を見上げると大きなトンビ🦅が気持ちよさそうに円を描いている。

長男と次男は、毎朝ベッドからお庭へ飛び降り、虫を追いかけ回した。

今日も長男は、素手で捕まえたトカゲの朝ごはんを庭で懸命に探していた。

ようやく捕まえたバッタをトカゲに与えて「食べた〜〜〜!見て!ママ!見てよ!今なら足、口から出てるから!」と興奮して私を呼んだ。笑


移住して2年目の夏がやってくる。

毎日「最高〜〜〜!」と山に向かって叫ぶ日が、ありがたくも続いている。

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” 会 社 を 辞 め た 日 ”


三男が1歳になった頃、いよいよ復帰が近づいてきた。

大阪市内まで通えるように、高速のインター近くの保育園に通わせていたし、週2日でもリモートワークができれば、夫の仕事を調整してなんとかやり切れると思っていた。

が、

久しぶりに人事とやりとりをして、驚愕の事実を知ることになる。


なんと、リモートワークが頓挫した。


とにかく、人事と交渉をした。しかし、結果は変わらなかった。

リモートワークという制度が出来るまで、一生時短勤務。しかも電車の本数が少ないため、朝8時から夜8時まで保育園コース。


それでも、最後まで退社するという決断はできなかった。


たくさん本を読んだ。ニーチェとか。

大好きな会社だったし、何より新卒からずっとお世話になっていた人が落胆するのが嫌だった。恩返しもしてないのにという思いも強かった。

たくさん読んだ本の中に「あの人はあなたに恩返ししてもらわなくても幸せだから、大丈夫。恩返し禁止。」という文章があった。

「そうだと思うけど、でもやっぱり恩返しはしなければいけないのだ。」と思ってそのページをめくった。

でも、考えれば考えるほど、一生時短勤務も、子どもを朝から夜まで保育園に預けるのも嫌。という答えに舞い戻る。


2ヶ月ほど悩んだだろうか。


「お世話になった人が残念に思わないように会社を辞めるにはどうすればいいか?」から「会社を辞めることを、どう自分自身に腹落ちさせるか?」に変更されたイシュー。

結果的に、「私の人生の手綱は誰にも握らせない。」と決めることで腹落ちさせる運びとなる。

世界で一番大切なパパや子どもにも、私の人生の手綱は握らせないんだから他人とか世間になんて握らせちゃダメでしょ。

と、1番重くのしかかっていた「恩返し」という言葉を振りほどいた。


そして、10年お世話になった会社を辞めた。


1番お世話になったその人は、「お疲れ様でした。」という言葉と共にあたたかい長文のメッセージをくれた。

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(悩み抜いた2ヶ月間が過ぎた頃。晴れやかな表情。)

” 農 家 に な っ た 日 ”


リビングからかつらぎ町の山が見える。

その山を見ながら、この自然を子どもの世代まで残したいな。耕作放棄地になっちゃうのは嫌だな。とずっと思っていた。

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ブルーベリー畑に近所の人が招待してくれた。

初めての体験。

子どもたちはパクパクすごい勢いて食べた。

豊かだ。

なんて豊かなんだろう。

その光景が今でも忘れられない。

この自然体験を都会の子ども達にも届けたい。そう思った。

宅地と一緒に農地も購入していた。

ブルーベリー農家になろう。

これからは、本当に心から自分が好きなことしかしない。

子ども達にとっていい社会をつくるとか、持続可能な地球を子どもたちに残すとか。子どもの笑顔はお母さんを幸せにしたらつくれるとか。残りの人生でやりたいことをノートに書き出した。

イメージを明確化すればするほど、農業はそれを実現するのにとっておきの業界だと思えた。

農業経験や技術はないが、それはお金で買えばいい。

養液栽培技術を使えば、最も大変な土づくり、水やり、肥料やりを自動化できることを知った。

いくつかの会社を見つけて、最も信頼性が高く、実績がある貿易会社とコンタクトをとった。

そして、50株のブルーベリー苗と養液栽培設備一式を150万円程で購入した。

苗を植えた日は、奇しくも長男の誕生日だった。

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” 新 規 就 農 者 へ の 洗 礼  ”


晴れて農業女子になった。

「ママ、ブルーベリー農家になるよ!」と子どもたちに話すと、長男は「なんで姿をかえるんだ!」と私を指差した。

そのキリリとした顔がおかしくて笑った。

全く新しい業界。

農林水産省のHPで、認定新規就農者になれば無利子の融資が借りれるということを知り、ベビーカーをおしながら役場にいった。

産業観光課の担当者は、怪訝な顔で遠回しにこう言った「女性で子どもがいて農業するんですか?難しいと思いますよ?5年後に所得320万円以上を目指してもらわないとダメなんですよ?」

(この担当者は、後に、絶対的な味方となってくれる。)

何度も役場に足を運び、その度に、ストレスでニキビが出来た。


農業者はとても優遇されている。

「青年等就農計画の認定」というゴールドバッチをGetすると、

なんと無利子で3,700万円まで借りれるのだ。しかも返済期間は17年!!


つまり、「お願いですから農業をしてください。」と国が言っている。


ゴールドバッチをGetするには、農業計画と、5年間の収支計画などを提出する。

審査員は、農業委員会、ベテラン農家、県の職員、農協職員。平均年齢70歳。通常、書類審査でパスできると聞いていたし、ネットにもそう書いてあった。


が、しかし私は落ちた。


審査に落ちた理由は、

「ネットで集客?こんな田舎に人は来ないっぺ。」

「入場料が高すぎるっぺ。いちご狩りはもっと安いっぺ。」

「農業経験が浅いのに、そげな大きい借金するって心配だっぺ。」

という理由だった。

既に自己資金で農業を初めていたので、この融資を受けられないとマネタイズするのに必要な投資ができず、それこそニッチもサッチもいかなくなってしまう。

書類審査でクリアできると思っていたが、念には念を!とロジックツリーまで作ったし、競合比較やペルソナなど、ありとあらゆる理論武装を提出してやったのに、このザマだ

担当者からの電話を切ったあと、更に、その審査結果がどれだけ的を外れたものなのかというロジックツリーも作り、役場へ乗り込んだ。

何なら農林水産省にも電話をしてその論理の裏付けをとった。

この時の私は、ものすごくアドレナリンが出ていた。

昔から、怒りがエネルギーになるタイプなのだ。

キタキタキタぁ〜〜〜〜!!!

この感じ久しぶりにキタぁああああ〜〜〜〜!!!!


しかし、怒鳴り散らすことはない。私も大人ですから。

「再審査をしてください。」と淡々と冷静にロジックツリーを説明しながら産業観光課の課長と担当者を、理詰めさせて頂いた。

「ブルーベリーよりいちごの方が収益性が高いみたいなんで。。」とのお言葉に、「収益性が高いとは具体的にどのくらい高いんでしょうか?データはございますか?」と反論した。

「いのはらさんみたいに、数字とかはお出しできないんですけど。。」とワタワタするお二人を見て、申し訳ないけれどこの農業界のおかしい体質とは戦わせてもらうと断固譲らなかった。

論理だけでは通用しない。

なので、情にも訴えかけることにした。

「本気で農業を変えたい!地域を盛り上げたい!と思ってるんです。だから会社も辞めて、自己資金で農業はじめたんですよ。本気なんですよ?!」

と、これでどうだ? これならどうだ? と手を替え品を替え押したり引いたりした。

「一旦、部内で検討します。」となり、役場を後にした。

日を改めて、私が審査員にプレゼンをする形で、再審査をしてくれることが決まった。

再審査の様子はさらっといかせてもらう。

こんな感じだった。

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” ゴ ー ル ド バ ッ チ G e t  ”


自分が見たり聞いたりしたごく一部の事象から結論を出し、それがあたかもみんなそうだ!と一般化することを【軽率な一般化】というらしい。

農業はそんなことばっかりだ。

だけど、もういい。

参入障壁が高い方が、競合が参入しにくいんだもの。

再審査で見事、ゴールドバッチをGetした私は今、おじーちゃんによって築かれている巨大な壁によって、守られる立場となった。

いえーい。

果樹は苗植えから収穫までが長い。成長スピードがはやい養液栽培でも、収穫まで2年かかる。

農協や直売所で販売はしない。

観光農園に経営資源を集中する。物を売るのではない。体験を売るんだ。

しかし、そうすると売り上げが立つまで(ブルーベリーが収穫できるまで)2年も待たなければいけない。

超ド安定企業に勤めているパパ。。。

ありがとう。

「何に投資するより、私自身に投資するのが1番確実に回収できるから。」という魂から湧き出てしまう謎の自信により、借金という名の融資を3,500万円も借りたり、33万円のセミナーを受けたりして、キャッシュだけがどんどん出て行ってても、何不自由ない生活ができるのは、あなたのおかげです。

どうか、出来れば定年までその会社にいてください。

と毎日、私を助けてくれる全ての人たちの健康長寿、そして幸せを祈っている。


” 両 親 の 話  ”


親の話をしようと思う。

私は、自己肯定感がものすごく高い。自分を否定したり、卑下したりしたことなんて人生で1度たりともない。自分のことを信じている。

私は最高だし、完璧だし、何でもできるし、絶対に大丈夫。

だから、他人に対しても同じように「あなたはそのままで最高。完璧。何でもできる。絶対に大丈夫。」と言う。

夫は、そんな私をみて「しずえは凄いね。お義母に育てられたからそうなったんだね。」と言う。

しずえは、私の母親だ。この人は昔から我が子のことを家でも外でも構わず褒めちぎった。

「謙遜」という言葉は彼女の辞書にはなかった。

そんな母に、私も弟も「お願いだから、外では私たちのことをけなしてくれ。」と頼むほどだった。

長男を産んでも次男を産んでも三男を産んでも、「ゆきちゃんは凄い。ご立派。子育て上手にやってるわ。」と褒めた。ある日、「ゆきちゃんは生まれた時から頑張ってる!」と言い放った時には、さすがにギョっとした。

そんな母は私と弟に愛情をかけすぎたのだと思う。


私が結婚して長男を産み、弟も東京で立派にやるようになると、

父と母は、今流行りの熟年離婚に向けて舵を切った。

私も弟も実家にいた時から「はやく離婚したらいいのに〜。」と言っていた。

しかし、父が「お母さんと離婚しようと思うんだ。」と言いにやってきた時は、「だからずっと言ってるじゃーん。絶対別々に暮らした方がノーストレスだって!」と平気な顔して言ってのけたが、

父が帰った後、泣いた。

その時は、次男も生まれていたし、両親には自由に生きて欲しいと思っていたが、「私ショックを受けてるんだな。」と理解した。

父はとにかく話がくどい。

何度も同じ話をする。どっちかというとネチネチした性格だと思う。生理的に無理。となり父が帰宅したら「きも!」と言って自分の部屋へ移動した時期もあった。

父の父、つまり私のおじーちゃんにあたる人は、父が小学生の時に亡くなった。女手ひとつで3人の子どもを育てた母親の姿をみて育つ。長男である父は、自分がしっかりしなければと人一倍我慢してきたのだと思う。

運動会の日にたった1人、教室でお弁当を食べたことを私に話した。

片親になってどんな寂しい思いをするのか分かっていたから、はやく離婚したかったけどじっと耐えた的なことも言っていた気がする。

父の姉弟と私は会ったことがない。

父は、ずっと姉や弟にもお金の工面をしていた。今もそうだ。それを母がよく思わなかった。姉弟にあげるお金があったら家にいれてほしいと思っていたのだろう。

私が高校生の時、父が独立。

会社員時代とは違い、家計のやりくりが途端にしにくくなったらしい。その頃から両親が揉めだした。

私も弟も高校から大学まで奨学金を借りていた。その奨学金は生活費にもあてられていたと思う。高校時代、奨学生はクラスで2人だけだった。

ホームルームの時間にみんなの前で奨学金の書類を渡される。それが嫌だった。バイトをすると言ったが、バイトなんていつでも出来る。と母は嫌がった。

父が怒鳴ることはなく、母が「今月のこの支払いどうすんの!!」という感じだった気がする。コミュニケーションが全くとれない2人は、いろんなものがすれ違って誤解も生まれて、もうこんがらがった糸はほどけなくなっていた。

そんな2人を見て、私も弟も「また始まったよ〜〜」という感じで、会社員時代は店長ブログに2人のケンカの様子を面白おかしく書いていた。

私は入社してすぐ、給与が入る通帳を「勝手に使っていい。」と言って母に渡した。

必要な時に「◯万円おろしてきて〜」という感じでお金を引き出してもらった。実家暮らしだったし、好きなものも買えたし、特に何不自由なかった。

母は、父からもらっても足が出てしまう支払いを私の通帳から引き出し、お金ができたら必ず、元に戻していた。


” 結 婚 の 挨 拶   ”


あれは2012年の春頃だっただろうか。

夫が父に結婚の挨拶をするため、実家にやってきた。

その数週間前、事前に情報を与えておいたほうがスムーズだと思い、父に結婚しようと思っていることや、馴れ初めなどを話した。

父は私に背を向け、お仏壇の掃除をしながら色々質問をしてきた。

そして、最後に、「いのはらさんとユキコは、出会うべくして出会ったみたいだな。」と言った。

なかなか話がわかるじゃないか。と感心したことを覚えている。


さて、いよいよ、父とのご対面の時。

テーブルをはさみ夫と父が向き合っている。

私は真ん中に座り、半笑いでSNSを更新していた。

「彼と父ご対面なう。」

父は、「この子はずっと走ってきたんです。弟のしんいちは一休みしたりしながらやってきたけど、この子は小さい時から一度も休むことなくずーっと走ってきました。」と言って、沈黙して泣いた。


私は、確かにずっと走ってきたのかもしれない。

父はちゃんと見ていた。


私は溢れる涙を隠すために下を向き、スマホに打ちこんだ。

「父、泣いたなうなうなう!!!!wwwww」


父は、「妻や娘から私のことを色々聞いていると思いますが、いのはらさんの目でぼくを見てください。」と言って彼を笑わせた。

母や私から悪口を吹聴されているにちがいないと思っていたのだと思う。その予想は大当たりで、私は「本当にややこしい人だから」と彼に吹聴していた。

その日、私は彼と一緒に実家を後にした。

彼は帰りのタクシーの中で、「お父さんは誠実な人だよ。折り目正しい人だ。」と言った。

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(結婚の挨拶の日。)


” 父 の 話   ”


私は、父に「今まで育ててくれてありがとう。」と、まだ言えていない。

長男を産んだ日の夕方、父がやってきて「君はえらい!」と言って私の頭をなでた。そしてマスクを2枚重ねにして手袋をして初孫を抱っこした。

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こんなに素敵な旦那さまをゲットして、孫を3人もみせたんだからもう親孝行は十分だと思った瞬間もあったが、なぜか父に対しては申し訳ない気持ちみたいなものがずっと心につっかえている。

これは一体何なんだろうか。

考えるに、もう70歳にもなったのに、今だに姉や弟にお金をせびられているっぽい。父は人生を楽しんだのだろうか?私と弟を育てるために働き、姉弟にお金を渡すために働いた。

私と弟は、幸せに巣立ち、母もたくさんの友達に囲まれ楽しんでいるが、父だけがまだ鎖に繋がれているように見える。

それは私の錯覚だろうか?そうであってほしい。

誰かに頼られているというのは、それがお金であっても生きがいになるのだろうか。父にとって、そうなっていることを願うが、

このまま死なれたら後悔する。

生きているうちに、「ありがとう」と言いたい。

何かきっかけがほしい。

この前、夫の発案で「孫チャンネル」という、テレビで毎日孫が見れるというサービスを父の仕事場に設置した。

夫はいつも父のことを気にかけてくれる。

父が、まごチャンネルを起動させたら「ご実家が見ました。」と通知が出るのだが、父はあの日から毎日かかさず孫の動画をチェックしている。

私も、せめてもの親孝行という気持ちで毎日、やんちゃ三兄弟の動画をせっせとUPする。

孫と父が繋がるだけでなく、私と父が孫を通して毎日繋がっているようだ。本当に良いサービスを作ってくれた。

父が、母と離婚をする旨を伝えに来た日の夜、私は泣きながら父に手紙を書いた。

お父さんとお母さんは結婚は失敗したが、子育てには大成功したと思う。

という趣旨のことを書いた気がする。職場に送ったのだが、返事も来ないし、その後何度も会っているけど話題に出ないので、届いてないかもしれない。

両親は、私たちを本当に大切に育ててくれた。

物心ついた時から、弟が高校生になるまで、我が家は毎年2〜3回旅行をしていた。車の中で父と母はケンカをするのだが、子ども達に思い出を作ってあげようとお金をやり繰りしていたのだと思う。

私が、観光農園をオープンしたいと思ったもう1つの理由は、親子のかけがえのない思い出をつくりたい。と思ったからだ。

父との思い出がある。

私が2歳くらいの頃、遊園地で父がソフトクリームを私に食べさせて笑っている。という記憶だったり、喘息が出た時に眠りにつくまで背中をさすってくれた思い出だ。

顔を見るのも嫌な時期もあったし、今も一定の距離を保っているが、思い出すのはそういう親子の愛しい瞬間ばかりだ。

幼い頃もらった愛情は、大人になってもずっと心に残っている。

そして、おそらく親の中にもキラキラした思い出として残っているんだと思う。

来年の夏、かつらぎ町にオープンする観光農園「くつろぎたいのも山々。」

自然体験の中で、子ども達がキラキラする瞬間を見たい。

お母さんやお父さんが我が子を愛おしく見つめる姿が見たい。

その微笑みは、これからどんな事があってもずっとその小さな胸に残り続けることを私は知っている。


そして、プレオープンの日は、父をかつらぎ町に招待したい。その時、はじめての「育ててくれてありがとう」が言えたらいいなと思う。


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Vol3 最終章を読む!

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