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障害を個性だと思いますか?

ロフストランドクラッチという特殊な杖を使い始めたばかりの頃、

「障害は個性だから、恥ずべきことではないよ」

そう声をかけてくれた人がいました。その時はなんとなく引っかかりを覚えつつ、言葉のままに受け取りました。

けれども、今はこの言葉を聞くと、引っかかりではなく反論したい気持ちになります。それはなぜか?

個性という言葉と障害を結びつけることで
見えなくなってしまうものがあると思うから。


“障害は個性なのか”

正解のない議論だし、個性と捉えることが良い場面も、個性と考えることで障害という現実を受け止められる人もいるかもしれません。とあるウェブニュースの記事を目にしたことがきっかけで、数年前に、自分が「障害と個性」について書き留めていたことを思い出しました。せっかくだから、この話を今の私の視点で考えてみようと、久しぶりにnoteを書いています。

追記:障害は個性だ/障害は個性ではない、という話をしたいのではなくて、【障害を個性とは思っていない私が、どうしてそう考えるのか】を知ってほしいなと思って綴りました。


私は個性だと思い…

今の私は、個性だとは思いません。なぜかって?
個性って、その人らしさのことを指すと思うから。

【個性🔍】とGoogleに尋ねると、

他の人とちがった、その人特有の性質・性格。
個人の特性、個体に特有の性

と出てきました。
じゃあ、性質ってなに?

もって生まれた気質。ひととなり。

上の2つの言葉の意味を私なりに解釈すると、障害を個性と言った場合、【車椅子であることが私の性格に特徴をもたせている】ことになるのでは...?

車椅子ユーザーになったから、健常の時には表に出てこなかった性格が目立つようになった部分はあるかもしれません。でも、少なくとも【車椅子ユーザーであること=私らしさ】ではないと思うのです。


個性と思おうとした時期があった

私は、杖を使うようになった時期と、車椅子を使うようになった時期が一緒でした。足を引きずって少し不安定にゆらゆらと歩いていた頃。ある日突然、一人で立ち上がることもできなくなりました。ただ、この頃は症状に波があったので、全く歩けない時期はそう長くは続かなかった。リハビリのおかげもあって、短距離なら杖を使って歩けるようになったものの、長距離の移動には車椅子を使うようになりました。

この時期が一番、自分の障害とどう向き合えば良いのかわかりませんでした。いや、そもそも障害なのかも分からなかった。原因不明だったことも大きいけれど、歩けないことが『障害』なのか、『障害』ってなんなのか、分からなかったのです。

そんな中、“障害を個性と思おう”としてみた時期がありました。目が悪ければ眼鏡をかける、運動が得意な人がいれば苦手な人いる。それと同じだと。でも、その考えでは乗り越えられない壁がやってきたのです。


個性と思うと、乗り越えられなかったこと

全く立てなくなった時、私は、車椅子はメガネと同じではない、運動が苦手なのとも違う。そう思いました。

眼鏡をかければ見えるようになる。かけない人と同じ生活が送れる。車の免許取得に差し支えたり、場合によっては就けない職業があったりするけれど、日常生活に不可欠なことはできるようになる。(※眼鏡をかけても日常生活に差し支えるのは視覚の障害に当てはまると私は思っています。)

運動が苦手なのもそう。体育の時間に嫌な思いをしたりするかもしれないけれど、日常生活に支障が出るわけではない。

でも、立てないこと、歩けないことは、日常に支障が出る。車椅子を使えば移動ができるようになるけれど、車椅子を使ったからといって、階段の上にある場所に行けるようになるわけじゃない。トイレだって、広いスペースがないと入れなくなる。

障害って、日常生活に支障が出ること。それは個性とは違う問題だ。

そう、思いました。


個性で終われないこと

発達障害に関しては、身体障害以上に個性と捉える場面を多く見かけます。でも、発達障害のある方も、その人らしさはもっと別のところにあるはずだから、個性とは違うと私は思っています。

例えば、一つのことに集中するのが特徴だとしても、好きになるものは、車だったり、植物だったり、動物だったり…人それぞれいろいろです。

何を好きになるか、それこそが個性。
障害は、障害でしかない、ただの事実。
そこに意味づけするのは、自分や周りの人や環境。

私は、そう思っています。

もしも、障害が個性で済むことなら、障害者総合支援法なんて法律はきっと必要ありません。個性では終われないからこそ、いろんな法律があって、制度ができて、権利として守られていく必要があるのだと思います。

それぞれの個性が尊重される社会へー

「障害とは何か」。実は、これ自体が社会福祉学の領域でも難解な問いです。そして、その難解な存在である障害とどう向き合えば良いのか、私は正直、今でも分からなくなることがあります。特に、進行するたびに、できないことが増えるたびに、この壁にぶつかります。

ただ、「障害は私の一部だ」と言い続けたい。私らしさをつくっているのは、障害も含めた私全体だと。

障害という特徴に目を向けるのではなくて、その人自身を見つめて、その人らしさを見つけて欲しい。そして、障害の有無に関わらず、それぞれの個性が尊重されて発揮できる社会になってほしいですね。

皆さんは、障害を個性だと思いますか?


追記

どうしてこの話題について書こうと思ったのか、もう一つの理由。それは、最近では、小中学校の教育の中でも「障害」について触れられることが多くなっているから。そういう場面で、「障害は個性だよ」と言ってしまうことに疑問を持っているのです。

障害を個性と捉えるかどうか、それは当事者(本人や家族etc)の捉え方の話。個性と捉えるのも、障害とのつきあい方の一つだと思います。

でも、社会が「障害は個性なんだ」と捉えて障害というものを理解しようとすることは、何か違うと思います。それでは話がそこで終わってしまって、その先に繋がりにくいんじゃないかと。障害をどう捉えているのかは人それぞれだということを、もっと考えてほしいなと思います。

この話は、「合理的配慮」とは何か、何のために必要なのかという話にもつながることだと思うから。


まとめ

私は障害を個性だとは思わない。
障害のある自分から見える世界があることは事実で大事なことだけど、私らしさは、障害の有る無しとは別のところにあるはずだと思うから。