新渡戸稲造を育てた父と母
盛岡市にある古本店「pono-books」では、2023年から毎月1回程度、新渡戸基金理事長の藤井茂先生による、新渡戸稲造について気軽に学ぶ「新渡戸講座」が開催されており、2024年にはセカンドシーズンを迎えました。
このページでは、その「新渡戸講座」の内容を中心に、稲造についての情報を掲載し、少しでも稲造について知っていただければと思っています。前回、簡単に稲造についてご紹介していますので、ご興味のある方はそちらもご覧ください。
https://note.com/nitobekouza/n/nede26a1a9986
それでは、いよいよ今回から2024年の「新渡戸講座」の内容の一部を掲載します。
今回のテーマは「新渡戸稲造と父母」。
稲造の父親は、稲造が小さい頃に亡くなり、母親が偉人・稲造を育て上げました。そのため、母と稲造についてのエピソードが登場することは多いのですが、父親について語られることはあまり多くありません。普段あまり登場しない父親が中心となった今回のお話はとても貴重な内容です。
それでは「新渡戸稲造と父母」についてのお話です。
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新渡戸稲造の父・十次郎は、江戸時代が終わる約50年前の1820年に、花巻で生まれた盛岡藩士です。
亡くなったのは江戸時代の終わりの1867年で、47歳の時でした。
十次郎の性格は生真面目で厳しい面があり、議論好き。自信家でもあり、その自信が態度に出てしまい、他人からの恨みを買うこともあったようです。 十次郎には次のようなエピソードが残されています。
食事の際にお膳の上にホコリが載っており、十次郎がそのホコリを見て、使用人に向かって「こんなホコリが食えるか」と、お膳を突き返したとのこと。
この十次郎のエピソードは、稲造が使用人等に対しても温かい配慮を持って接していたというエピソードが残っていることと対照的です。
その一方で、十次郎は、剣術や柔術、弓術、馬術、和歌、漢詩、囲碁、生花など、様々な分野で秀でた能力を持ち、大変に優秀な人物でもありました。もしかすると、そのような高い能力を持っていたが故に、先に書いたような自信家としての態度を見せていたのかもしれません。
十次郎の父で、稲造の祖父にあたる傳は、十次郎の高い能力を褒める一方で、性格によって他人から恨みを買わなければよいが、と心配もしていたようです。
十次郎はその高い能力から、南部藩では留守居役という、藩主が不在時の代理のような役職として重用されました。南部利剛が藩主の時代です。しかし、同じ藩の他の重役からの恨みも買っていたようで、結果的に、足を引っ張られる形で、蟄居を命じられ、石高も取り上げられます。
蟄居中の十次郎には、ある程度の自由が許されていた様子もあるのですが、十次郎自身は10ヶ月余りの間、終日、家から出ずに端座し続け、その後亡くなってしまいます。そのため、「十次郎は自害した」、あるいは「狂ってしまった」などの噂もあったようです。しかし、稲造はこういった憶測に対し、「父親は自害したのではない」と記しています。
なお、十次郎が蟄居となる前の新渡戸家は100〜150石程度の石高で、当時の南部藩士としては、生活にもある程度の余裕があったようです。
稲造自身も自らの幼少時を振り返り、「比較的裕福で、食べるのに困ったことはない」と語っています。
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今回はこの辺で。
また次回に続きます。
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