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少年院卒が選んだ「働かない」生き方

私はお金を稼ぐという行為は好きでも、勤めるというのは好きじゃない。

一応バイトも会社員も経験したが、会社員は特に合わないと感じた。

毎日同じ時間に電車に乗り、同じ景色を見て、同じ人に会って、同じ業務に就く。

そんなことが数ヶ月も続くと「あれ?なんのために生きてるんだっけ?」と考えてしまう。

合わないことを無理に続けても1度の人生もったいないと思うので、迷わずフリーランスの道を選んだ。

今日はそんな話をつらつらと。


そもそもなぜ働かないといけないのか


人生で最初に就職と進学の選択に問われるのは、中学3年の頃だろう。

日本の義務教育は中学までだが、今はほとんどの子が高校へ進学する。

私の周りにも進学せず就職した子もいたし、海外の学校へ進学した子もいた。

私は母のために進学したが、高校時代の思い出はほとんどなくバイトばかりしていた。

そして大学へ行く気は一切なかったので、高校3年の頃には就職するのが当たり前だと思っていた。

だが、そもそもなぜ働かないといけないのか不思議で仕方なかった。

「最低限生活できるだけのお金を稼げるなら、バイトでもいいじゃん」

という考えがあったのだが、世間は正社員とやらにならないと認めてくれないらしい。

母にも高校の教師にもそう言われたが、世間に認めてもらう必要がよく分からなかったのだ。

とりあえず就職活動をしてみたけど、働く気がないのだから受かるわけがない。

就職氷河期だとかリーマンショックだとか適当に言い訳をして、高校卒業後もバイトを続けた。

そして逮捕、少年院送致となったのだが、少年院の刑務官と話していて私には夢がないと知った。

彼らには明確な「この仕事に就きたい」という思いがあったが、私にはそのような思いがない。

少年院の精神科医には「あなたは面倒見がいいから介護職に就くべき」と言われたが、人間の好き嫌いが激しい私には無理だろう。

これといった夢や目標もないまま出院し、今度はハローワークや保護司から「正規雇用に就け」と言われた。

「どうして私をそんなに働かせたいの?」

と思ったが、それが世間の普通で当たり前らしい。

「みんなそうしてる」

と言われても、だからなんだという感じでしかない。

そうして出院後も適当に食いつなぎ、今に至る。

世間や大人はこれといった根拠も理論もなく、みんなそうしてるからという意味不明な理由で子どもから選択肢を奪う。

働かずにお金を稼ぐ方法はあるし、正規雇用だけが仕事ではない。

いつまでそんな古い時代に生きているのかと思うが、10年前まではそれが当然と思われていたようだ。

なぜ働くかと聞かれれば、多くの人はお金を得るためだと答えるだろう。

しかし、働かずにお金を得る方法を考える人は少ない。

働く以外に選択肢はないと、子どものうちから洗脳されているからだ。

まずはそれを取っ払ってみてほしい。


働かずにお金を得る方法を考え続けた


私は若い頃から働かずにお金を得る方法ばかり考えてきた。

最初に思いついたのはマンションやアパートの家賃収入だけで暮らすことだったが、初期投資が膨大であることを理由に諦めた。

歌舞伎町のラブホテルは回転率が120%を超えるという話を聞いてから、都心のラブホテルを所有する夢はまだ捨てていない。

だが、それだけの資産を持つためには「まず」稼げる方法を考えなくてはいけない。

次に思いついたのが、懸賞と転売だ。

昔「電波少年」という番組で懸賞だけで生活するという企画をやっていたが、懸賞で当たったものを転売してお金に換えようと考えたのである。

しかし、私にはそういう「運」のようなものがなかった。

スクラッチも当たった試しがないし、年末ジャンボと呼んでいる有馬記念はほとんど馬の人参代になっている。

何百件と応募する労力に対して結果が付いてこないことを理由に、それも諦めた。

そして10年ほど前に、ライターという仕事を見つけたのだ。

当時は「文章を書くだけでお金がもらえる?!」と安易に飛びついたのだが、そう簡単に稼げるわけではなかった。

それでも楽したい一心で、クライアントの仕事を請け負いながらブログとアフェリエイトでどうにか食い繋いできた。

ある程度時間が経つと、アフェリエイトは放っておいてもお金が入るようになった。

遊べるお金は投資に回し、時々株を動かしている。

あとは本を読んだり映画を見たり昼寝をしたり…ほとんど毎日ボーッとしているだけだ。

フリーランス、個人事業主といえば聞こえはいいが、中身は無職と同等であろう。

だが、これが私の望んだ生活スタイルである。

週に5日、決まった場所へ決まった時間に出社する。

そもそもまともに学校に通うことすらできなかった人間に、そんな生活を何十年とさせようとすること自体が間違いではないだろうか。

チームワークも嫌い。

人間関係も面倒くさい。

上司だろうと社長だろうと忖度する意味が分からない。

相手を立てろとか空気を読めとか江戸時代の話でもしてるのだろうか。

人にはなんでも合う合わないがあるのだから、まず正規雇用一択の選択肢自体がおかしいのだ。

バイトも派遣もフリーランスも株で食べることも、お金を稼ぐ手段の選択としてあってもいいのではないだろうか。


世間体を大事にしたいなら一生そうしてればいい


私の親は50代だが、フリーランスとして働く娘の仕事を未だに怪しんでいる。

少年院を出るような娘だから怪しまれて当然かもしれないが、大卒で正社員として就職した妹に比べたらさぞかし心配だろう。

母は今でもよく言う。

「安定した仕事に就いて、安定した男の人と結婚したら?」

申し訳ないが、いくら親の頼みでもそれを聞く気はない。

私の父は一部上場企業に勤めていて、会社で母に知り合った。誰でも知っている有名企業だ。

だが、最後は1000万円の借金と2000万円分の家のローンを残して他の女と逃げていった。

それでも、一流企業の課長だったのだ。

母はそれでも安定した仕事と安定した男の人を求めてくるが、過去に学んでほしいというのが娘からの意見である。

私の母より上の世代は、特に世間体とやらを気にする。

誰にどう思われるかが重要なようだが、その誰かさんが私の人生の責任を取ってくれるわけではあるまい。

私と同世代や下の世代の子にも、世間体や人の目を気にする人はたくさんいるだろう。

「みんながそうしてるから私もそうしておこう」

妹もその流れで大学へ通い就職したが、結局精神病になってパート生活を送っている。

自分の望むことと違うことをすれば、どこかで無理が生じて当然ではないだろうか。

「本当はこうしたかった」

「でもみんながそうしてたから」

そんなことを言っていたが、そのみんなとやらは誰も妹の人生の責任など取らない。

「あなたが決めたことでしょう」

と返すと発狂されたのだが、逆ギレするなら人の意見など無視して自分のやりたいことをやるべきである。

私が28年生きてきて後悔していることは、たったひとつだけだ。

祖母と過ごした最後の時間、祖母は病室で「寝付くまでそばにいてほしい」と私に言った。

病院の入り口には迎えに来た母が待っていたし、時刻は23時過ぎだ。

翌日の用事を考えてしまい「また明日来るからね」とその場を後にした。

それが祖母との最後の会話になってしまった。

それだけだ。

それ以外のことは一切後悔していない。

最も大切な人のお願いを蔑ろにした自分を今でも許せないし、戻れるなら祖母の気が済むまで隣にいたい。

でももうそれが叶うことはない。

世間体を気にするあまり自分の思いを押し殺している人は、やり直しが効くとどこかで思っているのかもしれない。

それとも、みんながそうしてるから失敗などするわけがないと思っているのだろうか。

だが、人生でやり直しが効くことはとても少ない。

時間を巻き戻せない以上、今と同じスタートラインに立てる日は2度と来ないのだ。

そこまで考えても、人の言うことは大切だろうか。


働かないことで見える世界がある


私は働かない引きこもりだが、それはそれで世間を客観的に見ることができる。

まず、会社に文句を言っている人のほとんどは「他人のせいにして楽になろうとしている」だけだ。

ブラックだの無能上司だの、だったら辞めればいいのに、そういう人に限ってブツブツ言い訳を並べるのだ。

言い訳する暇があるなら、社長にも上司にも文句を言わせないほど結果を出せばいいだけではないだろうか。

それすら認めてくれない、横取りされる会社なら、そのことを転職先の会社にぶちまけてやればいい。

もしもあなたにそれだけの裁量があるなら、面倒を見てくれる賢い会社はいくらでもあるはずだ。

(失業保険という収入があるし、言い訳だけで仕事もできないなら転職先はないから勘違いしないように。)

私は若い頃から、良くも悪くもひとりでお金を稼いできた。

他人の顔色を伺う必要のない人生だったから、結果がどうであれその責任を負うのはいつでも自分だけだ。

お金を稼ぐことができなければ、それも全て自己責任。

開き直ってホームレスをしてみたり大金欲しさにキャバクラに勤めたり、はたまた着の身着のまま行ったこともない沖縄に移住したり、全て自分で選んで責任を取ってきた。

人は自由に動き回る私を見て「いいな」と言うが、そういう人に限って自分の人生を変えようとはしない。

それもその人の人生だからどうでもいいのだが、羨ましい気持ちを行動にしなければ死ぬのを待つだけだろう。

私は28歳にして、既に余生のような毎日を送っている。

ブログやnote、株など一通りのことを終わらせたら、あとは寝るまで好きなことをするだけだ。

一通りのことをしたくない日はやらないし、何日かやらなくても生活できる仕組みを構築してある。

なぜか。

働きたくないから。

曜日も時間も問わずに好きなタイミングで本を読みたいし映画を観たい。

仕事中だろうと誰と電話していようと、私は私の好きなときに好きな音楽を聴きたい。

毎日好きな服を着たいし、食べたいものを食べて飲みたいものを飲む。

私の生活に口を出されるのも御免だし、他人の物差しで私を測ってほしいなど頼んだ覚えもない。

人生を有意義にしようとか充実させたいと思うなら、まずはお金を稼ぐ方法を見直すべきだ。

時間は無限じゃない。

いつか死ぬのだから、迷っているうちに人生は終わってしまう。


誰かが決めたことになんの価値もない


私の従兄弟は一昨年社会人になったのだが、高校2年生のとき「プロゲーマーになる」と言っていた。

悩んだ両親は「卒業するまでに50万円貯めてみろ。実際に貯まったら応援する」と言ったそうだ。

でも従兄弟はラーメンとゲームが大好きで、バイト代のほとんどをラーメンとゲームに消費し、高校3年生になる頃にはプロゲーマーへの道を諦めた。

結局一般企業に就職したのだが、彼は先日会ったときこんなことを言っていた。

「うちの両親は真面目だからとりあえず親のために3年だけ働くよ。でもその後は〇〇(私)みたいに自由に生きたいな」

彼にとっての3年は社会経験であり親孝行だろう。

だが、その後は自分だけの人生だ。

親のために生きたところで親は自分より早く死に、これから先は親と過ごした時間より長い時間を他人と過ごすことになる。

人生を決めるのは彼だが、彼の言う「自由に生きたい」という気持ちはぜひ応援したい。

他人や世間の決めたことになんの価値もない。

幸せになれる正解などないし、安定した道などどこにもない。

勘違いさせる教育や風潮があってそう思い込んでいるだけだ。

自分がどんな風に生きて死にたいのか、それが最も価値のある選択基準だろう。


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