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わたしと、言葉

不定期に、わたし周りの好きなこと・気になるトピックを挙げ、好きなように綴る「わたしと、○○」シリーズ。

今回は「言葉」について。


以前、言葉の学習について書いたことがありました。が、そういえば滞在中の言語に関するアップデートをまったくしていなかったこともあり、思いだせる範囲内で記録しておこうかな~と思ったのです。

(※先に言っておきますと、結局アップデートらしき内容はあまり書きませんでした。スミマセン)



そもそも、わたしは留学経験というものがない。なんなら、英語圏に行ったのは、今回の滞在に向けて経由したイギリスくらい(しかも乗換のため滞在時間は5時間)。当たり前ですが、ほぼみんなネイティブで感動した思い出。

昔から、英語に興味がなかったわけではないのですが、日本の教育システム上か、やはりどうしても苦手意識が強かった。今も克服したとは思っていないのですが、そんなわけで特別「英語留学したい!」とは思ってこなかったんです。

だから、いきなり飛んだ先もノルウェーだったし、今回はリトアニアだし。


でも、だからこそ、さまざまな言語に触れてみて感じたこと・学んだことも、多いような気はする。


言語って面白いと気づいた瞬間

義務教育とは別に、はじめて自発的にやってみようかな~と思ったのは、ドイツ語でした。

高校の選択授業で、数あるコマの中から興味のある授業をとるスタイルだったのですが、ちょうど双子のイモートが同時期にドイツ語をはじめたこともあり(余談ですが、別の高校です)、じゃあわたしもやってみようかな?という、なんかテキトーな理由。


悲しきかな、今は使う機会がなくなり、ほとんど忘れてしまいました。が、なんだかんだで高校2年間+大学の第二言語として3年くらい選択し続けたし、ドイツ語検定というのも受けるほどには、ドイツ語の勉強を楽しく続けられたのです。

それは一体、なんでだったのか。


結局、ドイツ語留学というものはしませんでした。けれど、別にドイツ人の友人がいるわけではなかったので、どうしても現地で使ってみたくて、旅行で数日訪れた。

だいたいは買い物やレストランの注文で、カタコトの英語とごちゃ混ぜにしながら喋ってみたわけですが、まあこれがなかなか面白かったのです。自分の発した記号が、通じた!といううれしさ。


そう。言葉ってあくまでもツールであり、同じツールを扱える人たちとのコミュニケーション手段なのである。


ただ、それまでは授業で黙々と勉強を続けてきたのですが、なぜそれができたのか?といえば、第一に単位のため。それとは別に、ドイツ語というツールの仕組みを理解するのが面白かったため、です。


はじめて触れた英語以外の言語だったわけですが、英語はもう義務教育の暗記暗記!みたいなやり方に疲れてしまい、正直あまり好きではありませんでした。

ですが、ドイツ語は英語よりもずっとシステマチックな言語ということもあったし、まわりの生徒もほとんど初心者だったので、一緒に発音の練習をしても恥ずかしくなかった、のかもしれない。


こうして、言語というツールの仕組みを理解し、操ることで、その地の人や文化に触れることができる!という点に、面白さを感じ始めたのです。


現地で言語を学ぶ意味

これも完全に私見ですが、いくら英語が堪能であっても、現地語にはかなわないと思っている。

なぜかって、言葉によって表現力や思考・極端に言えば人格も多少変わるんじゃないかって思うからです。


そもそもわたしの場合、ひとつの国に長く滞在する目的って、語学学習ではない。その地の文化を知ることなのです。

だから、英語の優先順位がいつでも低く、現地で実際に人と会い、だいぶスローに学んできています。だから今でも苦手意識がとれないんだろうけれど、少なくとも「物怖じせずに話す」というマインドは身についたかな、と思っています。


もちろん、1年かそこらで現地語が劇的に上達するわけでもないので、基本的なコミュニケーションは英語が便利です。特に住まい探しみたいな基礎的な部分が整わないと、次に進めないですからね。

でも、本当にゆっくりでもいいから、ちょっとずつ現地の言葉を学ぼうとする姿勢は、その地の文化を知るうえでとても大切。実際、ひとことでも話せるようになれば、ファーストインプレッションは変わるし、相手の態度が変わることも多いものです。たとえ一瞬の出会いだとしても、これは重要だと思います。


それに、単純な話、わかる単語が増えれば、その地での生活も便利になる。リトアニアも、みんな英語が話せるノルウェーですらも、広告とか駅名とか、スーパーの商品名なんかは、みんな現地語なのである。

遭遇する対象が、暮らしに身近であればあるほど、現地語ですぐに理解できる方が、ストレスも少ないしね。


何より、日本だってそうなように、現地の文化や暮らしぶりに関する情報は、やはりどうしても現地語のほうがソースも多い。これも、わたしが現地語を学ぶ理由のひとつです。


よく「ワーホリなんて1年だけなんだし、別に英語だけでもいいんじゃない?」といわれるのですが(いやリトアニアにワーホリ滞在者はどうやらいないので滅多に言われないが)、簡単な挨拶とか、乾杯!みたいなフレーズだけでもいいから、言えると楽しいもんですよ。

理解できる喜びって、日々の楽しみにつながったりするよね。


落ち着いた喋り方になりたい

最後は、声のトーンに関する話。


これ、実は「わたしと、音楽」の中でもちょっと触れたことなのですが、きっと他言語話者なら誰でも経験するであろうポイントが、話す言語によるトーンの違いではないんじゃないかな。


わたし、自分の地声ってけっこう低いと思っている。小さなころ「せーの」で大きな声を出すのがイヤだったくらい、低いです。

なのですが、大きくなるにつれ、学校や家庭・習い事以外のコミュニティというものが増えるにつれ、場面によってはやわらかいトーンで話す癖が身についてしまったのです。いや、いいんだけどね。わたしは今や、意外とこの話し方も好きだったりする。


ただ、英語になると、途端に元の地声に戻っちゃうんです。なんというか、濁声。だから前は、日本語で話し慣れている友人たちの前で英語を話すの、めっちゃイヤでした。

ノルウェーから旅を経て日本に帰国したあと、何度かそういう機会がありましたが、話すこと自体に恐れがなくなっていても、声のトーンと言語脳の切り替えに苦戦。いつのまにか英語を話すこと自体が、おっくうになってしまったのでした。


しかし、特にリトアニアに戻ってからかな。ロックダウンもあって日本人の知り合いがおらず、人と話す際の割合が英語>リトアニア語>日本語になったとき、誰と話すにも地声(濁声?)である状態が、案外心地よく感じられたのです。

思えば、トーンをあげて話すこと自体、ちょっと無理があるのかもしれない。実際、今ではたまに日中ずっと日本語を話していると、それはそれで疲れることもあります。いや英語も疲れるけどね(脳が)。


それでも、もしかしたら、言語によって切替わる脳の思考回路だけでなく、声のトーンの違いに、すこし慣れてきたのでしょう。やっとかよという感じですが、まあ、人によってペースは違うもんだからね。


それから最後に、わたしは日本語が大好きです。これ、実は英語やほかの言語を勉強する気力が続かない理由のひとつだったりもして。

日本語の表現の豊富さに憑りつかれている(自分が使いこなせているかどうかは別として)からこそ、自分の語彙力に限りがある状態が、いたたまれなくなっちゃったりする。


・・なんて、最後は「結局日本語が好き」という謎のコンクルージョンになってしまいましたが、それでも言語は楽しいもんです。

今まで学んだ言語、どれをとってもすらすらと操れるわけでは決してないのですが、話すときのリズムとか、字面とかも含めて、ぜんぶ違って面白いし、比較できる対象が増えること自体もまたいいなあって。


こうやって、日々新たな発見と喜びを感じながら、これからも言葉の学びを深めていこうと思います。

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