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時の流れに身を任せながら「抗う」

「強いね」 
「自分だったらきっと耐えられない」

私のこれまでの道のりを話すと、そう言われることがあります。
1年ちょっと前までは「私も“普通の人”ですよ。強くなんてないです」と、やんわり否定していました。

でも、ある時ふと思いました。

「強い人ってどんな人だろう?」

自分のことを「強い人ではない」と否定するならば、私の中には「強い人」というイメージがあるということ。
それって、一体どんな人…?
そう考え始めたら、思考が渦を巻き始めました。

強いとか、強くないとか弱いとか。

人の生き方を比べられるものではないと思いつつも、何かと比べて何かで測るから“強い”という概念は存在するのだと思っていました。

そうだとすると、「強い人」というのは、何と比べて何で測られるのでしょうか。
そんな、きっと答えのない疑問をぐるぐると考えて、私が辿り着いたのはこんなこと。

「強い人」という言葉に込められているもの

私が「強い人」に見える理由で、思い当たることは1つ。
病気と生きてきたということ。

病気と生きる日常。それは、私が確かに通ってきた道です。…私にとっては、ただ“通るしかなかった道”とも言えます。

全容が見えないから、どこに繋がっているのかも、今いるところが平地なのかも山なのかも分かりません。そこしか道がなかったから、その道を通ってきただけです。
綺麗な景色を見たくて山を登ろうと思ったわけでも、山を登ることで、体力とか経験とか何かを得ようと思ったわけでもありません。

でも、誰かから見れば、時間が経って通り過ぎて見たら、それは“山を乗り越える道”だったのだと思います。


(山登りに例えたけれども、実際には)私は山登りをしたことがなくて、山登りがどれほど楽しくて疲れて大変なのか、想像することはあっても、どのくらいのものなのか分かりません。
分からないから、自分にできるのかできないのかも、分からないのです。

でも、次々と険しい山に登る人の話を聞いた時に「すごいなぁ」と思います。
どのくらいすごいのか分からなくても「すごい」と思うのです。

これって、誰かのことを「強い人」と思うのと、どこか似ているような気がしました。

何と比べて、何で測って、そう感じるのかを考えていたけれども、もしかしたら、比べても測ってもいないのかもしれません。

そう考えると、「強い人」という言葉に込められているのは、強い弱いの話ではなくて、自分が知らない世界や、知っていても到達したことのない場所に足を踏み入れたことがある人への“リスペクト”の気持ちなのかもしれないと、思うようになりました(自分で言うのがとっても恥ずかしいですが…!)。

私にとっての強さとは、私で居続ける力

望まずして病気になったし、強くなれたわけでもないと、私は今でも思っています。
この身体この状況と生きていくには、ひたすら今を過ごすしかなかった。
私が今まで続けてきたのは「時の流れに身を任せる」ということです。

でも、実はそれが、耐えることであり、闘うことの正体の1つだったのかもしれません。

色々と考えるうちに、誰かの感想を、言葉のそのままに受け止められる気がしてきました。

「時の流れに身を任せながら抗う」

なんていう、なんとも矛盾したことを続けざるを得ない日々の中で、私はいつの間にか“強さ”を身につけたのかもしれません。

その強さとは、何かに勝つ力ではなくて、「私は自分で居続けたい」と願う力なのかもしれないとも思います。