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口が災い?新渡戸家の人々

盛岡市にある古本店「pono-books」では、2023年から毎月1回程度、新渡戸基金理事長の藤井茂先生による、新渡戸稲造について気軽に学ぶ「新渡戸講座」が開催されており、2024年にはセカンドシーズンを迎えました。

このページでは、その「新渡戸講座」の内容を中心に、稲造についての情報を掲載し、少しでも稲造について知っていただければと思っています。前回は「新渡戸稲造を育てた父と母」の講座内容の一部をご紹介していますので、ご興味のある方はそちらもご覧ください。

https://note.com/nitobekouza/n/ne9b3486fbaaf

今回も、前回に続き、「新渡戸稲造を育てた父と母」についての藤井茂先生のお話の一部をご紹介します。

完全な文字起こしではない、ざっくりした講座内容のご紹介ですので(聞き取り違いの可能性も有)、大目に見てくださいね。

それでは、講座内容です!

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新渡戸稲造の父である新渡戸十次郎が蟄居となった背景には、前に書いたような十次郎の性格的な問題以外に、別な理由もあるようです。

江戸時代の鎖国の時代、南部藩は北海道沿岸の一帯を、ロシアからの進出に備えて防備する役割を担っていました。この南部藩の状況は、薩摩藩や長州藩が鎖国の中でも海外に開かれた地理的条件にあり、その環境の中で海外から武力を調達し、それが討幕へとつながった状況とも似ています。

しかし、南部藩は、薩摩藩や長州藩と違い、幕府の命令に従順にロシアに対する防備を行っていました。この南部藩の姿勢に対し、十次郎は、仮想敵国であるはずのロシアと手を結び、南部藩内で生産される生糸で貿易を行おうと画策します。

この十次郎の姿勢が、蟄居の要因ではないかとも言われています。

また、そういったロシアとの貿易の問題が出る以前に、十次郎は、父である傳(稲造の祖父)と、現在の十和田市の開発にも取り組み成果を上げていました。その開発の際に、経費の一部を私的に流用したのではないか、という噂を立てられたこともあるようですが、こちらについての真偽ははっきりしません。なお、十和田開発の際に会計役を勤めていたのは、宮沢賢治の祖父である宮澤喜助でした。
 
十和田市の開拓は、稲造の祖父・傳の父である新渡戸維民(稲造の曽祖父)がきっかけでもあります。

維民が、藩の上司に対して行った意見が災いし、維民は青森の下北半島のあたりまで追放されます。追放によって花巻と下北半島を往来することとなった途中に十和田を通り、当時は未開発だった十和田一帯が持つ可能性に気づき、開発にアイディアを生み出したようです。

十次郎だけでなく、その祖父維民までも、藩内での意見が災いしたこととなりますが、十和田開発は成功し、この事業で傳や十次郎は評価されることとなります。

このように、新渡戸家の人々には先見の明があったようで、稲造が英語を学んで世界へ羽ばたいていったことも、新渡戸家の人々が持つ先見の明を受け継いでいるのかもしれません。加えて、新渡戸家に出入りしていた人達からも、東京などの情報が入っていたようで、稲造の母も、先進的な考え方を持っていました。

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