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インクルーシブ教育

我が子

プロフィールの欄に書いてあるとおり、私の次男は発達障害があります。発達が遅いことは小さい頃から分かっていて、昨年検査の結果、正式に(?)診断されました。もうすぐ一年が経とうとしています。

私の両親や義理の両親にも診断されたことは伝えましたが、診断を受ける前と変わらず愛情を注いでくれています。もちろん我々夫婦も変わらず注いでいます。

次男は次男であるからです。

とはいっても、こだわりが強く手がかかることもあります。発達障害という診断が出ても、「しょうがないっか~」と大人な感じでいつでも流せるわけではありません笑。

イライラすることもありますし、もう無理って思うこともあります。診断が出ようと出なかろうと何一つ対応が変わることはありません。両親も我々夫婦も長男も。診断の後に変わったことと言えば、週三回発達支援の施設に通うようになったということくらいです。

一方、長男は発達の遅れがあるということを感じたことも言われたこともありません。THE普通。通知表は〇ばかり。1年最後の通知表で体育にひとつ◎があったくらい。あばれることもなく、人に危害も加えない。かといってできもしない笑。

私自身小学校の担任を10年ほどしていたのでわかりますが、正直長男のような子どもは、意識しないとクラスにいてもいなくてもわかりません。悪くもなく、良くもなく。トラブルもなく、発言もなく。総合所見では最後に残って悩んでしまうような子です。

だれもが共に生きるために

インクルーシブ教育という言葉があります。これは、障害がある人とない人が共に学ぶ仕組みのことで、障害に対しての偏見や差別を減らしお互いに尊重することを目指すものです。この定義の文だけ見ると素晴らしいと思えるじゃないですか。

実際、バリアフリー化してきたと思います。ユニバーサルデザインのものも増えました。インクルーシブな社会になってきたのだと思います。次男が発達障害と診断されたことで、社会にはさまざまな福祉制度があると知りました。

いろいろな施設や駐車場の料金の割引。発達支援をうける際には、全額負担ゼロ。想像していた以上に優遇があり社会の制度に感謝の気持ちでいっぱいです。

インクルーシブ教育の理念を柔らかく言うと、「人はそれぞれ違うからこそ、お互いに思いやろうね」ということだと思うのです。固く短く言うと、共生社会。

障害があろうとなかろうと、国籍が日本だろうとなかろうと、男性だろうと女性だろうと。そういった違いを理解し合って、お互いに生きていこうよっていうことです。

しかし、人の違いは何も分かりやすいものばかりではないですよね。先ほどの障害を例に取ると、障害はありそうだけど診断を受けていない人、診断まではギリギリ行かないけど、まったくないわけではない人も「障害がない人」としてカウントされています。

診断を受けていたらいろいろと配慮されるけど、診断されていないってだけでマジョリティーのような扱いをされるのです。学校現場ではグレーといわれる存在です。この人たちも診断された人たちほどの支援や配慮はいらないかもしれないけど、ゼロでいいわけではないはずです。

ですからグレーの人たちは苦しいのです。診断はないから普通の人として扱われ、支援や理解がなく、甘いだけとか努力不足とか自己中とか言われやすくなるのです。教員間ではグレーという言葉で配慮ができるようにしていますが、一般的には言葉がないので、親も理解しにくいです。

障害の有無に関わらず思いやるのであれば、障害がない人たちへの思いやりも大切だと思うのです。思いやるという言葉を言い換えて「優しくする」「大目に見る」でどうですか。

障害名などなくても

一人一人ができること、できないことは違い、得意なこともあれば苦手なこともある。できないことや苦手なことは、できる人や得意な人が助けてあげればいいだけです。障害があるかないかで考えるのではなく、その人は何で困るのか、そのために何ができるのかを考えるだけなのではないかと思うのです。

実際、私が担任していたクラスの中に障害を診断された人がいたことは多々あります。私は担任なので障害のことは知っていますが、他の子どもたちは当然知りませんし、発達障害という概念自体知らないかもしれません。

ただその子の特徴はみんな知っています。「そういう子だから」で通ります。算数が苦手、運動が苦手、と同じようにその子は気持ちを抑えるのが苦手のように。ただそれだけ。仲間はずれにするわけでもなく、「一緒に遊ぼ-」って感じでいきます。もちろんそこには先生という存在があるからですが、子どもたちは障害を持つ子ともうまく付き合っています。

私は10年以上学校教育の現場にいますが、実は先生の中にも困った人(困っている人)はいます。みなさんの学生時代もいませんでした?普通じゃない先生というかやばいというか(笑)。

具体的には、すぐぶち切れる人とか、なんか言っていることが理解不明だとか、思い込み激しいなとか。そんなとこです。一般的に使われる言葉で言うと、仕事ができない人とか。使えない人とか。迷惑掛ける人とかって表される人です。

または、あなたの職場にもいませんか?そういう人。

そういう人ってどういう待遇受けてますか?配慮されていますか?みなはその人にも優しいですか?というか、あなたは優しく接していますか?

そうなんです。子どもにインクルーシブ教育なんたらかんたら言っておきながら、教育する側の大人ができていないことが多いんですよ。大人ができないことを子どもに期待するだけならまだしも、要求するって・・・。

え?仕事だから?迷惑掛けられると困る?

まあそんなこと言わずにできる範囲で手伝ってあげてくださいよ。まず大人がお手本みせなきゃ。

ちょっと言葉が悪くなってきそうなので、この話題はここくらいでやめておきます笑

声を掛ける

我が家の話にもどします。先ほどもいったように次男は保育園でも発達支援施設でもよくよく配慮をうけています。個別で声を掛けてもらったり、着替えを手伝ってもらったり。

では、長男はどうでしょう。

実際の様子をすべて見てはいないので絶対とは言い切れませんが、ほとんど配慮は受けてません。妻が授業参観に行った過去3回、手を挙げることもないし、できないと嘆くこともない。そんな感じなので、先生から声を掛けてもらうことはありません。

当然、声掛けるだけが配慮ではないです。遠くから見守ることも配慮である場合も多いにあります。ですが、それができる先生はかなり少ないのも事実です。何もない子どもへ意識が向けるより、優先して意識を向けなければいけない子どもが多いからです。それは非常に分かります。分かるからこそ私は、長男が何も声を掛けられないことにも理解ができます。

ただそんな事情、長男は分かりません。

頑張っても認められない。話をしっかり聞いても褒められない。声も掛けてくれない。そんな中で頑張り続けるのはなかなか大変です。

では逆に長男が声を掛けられる時はいつでしょう。

話を聞いていないとき。分からないとアピールするとき。忘れ物をしたとき。など。

そうです。望ましくない行動をするときなのです。

たかが声掛け。されど声掛け。取り立てて注目を集める行動をしない長男にとっては声掛けが自分の存在を分かってくれているという安心材料です。

声なき声をひろうために

自殺やいじめを防ぐために、学校や文科省は「相談しましょう」ということを言います。嫌なことがあったときに、「早めに言ってくれればいいのに」と言う人もいます。

ですが、先生に言える人ばかりではありません。恥ずかしがりだったり、悪いなって気を遣いすぎたりします。当然、障害ではありません。単なる個性です。個性だからこそ、配慮がされにくいのです。

長男は恥ずかしがりです。注目を浴びることをよしとしません。だから自分の考えをわざわざアピールすることはほとんどしません。とはいえ、思うところはあります。気付くことはあります。

声をあげない長男にも声は存在します。だからといって、声は発しません。そういう声なき声を聞こうとすることもインクルーシブ教育の一環ではないかと思うのです。

改めて書きます。一人一人ができること、できないことは違い、得意なこともあれば苦手なこともある。できないことや苦手なことは、できる人や得意な人が助けてあげればいいだけです。障害があるかないかで考えるのではなく、その人は何で困るのか、そのために何ができるのかを考えるだけなのではないか。

そんな格好よいセリフを言う私はできているかというと、もちろん完璧ではありません。日々心がけています。

マジョリティー社会ではマジョリティーであることに気付きにくい。声なき声もあるということを常に考えておかないと知らず知らずのマウントをとってしまうこともある。

インクルーシブ教育。奥が深いです。

優しい世界を目指して。

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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