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わたしたちは、食べたものでできている

なんだかんだで、リトアニアの夏を経験するのは3度目。最近は太陽の日差しに負けて「ごはんなに食べよう・・」と、めちゃくちゃテキトーな野菜の蒸し煮とか炒めもので済ませてしまう日もあるものの、基本的に3食自炊をしなが生きています。


今は残念ながら(←近くに畑がないという意味)、基本的にスーパー、もしくは近くのマーケットで買うことが多いのですが、できるだけオーガニック、もしくは国産アイテムを選ぶようにしているところ。

あとは窓辺に豆乳パックをリユースして土を入れ、ディル・リーフレタス・ルッコラ・パクチーを育てています。パクチー、もう花咲いちゃったけど。


そんなこんなで、少しずつ工夫をしながら、街のあちこちで頻繁に見かけるデリバリーサービスやテイクアウェイには、一切頼っていません

レディメイド品も基本的に購入しない。あ、でもごくたま〜にじゃがいも団子系は買っているかも。リトアニア料理の真髄と思っているよ(選べばベジでもいける!)。


こういう話をすると、特に日本の友達にはいつでも「意識高いね」「よくそんなことできるね」と言われてきましたが、個人的には自分の身体と心、あと毎日の暮らし(未来も含む)に少しでも気を配るならむしろ当たり前のことだと思っています。

もちろん、仕事やプライベートで忙しいという人がいるのもわかっている。けれどわたしたちの身体は食べたものでできているので、生きるなら何よりも疎かにしちゃいけない部分なのではないでしょうか。


その上で、食べものに限らずわたしがもっと多くの人に本気で意識してほしいな、と願うのは、選ぶものが「どこで・どのように」できているのか?です。


最近はオーガニックだけじゃなく、サスティナビリティとかエシカルとか、クルーエルティフリー(動物実験ナシ。化粧品系に増えてきたぽい)とかヴィーガンといった判断基準が生まれていて、食品や衣服・コスメのようなアイテムで見かけることが増えました。

こういった基準はものを選ぶ上でわかりやすいし、ないよりはあったほうがいいに決まっている。けれど、逆にいうならばそれ以外の商品が多すぎる、という点に、わたしは現代資本主義社会の闇を感じます。


それに日本の現状で言うならば、農薬・肥料の規制のゆるさとか、利益を追求するがゆえにはびこる悪徳行為(例えば国産と偽って外国産野菜のラベルを剥がす、とか、ゲノム遺伝子商品が流通する、とか)みたいなのが消えない限り、わたしはイチ消費者として「買う」という行為をできるだけ避けたいな、と思ってしまうのです。


ちょっと話が逸れてしまったけれど、純粋にレディメイド品(お惣菜・冷凍・外食、ほぼなんでも!)をもし買うなら、さっきいったように「どこで・どのようにできているのか?」が明確なものを選びたいな。

ケミカルな添加物や遺伝子組み換え技術を利用した小麦・大豆を入れたり、環境破壊に負荷をかけるパームオイルを使ったり・・・特に日本の食品表示法は本当に曖昧な書き方が許されてしまうルールなので、本来はそこから直すべきなのだけど。

だから、うやむやな表示でわからないことが多い(=隠されていることが多い)なら、産地や作り方まで明確に開示してくれる場合以外は、基本的にあまり口にしないほうがいいかな、とも思います。


そう言ってしまうと、なんだか冷たいな〜とか、お堅いなと思われるかもしれませんが、わたしは例えば友人や大切な人たちと外食やパーティーを楽しむのは好きだし、そんなときくらいはいいかな、と思うことにしている。おしゃべりや場の雰囲気を楽しむほうが大切だと思うからです(でも毎日はできない)。


何より、自分で料理を作るって楽しい。今はほとんど買い物の段階からになってしまうけど(野菜をそだてたり、野草や果樹から恵みをいただくのは、もっと楽しい!そしてありがたさが一気に増す)。

それでも、季節に沿ったものを選び、調味料やスパイス、調理法で可能性は無限に広がるもの。味の好み・焼き加減までカスタムできるんだから、いいよね。

スターターからパンを作ったり、発酵菌を利用した調味料・保存食は、一度でも自分の手でやってみると、材料のシンプルさと滋味ぶかさに、きっと感動するんじゃないかしら。


よく「時間がないから料理をしない」という人もいるけれど、わたしは毎回カップラーメンとかコンビニのお弁当を、買う〜容器を捨てるの手間、そして何よりその後の身体&心へのリスクを考えれば、時間もコストも自分で作っちゃったほうがいいのでは?という気がします。

別に凝ったものじゃなくたっていい。これは特に北欧で暮らしてみて、改めて思ったこと。野菜を切って、焼いたり炒めたり、あるいはオーブンにぶっこむだけで、もう立派に1品ができちゃうんだし、おかずいっぱいなくてもいいなじゃない?

豆や玄米は、寝る前にでも水に浸けておいて、翌朝に他のことをしながら火を入れたら、そんなに面倒には感じないのではないかな。

もし、副菜が欲しいのであれば、旬の野菜がいっぱい手に入った時にでも、塩漬けして発酵させておけば、もう立派なピクルスの完成です。醤油とか味噌とかでもいいよね。ハーブを入れるのもよい。


そんな風にして、自分で作る楽しさと、体と心への心配りができて、何より「生きているな〜」という感覚が得られます。

もっと言えば、自分で野菜やハーブを育ててみるのもいい。ベランダでも、部屋の窓辺でもできるので、ちょっとしたことから始めてみるのがオススメです。究極、お金がなくても種があれば生きていけるんだし。


もうひとつわたしにとって「どこで・どのように」を意識するのは、自分が地球に暮らす生き物の一員というところにあります。


少なくともあと数十年は地に足をつけて生きるこの星に、存在しているだけでエネルギーをもらって、それなりに傷をつけている。

だからせめて、自分が食べるものや身につけるもの、暮らしの上で使うものに関しては、身土不二(地産地消)自然素材であること、そしてケミカルな農薬は肥料・添加物を使わなくても作れるものを選ぼう!と思うに至りました。

それが結局、最後は土に還るわたしたち生き物として、もっともまっとうな勤めでもあり、地球の未来への貢献でもあるような気がします。


これまで書いたこと、今も完全に実践できているかと言われれば、自信を持って首を縦にふることはできないのですが、なんでも知ることから始め、すこ〜しずつでも意識していけば、何もしない頃に比べると確実に効果は出ていると思います。

罪悪感が減り、気持ちまで軽く前向きになれるのは、心身にもポジティブな影響があるはず。


最初の「デリバリーやテイクアウェイ・レディメイド品は頼らない」というのは、実際のところ環境面でも効果はある。つまりゴミを減らせるってこと。


結局色々な観点から書き綴ってしまいましたが、一見すればそれぞれの問題が「点」のように独立して見えるかもしれないけれど、実はどの問題もすべてひとつの「線」で繋がっている。

そんなことを意識すれば、純粋に自分が口にするものについて考えることは、自分のエゴだけにとどまらず、大切な周りの人たちや社会全体、ひいては地球にまで思いを馳せる、いいきっかけにもなるんじゃないかしら。


と、ちょっと壮大な感じになってしまいましたが、たまには自分の食にkzんする思考について書いてみようかな、と思って綴りました。

特に都市部に生きていると「自分たちの生活や社会」と、食べ物ができる大元であるはずの「自然」との関係が完全に別物扱いされているような気がするからこそ、ひとりでも多くの方が「わたしたちは、食べたものからできている」を意識できるといいな、と願っています。


最後に、今回の記事を書くきっかけとなったのは、こちらの動画なのでした。タイトルこそ煽る感じで好みじゃないものの、彼の話し方は面白いね〜。これは前半だけど、後半も面白いです。


過去に書いた、食の話はこちら。






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