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23年間生きてきてわかったこと
1. 親や先生は時として正しくないし、自分を正しいところに連れて行ってくれるわけではない
親や先生のいうことは”正しい”と、思っていた。
ていうかまず”正しい”って何??って突っ込みたくなるけど、そんなことでさえ微塵も疑わなかった。
2. 学校は、生きていくのに必要なことを教えてくれるわけではない
なんでそう思い込んでいたのかわからないけれど、学校は生徒に、生きていくのに必要なことを全て教えてくれると思っていた。本当に。
教育って社会に出て自分で食べていくためにあるから、
学校を出れば生きていくのに足る知識や能力がつくのかなと思っていた。
先生は、大学で教員免許を取ってすぐに先生になっている人が多いから、先生以外をしたことがないのにね。
そんな人に、社会に出るためのことを教わるということ自体が変だということに気づいたのも、20歳くらいのときだった。
学業を一通り終えた今、どうやってお金を稼げばいいのかも、税金のことも何もわからない自分がいた。
3. 誰も人生の目標を提示してくれないし、その実現方法も教えてくれない
ちきりんさんと梅原大吾さんはその著『悩みどころと逃げどころ』の中で、
学校的価値観の染み付いた人は、目指すべきものと、そこへ到達する方法を教えられれば行動できるが、やりたいことを決めることが苦手で、また、そこへの到達方法がわからないと困惑してしまう。
ということを述べている。
わたしこそまさにこのような人間であった。
世の中は、目指すべきゴールも、そこへの到達手段も示してくれないのに、誰かが提示してくれるものであると信じていた。
10代のわたしは、大学に入ることが目標で、そのあとのことは何も考えていなかった。
だから、大学に入って目標がなくなり、何をすればいいのかわからなくなってしまったし、就活も、突然わらわらと周りが動き出してからはっとして、
それでも「どうして誰もいつ何をすればいいのか教えてくれないんだろう、答えがないんだろう」と感じていたのだ。
4. 誰かが言う通りにすると後悔する。誰も私の人生の責任取ってくれない。
高校受験のときも大学受験のときも、進学先は自分で決めた。
でも、心からいきたいと思った学校かと言えば違う。
塾の先生や親のフィルターで”あらかじめ選ばれた選択肢の中”から
私は”選んだ”のだ。
当時の私は、先生や親などの大人は私より物事をよく知っていて、より良い判断ができると思っていたし、だから彼らのいう通りにするのがいいと思っていた。
実際、本当にしたかったら自分の惹かれるいきたい道を選ぶこともできたと思う。
でもそれをしなかったのは、できなかったのは、何よりも、親に、大人に、
自分を受け入れられたかったのだと思う。
だから彼らが好む選択を選んでしまった。
結果的に、私は彼らの勧める選択をして、何か大きな失敗と言えるような失敗をしたわけではない。
でも、自分の心が欲していた選択肢をもし選んでいたらと想像し、「もしああしていたらどうだっただろうか?」と妄想してしまう。
他人のアドバイスの通りにして失敗しなかったとしても、それが自分の決断じゃない限り、自分の人生を歩んでいるという気がしない。
街を救うヒーロー役だったとしてもお姫様役だったとしても、所詮舞台の上の操り人形に過ぎない。
自分で決めることが生きることだ。
自分で決めないで誰かのいう通りにするのは、結果”失敗しなかった”としてもそれは”失敗”なのである。
5. アドバイスする人は、そのとき思ったことを言っているだけ。
アドバイスしてくる人は、そのときにふわっと心に浮かんだことを口から漏らしているだけだ。
時間が経てば、自分の口が話したことの記憶すら曖昧である。
例えば、わたしは休学する際に教授に大反対された。
「あなたのことを思って」とか、「就職に不利だから」とか。
けど半年後に会ったら、自分がアドバイスした内容さえ忘れていた。
また、姉がベンチャー企業に就職したときも、初めは聞いたこともない社名に両親は怪しそうに心配していたけれど、数年経って会社が時流に乗り始めていることを知ると手のひら返しでべた褒めしだした。
親身に相談に乗ってくれて、一緒にあなたの課題を考えてくれる人も世の中には存在するだろう。
でも、相談する相手が考えうるメリットデメリットは大抵の場合自分でも考えつくだろうし、少なくとも、相談相手が自分より真剣にあなたの課題について悩んで考えてくれることなんてあるのだろうか?
彼らはあくまで外野なのだ。
目の前の事象に反応してコメントしているだけに過ぎない。
人間は、何かしようという人に対して難色を示してしまう生き物なのだ、くらいに思っておいた方が良さそうだ。
ただ単に自分の中にない人生の選択肢を排除しようとしているだけの可能性もある。
6. 誰かに依存していることは生きている心地がしない。
幼稚園から続けていた大好きなバレエを小学4年生でやめた。
両親からはお金がかかるから、と言われたけれど本当の理由は経済的理由ではなかったのだと思う。
でも、本当の理由はなんであれ、自分で月1万くらいの月謝を払う能力がない小学生の当時の私は後ろ盾である親に従うほかなかった。
めちゃめちゃ没頭していた人生の生きがいを突然失うことほど悲しいものはない。
誰かに自分の経済的にコントロールを握られているのは生きているとは言えないと実感した。
「エサをもらって生きる」だけじゃ牛や馬と同じになってしまう。
人でなくなってしまう。
(『この世でいちばん大事な「カネ」の話』西原理恵子)
その意味で、私の人生はまだ始まっていない。
***
自分で書いていて恥ずかしいくらいには、過去のわたしは他力本願で無思考でどうしようもない。
今、世の中の多くの人が叫んでいる上記のような”当たり前のこと”でさえ、
10代のわたしには聞こえてなかった。
聞こうともしてなかったのかもしれない。
これから起きる(かもしれない)教育改革される前に義務教育諸々を終えた元一学生の記録をここに残しておく。
最後まで読んでいただきありがとうございます。 また見にきてくれると嬉しいです!