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ジェイラボワークショップ第73回『表・現・研』【文化表現研究部】[20240715-0728]

1日目

にしむらもとい

文化表現研究部(表現研)の部長として(はご無沙汰しておりますが)、ご挨拶いたします。西村です。

最近、某格ゲーばっかりやっている西村ですが、一応これには理由があり、それも含めてこのWS期間にいろいろお話しできればと思っております。表現研は運営部活動として設定されていますが、一体何を目的として活動しているのか、あまり伝わっていないと思います。そもそもジェイラボは、僕の思想に親和性の高い人々が集い、対外的な発信力を身につけつつ(ここは皆さんが考えているよりずっと重要な要素です)、そして、オンラインから始まりながら「家族」とも感じられる程度の関係性でつながったコミュニティにしてゆく、ということを想定して作られました。設立以来、なんだかんだで人が減りながらも、現状20人程度のメンバーが残ってくれており、この一年そのメンバーで過ごしてゆけることは嬉しく思っております。ただ、僕の想定としては、ジェイラボはあくまで「関係性の積み重ねの結果」として心地よく過ごせる場であり、最初から心地よく過ごすことを目的とした場ではないということ、それも伝えておきたい。これまで強調してきませんでしたが、ジェイラボも成熟期を迎えたように思いますので、敢えて強調しておきます。書評を書くというタスクを課したり、部活動というコミュニティ内コミュニティを作ってみたりしているのも、全て「関係性を積み重ねる」ためであり、少なくとも僕の側からするとそれを継続してもらうことが皆さんへのある種の信用を育てるきっかけになっています。

そんな中で、運営側の人間として今年度僕が直接かかわっている部活動は未来部と表現研の二つですが、これらは表裏一体の活動になっています。未来部では実際に表現物を制作してみるという表現者サイドの活動を行なっており、一方表現研では表現物、表現そのものについて考えるという評論家サイドの活動を行なうことを想定しています。現状、ゲームばっかりしていて何をしているのかと思われていると思います。活動に参加してくれている表現研部員も「なんでやろか」と思いながら付き合ってくれている部分もあろうと思います。その辺の話と、合わせて、そもそも表現について考えること、そこにアンテナを張ることの意義みたいなものも、伝えられたら良いなと思っております。

以上は、部長としての西村の話。部員の皆さんにはまた別な角度から表現についてお話ししてもらうようお願いしています。この二週間、いろいろな角度から表現というものについて考えてもらいつつ、ジェイラボというコミュニティの意義、およびジェイラボに参加している自分との関連についても改めて考えてもらえたら嬉しく思います。よろしくお付き合いください。

本日はご挨拶だけになります。以下が本WSの簡単なスケジュールとなります。

表現研ワークショップスケジュール
0715月 全員投稿 開会宣言 - ご挨拶とスケジュールの案内
0716火 西村投稿 表現と表現の場について
0717水 西村投稿 場と共有の塗りつぶし
0718木 西住投稿 書き手から見た表現1
0719金 西住投稿 書き手から見た表現2
0720土 シト投稿 教育現場における表現例1
0721日 21時座談会
0722月 西村アンケート
0723火 西住アンケート
0724水 シトアンケート
0725木 西村投稿 eスポーツとテレビゲーム、コミュニケーションの未来
0726金 西住投稿 書き手から見た表現3
0727土 シト投稿 教育現場における表現例2
0728日 全員投稿 閉会宣言 + 西村投稿 まとめ

西住

部員の西住です。今回のWSではひたすらnoteを書き続けた体験を書き手から見た表現として語ろうと思います。

表現研の活動内容について少し触れると、上述のようにスト6という格ゲーをやっています。今の時代の表現、ひいてはコンテンツは、シェア性が全てであるという流れが出来つつあります。自分は流行ってるから何かをやるという発想が全くありませんでした。どんなに流行ってるものでも、やってつまらなければ即放棄、面白ければやる、という感じです。おそらくもはやそんな時代ではないのでしょう。流行っていなければ価値がないとすら言えるのかもしれません。シェア性が全てだということは、シェア性に乗っかれない人は地獄を見る世界とも言い換えられます。現に私はスト6という格ゲーに全く乗っかれずに地獄を見ている最中です。ならやるなよという話ですが、シェア性に乗っかれない人間は、今後の世界をひとつも見ることが出来ないのかもしれないなどと思いつつ、全力でスト6に向き合っている日々です。

2週間よろしくお願いします。

シト

部員のシトです。

表現研の活動としては、アニメ鑑賞とスト6をやっています。アニメ鑑賞に関しては、最近ジョジョ5部まで、ガンダムdestinyを見ました。スト6は、休暇などにちょっとずつ触っています。現在、仕事に脳みそがほとんど割かれてしまっているため、あいまに見れるアニメがメインになっていますが、めちゃくちゃ高いコントローラーを買ったので、そろそろスト6に力を入れたいなと思っています。WSでは、教員になってから改めて考える「教育の表現としての授業とはどうあるべきか」といったことを書けたらいいなと思っています。

2週間よろしくお願いいたします。

2日目

にしむらもとい

僕の投稿に関しては、基本的に長文になるのでnote記事にして投稿していこうと思います。過去に表現研としてお話したことのある内容も含んでいますが、とりあえずスタートラインのお話をさせてもらいました

Hiroto

表現論。誤用と言い切ることのできない、自然言語でできるギリギリのうまい言い回し(表現!)だと思いました。発狂はしました。僕が自然言語で表現するとしても同じような感じか、より的を射ていない感じになると思います。一般書を書く数学者、発狂しまくりながら書いているんだろうなぁ。

にしむらもとい

昔「表現論」という言葉を聞いて、まあ「表象文化論」の親戚みたいなもんだろうと思っていたら全然違くてなんじゃこりゃと思った時の記憶をもとにイメージを書きました。正直、誤用と指摘されても誤用している側の僕は気にならないんですが(すいません)、たぶん発狂する人が出てくるだろうと思って一応あらかじめ譲歩はしておきましたw 自然言語で数学のことを語るのは、何もわからないのに想像で英語を日本語に通訳するコントのような行為なので、訳した結果側の日本語がまともならそれでええやんという気持ちもあります。正確な訳になってなくてもその場がうまく収まっていれば、それも通訳として認めてええんやないか。というのは大袈裟ですが、異なる言語体系が重なる時、意味が正確に置き換えられることはもちろん大局において長い目で見た時に重要ですが、細かなシチュエーションにおいては、別に正確性だけが重要でもないように思います。英語だって文化の違いによって直訳の日本語だと全く伝わらない表現もあるでしょうし、正確に訳してわけわからんくなるくらいなら、その場にあってそうな完全に違う日本語に置き換えて通訳してもそれほどの罪ではない気がします。それにしても、一度数学を学んでしまうとその辺の匙加減の意識が本当に難しくなるんだろうなと思います。

3日目

にしむらもとい

昨日の続き。強い主張の弱い表現。

4日目

西住

note選手なのでnote記事にして投下します。主にここ1年で書いた二つのマガジンについて書き手としての視点から語りたいと思います。

5日目

西住

その2

6日目

シト

こんにちは
シトです。
本日は、教育の表現としての授業とはどうあるべきかについて書くために、教育の表現についてまず書いていこうと思います。

教員になって1学期を無事(?)終えることができました。
これまで、どんなことを言われようと論理を追っていくことを第一優先として授業をしてきました。そのようなことを長い期間やってきたこともあってか、論理的に読むをちょっとは意識させることができました。

授業の後に質問を受けたり、話を聞いたりするのですが、「解説を受けるとわかるけど、実際に自分では論理的に読むことができない」であったり「時間が足りない」などと言った話をよく聞きます。
つまり、論理的に読めていないということです。
厄介なことに、論理的に読めているかどうかは自分ではなかなか気づけないので、このようなことになってしまいます。

論理とは何か。それはフィルターです。
対象となる要素同士の決まった関係性を重視する態度です。
たとえば、名探偵コナンを見る際に、コナン君と同じ程度考えながら、見ている人はいないでしょう。恋愛経験が浅く、勘違いをしている男子大学生でも、冷静に考えれば「俺以外の他の男にも同じようなことやっているじゃないか。くそが。」となるわけです。つまり、オンオフできるということです。

さて、最初らへんで書いた内容に戻りますが、「解説を受けるとわかる」というのは当たり前のことです。先ほどの例を使うなら、見ている我々の方がコナンよりも状況を分かっていますよね。なぜなら、犯人や謎をコナンより先に見ているからです。恋愛経験が浅い大学生も、周囲の女性から「あの子、あなたに興味あるんだってよ。」と言われたら、アタックするはずです。つまり、関係性が分かった状況におかれて、分かるというのは、当たり前だということです。必要なのは、「気づかないものに気づき、それを含めて見えない関係性を見出し、一つのまとまった意味のある推理を導き出す」ことです。

もう、どうすれば良いかはわかるでしょう。「要素に気づき、関係性を見出す練習」をすればいいのです。それを僕は教育でやっています。学校という場でやる場合、一緒に論理的に読む練習ができるので、「なぜ、そこに気づけたか」を生徒が聞くことができるため上達が早いからです。これをする場合、非常につまらないものになります。「当たり前のことに気づく」ことをするため、授業自体が「当たり前のことしか解説しない」からです。しかし、これが教育です。それを踏まえずに、面白い授業をしたいだとか、楽しい授業をしたいのだとかを語っても意味がありません。教育の表現とは、その教える内容の本質を踏まえたうえで、やることであり、それが先行するようなものはお遊びでしかありません。

以上のことを前提に、次は、授業とはどうあるべきかを書いていきたいと思います。例なども挙げる予定です。
では、また。

蜆一朗@老害

教育の話になると出てくる蜆です。

 シト君がやりたい授業の思想にはとても共感します。未来部の活動履歴のところにも同じコメントをしたんですが、日本語でも英語でも、日常生活で必要になるレベルの読み書きに必要な言語能力は小学校までで身につけるものであり、中学以降では抽象化を用いたより深い思考をするための発展的な言語能力を鍛えるべきだと思っています。かつての英語を中学から学び始めるカリキュラムはそのことを念頭に置いたものであったと思います。

 ただ、コロナの影響や学力低下の問題もあり「日常生活で必要になるレベルの読み書きに必要な言語能力」をちゃんと身につけている高校生はごく少数なのが現実です。僕の感覚でいうと、たぶん偏差値が65くらいある高校であっても、半数以上の子はその能力が身についていないと思います。指導者側が想定する「基本」というのは、生徒たちにとってはそれぐらいにハイレベルなものです。ましてやシト君が所属している高校でその能力を養う授業をやろうとすると、苦労は並大抵なものではないと思います。同僚なんかには「そういう授業がしたいなら予備校に行けば?」とか言われたりするかもしれませんね。

 ただ、だからといって生徒たちの現状に阿るようなことはしてほしくないと思います。論理的な手続きをちゃんと踏んで文章を読める能力は、(そういう状況に置かれていると気づくことも含めて)理不尽に抗議したり搾取から逃れたりするために必要であり、むしろシト君が属している学校の生徒たちにこそ身につけてほしい能力だと思います。「高校のレベルを見てもっと基本的なことを」とか「日常生活との結びつき重視・コミュニケーション重視」とかいうのは、誤解を恐れずストレートにいうと「ちゃんとした学びはバカには難しいだろうからこれでもやっとけ」とほぼ同義です。バカをバカのままにしておいていいというのでは公教育が存在する意味がありません。シト君にはどうかへこたれず方針を曲げずに突っ走っていってほしいと思います。

8日目

にしむらもとい

アナログな体験とデジタルな体験。僕が何度も使い古した話題ですが、ジェイラボ内ですら実際のところアナログな体験に価値を置く皆さんが多いように感じます。紙で本を読む、実際に映画館に足を運んで映画を観る、そういったものにアナログ的価値観を置いている方が多いと思いますが、よく考えると、紙で本を読むのも映画館で映画を観るのも、真にアナログな表現しかなかった時代からすると十分にデジタルな体験と言える気がします。しかし、そうした前時代的「デジタル」も当時においては十分に「アナログ」価値観を塗りつぶしていたわけです。つまり、真にアナログな体験だとか、ちょっとアナログな体験というのも今後消え去ることはなく一定の価値を残すことは譲歩したとしても、大勢としてはほとんどがいま「デジタル」と呼ばれている体験に置換されてゆくのもまた時間の問題だと思います。つまり、それを認められないことは新しい価値観への不適合でしかない。昨日座談会で話題に上がった"BeReal"というアプリ、これも話を聞くと真っ当な大人からしたら「危険」極まりないものに思えますし、以前僕がかなり批判的な立場を示した"TikTok"も普通に若者の間では地位を確立しています。これらは、もちろんまだ過渡的な価値観の表出でしかなく未来を明確に示すものとは限りませんが、そのヒントにはなるはずで無視して済ませれば良いものでもないでしょう。無視、というのはただ自分に合わないとか嫌いとかいう態度を示すだけで文句すら言わない人たちのことです。老害というワードも出ていましたが、老害とは旧世界の住人として新しい価値観に立ちはだかって障害になる人のことであり、ただ距離を取るだけの人は老害ですらありません。僕がジェイラボの皆さんにアウトプットすることの重要性をひたすら繰り返しているのは、ただ距離を取るだけの人であってほしくないからです。自分の身に危険が及ばないよう、見たくないものにふたをして生きていくというのも一つの生き方ですが、それは僕がジェイラボで共有したい生き方ではありません。もっとも、そもそも自身の趣味や研究にのみ没頭していて、見たくないものにふたをするどころかそもそもそれ以外を「見てすらいない」という人もここには多くいそうです。現代において、「故きを温ねて新しきを知る」ことはなかなか難しいように思います。学びが抽象、記号の世界である程度閉じていた時代ならそれも可能だったと思いますが、あらゆる可能性が具体的に並列化されている現代において、故きを温ねることは思考のスタートラインにしかなりません。どちらかというと、「新しきを温ねて故きを知る」という順番の方が現代にあっている気すらします。唯脳論も、脳そのものをベースにいちいち適用を考えるより脳の外部化の側からさかのぼった方が話が早い。新しいものにたくさん触れ必要に応じて昔の物事との関連を調べて価値観を固める。それがいまの僕の行動原理の根っこにあるものです。

さて、本日はアンケートをとって(相互にコミュニケーションをして)みようという設定日なので少し質問を置いておきます。質問の回答は最終日まで受け付けます。

【ニシムラ質問】
アナログとデジタルのどちらが良いという話をしだすと似たような話になると思いますので、良さの話はいったん保留しましょう。
「そもそも皆さんにとってアナログとデジタルの定義とは何か」
を聞いてみたく思います。厳密なものでも浅瀬でちゃぷちゃぷしたものでも、あるいは定義から離れて具体例の列挙でも構いません。むしろ、浅い方が西村の参考になる可能性があります。というわけで、何か書いてみてもらえたら西村が喜びます

Hiroto

・本物=現実=アナログ
・偽物=再現物=虚構=デジタル
みたいな対応で自分は捉えている気がします。決して離散/連続という元の定義ではなく、です。いちいちそれがつながっているかバラバラなのかという軸で見てアナログかデジタルか判定しているというのは実情に反しています。
対象を現実(一次的なもの)と捉えるか、何かの再現(二次以上のもの)と捉えるかはケースバイケースなので、状況と切り離されたアナログ/デジタルは考えられません。

本とか映画館とかがアナログに感じるのは、何かの再現と思うよりも触覚等による本物性を強く感じているときで、逆にそれらをデジタルと捉えるのは、それらが何かの再現であるということを強く強調するときです。

古いものは、それに慣れ親しんでしまうことによって何かの再現であることを忘れてしまいます。だからアナログと思いがち。新しいものは、それを既存のものとの同一性/差異で捉えようとするため、それを捉えるためにまず他の“本物”を経由します。だからデジタルと思いがち。自分の中で決して新しさとデジタル性は等価ではないですが、類似性は強く感じます。

再現を再現と思わぬようになる流れは止められないため、僕の定義上では全てがデジタルになるどころか、全てが慣れによってアナログになっていく、という感覚です。そしてまた新たなデジタルがそれらをフリにして生まれてくるのだと思います。 (編集済)

蜆一朗@老害

普段モノを「アナログ」「デジタル」という目で見ることがなく、正直なんなのかすらわかっていません。アナログが好きでデジタルが苦手みたいな感覚もないです。

9日目

西住

ジェイラボという場は大なり小なり西村基ファンの集まりなわけですが、西村的にはかなりの意義を持っていると思しき表現研の活動に関しては、その意義がおそらく1ミリも伝わっておらず、参加者がほぼ皆無なところは、若干不思議に感じています。この伝わらなさの原因が本人側にあるのか、メンバー側にあるのか、両方にあるのか、何をどうやっても伝わらないのか、それとも時が経てばわかるのかはわかりません。伝わる方がいいのかもわかりません。興味がないもの、嫌いなものを大量に摂取するのは、普通の考えではないので、参加者がいないのは普通の話ではありますが、平均値から大幅に外れたような人材が集まっているこの空間でも、そこは普通の話に収束するんだ、とも思います。人生が何かの目的に沿って進んでいる間は、どうやっても理解され得ない活動ではありそうです。

ところで自分は今、クソゲーだと感じている、とあるゲーム(編集者注:最初に挙げたゲームではない)を、時間を割いてやっています。つまらないので、本気でブチ切れながらやっているわけですが、感情を発露させることは表現において非常に重要なことだと感じています。最近のキーワードであるシェア性も、人に注目してみると、感情表現の豊かさに依っている部分は大きそうです。配信者でもVtuberでも、人気がある人は、ほとんど例外なく感情表現が巧みな人物であるように思います。書き手としての表現を考えた時も、感情表現の豊かさは、伝える力に作用する部分は大きいのではないでしょうか。

そこでアンケートです。

ジェイラボの皆さんが本気でブチ切れた体験を教えてください。

蜆一朗@老害

妹にポケモンを貸して、マスターボールでケムッソを捕まえられたときは怒りました。

Hiroto

最近だと、ゴミ箱からゴミ袋がなかなか出せなくて、ブチギレて全部生ゴミぶちまけて二日間くらい腐臭の中で暮らしたことはありました。 (編集済)

Yujin

一昨年、恋煩いが突然イライラに変わってボールペンをへし折りました

Hiroto

物にキレるか人(人も物質みたいな主張は置いといて)にキレるか、最近僕が注目しているところだったりします。僕は人に恵まれているのかわかりませんが、最近は物にしか本気でキレてないです。

imadon2478

素朴な言語感覚としては、情報量が多ければ多いほどアナログに近く、少ければ少ないほど(削ぎ落とされているほど)デジタルに近いと感じます。
ただ、情報量の多寡という相対的な尺度をどのように用いているのかといえば、それは変化の過程によってでしかないだろうなと思います。
本の例でいえば技術革新による紙の本→電子書籍への変化です。
なので僕は大なり小なりオリジナル←→コピーという粗雑な二項対立でそれらを峻別しているのかもしれません。

また、情報が削ぎ落とされるといったときに「誰に」削ぎ落とされるのかというのも重要な点だと思います。「〜される」という受動態の文法ではその行為者は自分でないことが多い(例外は思いつかない)ので、そのものが他者の手によってどれだけ加工されているのかというのもデジタル-アナログの違いに関係しているような気がします。 (編集済)

imadon2478

親と口喧嘩するときは本気でブチ切れていると思います。「話し合う」上で必要な前提を共有できないか、あるいは前提を共有する必要性そのものを理解してくれないときには本当にイライラします。
とは言っても大声を出したりものを破壊したりしたことはなく、しんどくなって部屋に逃げ込むことが多いです。

inseki777

自分は、自分の手元にあるという感覚が持てるものがアナログで、自分の手を離れて存在していると感じるものをデジタルと考えがちと思っています。

ゲームのラグなどの自分が絶対にコントロールできない事態が起こった時にブチギレることがあるように思います。
「自分の落ち度がある程度あるか」と考えられるものについては、怒りの矛先が最終的に自分の中に収束していくのでイラっとしてもブチギレまでいかないような感じです。

あんまん

怒ったことないです

10日目

||: けろたん

しょっちゅう家族にブチ切れられていますが、自分ではあまりブチ切れていません。
怒りと行動が連結されないように、怒るようなことが発生しても何かしらの行動に起こさないというのは心がけているかもしれません。

Yuta

デジタル・アナログは僕のイメージを羅列しますが…
デジタル→再現性高い、線形、非現実、脳
アナログ→再現性低い、非線形、現実、身体
思いつくのはこのぐらいでした。

講義中私語をする連中によくブチギレています。突然その人たちに大声で罵声を、というわけにもいかないので、発散することはないです。よくないものが溜まっていってる気がします。

||: けろたん

アナログ:毛が何本あるか
デジタル:育毛剤を使うか、使わないか
アナログ:育毛剤を頭をふりかける

比例関係が成り立つ事が多い(人間が認識するレイヤーの)物理世界に対して、デジタルな意思決定を行うための世界把握の方法論として、デジタルな情報処理が必要なのだと思います。

あえて、「(人間が認識するレイヤーの)物理世界」と書いたのは、原子論的な世界観のほうが有効なスケールがあるということは (ある時代以降の物理学の成果によって)事実として認めてよさそうだ、ということを考慮しています。

また、ここでの、「情報処理」の対義語は「知覚」、「運動」です。(養老孟司の「脳(神経系的情報系)」と身体に対応)、脳が生化学的な装置でありながらデジタルな処理が可能なのは、直接的には神経細胞がデジタル回路を直接模倣できることによります。(神経回路より小さいスケールの情報処理でのデジタル性を担保するのは何なのでしょうか。化学反応にある種の「ムラ」があるとかでしょうか。)

以上をまとめると、アナログとデジタルの定義の問題は、歴史の問題として捉えれば、生物が、アナログな情報処理でデジタルな情報処理を模倣(エミュレート)する脳を発明するまでに、(単に自己増殖する分子の集まりが人間ぐらいの大きさの個体になるまでのスケールアップを通して)生物における情報処理にどのような紆余曲折があったのか、という進化の問題に展開することもできると思います。

一方、構造の問題として本質的なのは、デジタルな状処理とアナログな情報処理の間には必ず、D/Aコンバーター(運動系)、またはA/Dコンバーター(知覚系)が必要であるということだと思います。工学的には脳をコンピュータをつなげたりコンバーターを高性能にする努力が行われているのだと認識しています。

おまけ:
デジタル=コピーが容易、という認識はあくまで「容易」であって、「完璧」ではありません。デジタルコンピュータであってもコンピュータが現実のものである限りコピーミスが起きます。(人間が写本を作るのよりも間違いが少ないから、人間ではなく機械のコンピュータにやらせている )
「比例関係が成り立つことが多い物理世界」は本当か?唯脳論的には、座標と地図が脳の機能であるそうだ。幾何的な比例関係を扱う能力は脳に埋め込まれると仮定して、時間的な比例はどのように扱っているのか。聴覚のなにかは対数スケールだと聞いたことがある。これは、人間の時間認識が正比例ではなく対数スケールであることを示唆しないか?人間の器官からチェリーピックしていないでもなさそうなので眉唾か。そもそも比例以外の現象はどのように認識しているのだろうか?これ如何によっては、比例以外を扱えないことを迂回できる。例えば、人間の身の回りの程度のもの速度やものであれば正比例で近似しきれる、あるいは正比例の組み合わせて扱い切れるとしてみるなど。
前提として書いていないけど書くべきこととして、デジタル・アナログは、対象それ自体ではなく、対象を情報化するときの形式であること。情報はものの依代、ミニチュアといってもいい。(演習問題:「アナログ」レコードがなぜそう呼ばれているのか。アナログレコードとCDがどのように情報を保存し、再生するのか。)(我々の現実世界ではたまたまデジタルコンピュータが発明されたので、デジタルなもの = デジタルコンピュータに載っているもの、という共通認識が醸成されている。「コピー」についての一般的な認識のように、アナログ/デジタルの特性だと思われているものには、その実現である脳、またはコンピュータの制約に起因するものがあることには注意が必要。たとえば、サイバネティクス的な議論や、デジタルによるアナログ、アナログによるデジタルのエミュレーションを扱う場合がそうだろう。)
生物の情報処理機構の複雑化は、説明のための理屈に、究極要因として「生存のため」を用いることができる。一方で、いまやある観点では人間の処理能力を圧倒するコンピュータは自己増殖の動機を持たない。本当にそう言い切ってよいのか(コンピュータミトコンドリア説)

感想:
全体的に超絶養老孟司な感じになりました。昔どこかで所長が「唯毛論」と書いていたので「毛量孟司」とコメントした記憶があります。伏線回収できてスッキリしております。(もしかしたら所長が毛量孟司とつぶやき、自分が唯毛論と言ったかもしれません。取り違えてたらすみません。)
(ついでに言うと、高校理科のつまみ食いと、養老孟司と、教養のコンピュータサイエンスの語彙で結構面白いことが言えた気がすることにかなり満足しています。まだまだ粗がありますが、問いを与えていただいた所長と僕の前に回答していただいた皆さんありがとうございます。) (編集済)

匿名希望

自分にとって,

アナログとは,
現代から過去に遡って考えてみると,労力を要していたなと感じるもので,

デジタルとは,
上記の逆.

と捉えています.

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2306/16/news178.html
デジタル・アナログと聞くと,真っ先に,この漫画が浮かびます.

また,確かに,言われてみれば,
・本物=現実=アナログ
・偽物=再現物=虚構=デジタル
もしっくり気ます.

デジタル・アナログの定義が,どの文脈で用いられているかにもよる気がしていますが,
アナログ{値, 空間, ...}を近似したものが,デジタル,とも考えられる気がします.

例えば,映画を見に行くことについて,
映画館すらなかった時代→映画館ができて,映画を見に行けるようになった時代
を切り取って考えてみると,
・映画館すらなかった時代 = アナログ
・映画を見に行けるようになった時代 = デジタル
という構図になり,
映画館すらなかった時代だと,自分が触れる場面は,自分がその場で体感・遭遇することで見て,自分の経験として得ていく.
というのが,
映画館ができた時代だと,映画館に行くことで,映画館が無かった時代だと,自分がその場で体感・遭遇することでしか得られなかった経験を,映像という手段を用いて,自分がこれまでに遭遇してこなかったような場面を遭遇し,自分の中にストックしていける,と考えると,それは,実際に状況に遭遇して経験値を蓄積していくこと(=アナログ)を近似したものなのかな,
と考えられると思っています.

このように,

"アナログ{値, 空間, ...}→<近似処理>→デジタル"

(デジタルが分かっていて,それのアナログを考える場合は,今,得ているものが,近似処理された答えであり,何を?どのように?近似されたものなのか?と考えると答えが出そうな気がしています.ただ,その場合,近似処理された理由や背景を考えるには,ある程度の周辺知識が必要な気がしています.背景を考える際は,まずは,仮説を立てスモールステップを設定し,それに対して検証する,を繰り返して,探ったらできそうな気がしています.)

と考えると,{}内の要素を様々なもので置き換え,当てはめることで,
様々な場面に当てはまめることができそうな気がしています.
ITmedia NEWS
「AIが出てきた今とリンクする」 昭和20年代の“計算手”を描いたマンガ「続く道 花の跡」が話題に
「少年ジャンプ+」で6月16日に掲載された、ななせ悠氏作の読み切り漫画「続く道 花の跡」がTwitterなどで話題となっている。

シト

こんばんは。前回は、教育の表現について、論理が大切だということを書きました。昨日、模擬授業をして協議するという研修に行ってきました。名門校から僕の勤務先である底辺までとひどい割り振りでした。上位帯はほぼ英語で授業をしていて様々な活動をしていました。やはり、このようなものがメジャーなんだなと再確認できた研修でした。

いっぱいコミュニケーションを取るであったり、この学校の生徒はこういうのを求めているからこういうことをしてあげようだとか様々でした。そんな中で、僕は定められた手続きをただただ生徒と苦しみながらやるという模擬としてできないものを展開していきました。そもそも苦しむことはダメであり、文法そのものの話にフォーカスされて協議されました。やはり、僕は教育においておかしいのでしょう。

そこでアンケートです。
ジェイラボにいる人たちは、大学以前でどのような授業を受けましたか。
①英語の授業②ここで紹介したい科目の授業
以上の2つを教えてください。

Hiroto


高校について話すと、意外と淡々だったかもです。コミュの方は結構面白に振っていたような気もします。進学校だったので、みんな好きなように勉強してました。映画見たりもしました。悪い印象はないです。

高校地学
どうせ受験で使わんやろ?みたいな感じで、かなり冒険的な授業だったと記憶しています。そもそもの科学の方法論とかプレゼン練習とか、そういうのいっぱいやった記憶。おもろかったです。

11日目

蜆一朗@老害

中学以前の授業は大半が崩壊していたので、高校の頃だけ何とか思い出してみます。

① リーディングもライティングも、教科書を予習してきて、その解説をしたり音読をしたりする、というごく普通の授業だったと思います。3年生のときにはチームに分かれて英語でプレゼンするみたいな授業があった気がしますが、ほとんどサボっていました。個人的には若く時間があるときにこそ知識を詰め込むべきだと思っています。

② 基本的にやりたいようにやっていたので、この授業のおかげで成績が伸びた、みたいな経験がありません。定期試験とか受験のためとかそういう短期的な目標を超えて、大学以降の学びとか社会に出てからどうみたいなことを言う先生もいた記憶がありません。

一応僕の母校はSSH(スーパーサイエンスハイスクール)みたいなのに指定されていたので、理系の子は特別探求で実験をしたり発表をしたりしていたようですが、文系はそれらしい活動がありませんでした。彼らがSSHっぽいことをしている時間に、文系はただ読書をするだけでしたね。そこで岩波文庫とか源氏物語とか論語とかを乱読したのが一番楽しかったかもしれません。

||: けろたん

英語の授業について
高校の英語の授業で記憶に残っているものは、教師自作の英文法のクイズやる、教科書本文を読んで当てられた人が訳をつくる、の2つです。
生徒全員にipadが配布されていたので、時折、投票アプリのしくみを使ったクイズ大会がありました。当時はあんまり効率よくないなーと思っていただけでしたが、今になってみればワイワイ感重視の活動の一つ別だったと思います。
ほかにはALTの講師が来て何かやっていた気もしますが覚えていません。

その他の授業について
数学は、授業は演習問題を解きつつの教師への質問タイムでした。講義は事前に動画として配布されていたと思います。いわゆる反転学習というやつでしょうか。
学習効果が高いのはわからないところをわかるようにするところであって、そのためには教師はリソースを質問応答に割くほうが良い、という理屈は一応理解していました。教師のことをサボっているという生徒もいたのは覚えています。

他には、癌から復帰した体育の教師がポロッといいことを言ったことを、深いなと思いながら聞いた記憶があります。

こがわ@ラムネ

連続と離散という意味でアナログとデジタルという言葉を使っているのではないのだろうということを前提に記述します。
おおざっぱですが、「身体で感じている」と思えばアナログ、そう思えなければデジタルという感覚です。たとえば人と話す状況を考えます。直接会って話すことはアナログです。電話やアプリで話すのは電話(や電子機器)を介したものではありますが、どちらかといえばアナログです。
上記のように考えると、自分にとってデジタル要素の強い体験はほとんどないかもしれません。

こがわ@ラムネ

小学校でズボンとパンツを下ろされたとき、頭に血が上って激怒したと思います。自分にはそのような性質があるため、何かあれば突発的に殺人する可能性が十分に考えられます。

こがわ@ラムネ

①英語の授業
特筆すべきものはないと思います。授業全体が英語で進むようなこともなかったです。
②その他の授業
高校の音楽の授業で、毎回クラシック2曲の冒頭を聴くというものがありました。期末に、取り上げられたクラシックの曲を聴きなおして曲名を当てるという超難関テストがありました。テスト前に聴きなおしておけば容易かもしれませんが、授業の記憶だけに頼るとかなり厳しかったです。

||: けろたん

YouTubeに動画を投稿し始めて、Twitterでいいねを稼ぐのとYouTubeで再生数を稼ぐのは投稿者心理としては似ているものがあるなと思いました。投稿者向けコンソールのつくりも色々凝っていて、プラットフォームビジネスにおいて発信側、受信側どちらであってもユーザーは客ではなく商品である、というのが体感的に理解できました。
「アウトプットすることの重要性」にはこういうことも含まれるのかなと思っています。

個人的な話になりますが、自分はデジタルコンテンツに中毒になりやすい質なので各種中毒コンテンツを開発する企業がやっていることは社会的にいかがなものかと思っています。そのためIT産業を仕事にしていいものか迷っていたのですが、特に答えも出ないので働くことにしたという経緯があります。

にしむらもとい

準備していた素材がこちらの手違いで消えてしまい、本日投稿分の内容がちょっと間に合わない可能性があります。明朝までには復元して投稿しますのでお許しください。
追記
もうちょっとかかりそう。予定があって昼間作業できないんですが一日遅れ以内には出します。 (編集済)

12日目

シト

①自分もそんな感じでした。英語表現がバリバリの文法授業で、英コミは面白でした。勉強は勝手にするので、何か考えさせるような授業ではない限り、好き勝手にやりますよね。

②受験から離れるとこういうのできるのでいいですよね。今の職場は冒険していいと思うので、硬く考えないでもいいところはそういうふうにしていきたいです。

シト

①全体的に言うならば、僕も詰め込むべきだと思っています。ただ、それは次の段階の行為をする際に必要だからという前提があることを意識してやる必要があります。教育を代表する学校が教育とは何かを忘れているのではないかと最近は思っていて怖いですね。

②国が理系推しというのもあって、理系にはそういう特別なカリキュラムがありますよね。文系にもそのようなカリキュラムを作るとなるとおもしろそうだなと思います。基本的に僕はやりたいようにやれと思っています。今色々と管理しているのは、僕がやっていることが教育だからです。この学校ではなかったら、やっていません。自由進度で僕はただただサポートする。それで高校はいいと思っています。

匿名希望

①英語の授業
河合塾での授業(久末厚夫)
・講義内容を伝えるためのたとえ話で繰り出される,腹筋崩壊モノの実話(あるいは作り話),
・講義内容を説明したついでに,ああそういえばこういうことがあった,みたいな感じで,繰り出される腹筋崩壊モノの雑談.

表に出せる話や,普通は暴露しない裏話(卑しい,という単語を教えた後に,講師の中には,昼飯を河合塾から出させるために,昼を挟むために,わざと11時から会議を始めるやつがいる,こういうのが〇〇っていう単語の意味や,的な))

・生徒の記憶に残すための,講義中の極端な発言(O=Cはゴミ・カス・犯罪,◯すぞ!,◯ね!etc...)

高校の英語の授業
・文法の用語をあまり教えない.
・予備校と真逆に近いような授業(フィーリング,イェイ!みたいな)
中学の英語の授業
・授業中に洋楽を流す.(説明のときは切る)
・単語のビンゴゲーム(ビンゴになればシールが貰える)

洋楽を流すのは,先生自体が,教育心理学を専攻していた先生というのもあり,
生徒に対する暗示というか,教室で音楽を聞けば英語の授業だと認識させるためにやってたんじゃないのかなと思ってたりしています.

②ここで紹介したい科目の授業
高校まではあまり良い思い出がないので,紹介したい授業はあまりないですね.
予備校の授業は①で挙げましたし,予備校の授業で他にあるちゃあるものの,今思えば,ハイレベルすぎて,自分自身がその授業で得たものがあまりないような感じがしていて,挙げるまでもないかなと思っています.
(アクティブ・ラーニングの数学の授業でグループワークでした.解き方を決める.問題を解くまでの筋道を立てることを訓練する授業だったと記憶しています(講師は,藤田貴志だったと思います.)
https://www.me-tis.net/html/fujita.html (編集済)
藤田貴志です
予備校講師 藤田貴志のサイト

13日目

にしむらもとい

一日遅れましたが僕の分の投稿をしておきます。急いだので文章に多少雑な部分があるかもしれませんが、内容的にはちゃんと書きました。ご意見があればご自由にどうぞ。質問の回答も、僕を含めた部員全員の分、最終日まで受け付けます。一応、最終日に総括的な投稿もします

西住

その3です

コバ

本気でブチ切れるというのは怒りで我を忘れるという事だとは思いますが、怒りで完全に我を忘れたことは記憶の限り無いですね。もちろん怒ることはあるのですがどこかで怒っている自分を俯瞰している自分が片隅にいます。本当に怒りで我を忘れてキレ散らかしている(ように見える)人は仕事柄よく遭遇しますがそれに対しは自分ができないこともあって「こんだけマジギレできるなんて逆にすげぇな、、、」とある意味感心します。

コバ

デジタル:自分が情報だと認識している情報群
アナログ:自分が情報だと割り切っていない情報群
と私は定義しています。

アナログも突き詰めれば我々の脳で処理している情報ということにはなります。しかしそれをアナログとするかデジタルとするかは各人の体験、感覚に依存するということになると思います。これからも技術の発展が続く限り我々はデジタルとアナログの間で各自の感覚の一致不一致に翻弄されながら一生を終えていくのだと思います。

コバ

それぞれどのような授業だったか概要はあまり覚えてないので(多分半分くらい寝ていた)印象に残っているエピソードを紹介します
①高校の英文法の授業の先生曰く「英文法なんて私が教えようが都会の予備校の先生が教えようが一緒だから!同じ文法だから!」とのことでした。文法自体はそりゃ一緒かもしれませんが後にその先生と都会の予備校の先生が教える英文法では分かりやすさに天と地ほどの差があることが実体験で判明しました。
②中学校の国語の授業で先生が「国語に間違えはないんだ!」と言った5分後に生徒の回答に対して「それはちょっと違うね」と言っていて爆笑しました。

14日目

シト

こんばんは。
シトです。

一番最初に投稿した内容では、論理を教えるために、「当たり前のことに気づく」ことをするため、授業自体が「当たり前のことしか解説しない」ものとなると書きました。

授業とはどうあるべきか。それは、「当たり前のことに自身で気づけるようになる」ように体系的に展開されるものであるべきです。

それでは、教育方法論として有名なものを紹介してみようと思います。

・ジグソー法

  まず、テキストや絵や漫画などをいくつかの部分に分割して、異なる学習者に与えます。それから、学習者は互いに自分の部分を描写することで、全体像を完成させるというものです。

  この方法は名前とやり方が一人歩きしています。この方法はタスクベースの言語指導(Task-Based Language Teaching)の一つでしかないです。これは、言語は現実世界の目標を成し遂げるための手段であるという点を強調しています。そしてざっくりとした特徴として

 1)意味の交渉は学習者に理解可能なインプットと修正されたアウトプットの機会を提供する。
 2)タスクは学習者に「ギャップに気づく」機会を与える。
 3)タスク活動とその達成は学習者を動機づける。

 があります。
 
 1)はタスク遂行時に意味の伝達が十分にできない時に、意味の交渉を行うのですが、相手にわかるようにするにはアウトプットを修正する必要があると学習者が気づき、修正を行います。その結果として、相手にとってインプットが理解可能となり、どちらの学習者も習得が進みます。
 2)はタスクで意味を伝達しようとする時に、それを可能にする言語形式がないという「ギャップ」に気づき、適切な言語形式を探し求めるという行為につながります。
 3)は学習者が自分の持つ言語リソースを駆使してタスクにあたり、その結果タスクが達成されると言語学習への動機づけが高まるというものです。

 これを行うには高いレベルの英語力が要求されるのも特徴として挙げられます。

 以上のように、どのようなものなのか、前提としてなにが必要かといろいろあるのですが、
そんなものは、無視され、現実では、与える情報にギャップを生じさせるという形を取れば
ジグソー法だとして活用されています。そこで、一番影響を受けているのが読解の授業です。
読解とは、論理を追っていくものです、しかし、そもそも論理を教えるようなものではなく、
何かを達成するための方法論であるジグソー法で一部の分だけを与えてつなげろというの
はおかしな話です。

授業とは、論理を追うことを目的とした方法論で、論理を追っていくものであるべきだと
考えます。

Yujin

①英語の授業
1年生は文法中心、2年生から長文読解(300字くらいのものから徐々に)と文法演習でした。女性の先生が多く基本的にヒスってたので、その先生の授業は真面目にやる生徒が多かったように思いますが、一方で男性の先生の授業は崩壊していました。

②宗教の授業
僕の通っていた私立高校はキリスト教の授業がありました。生徒の中ではキリスト教の授業は内職の時間だという共通認識があり、特に3年生になるとまともに受けている人はほとんどいませんでした。また授業内容はどちらかというと道徳であり、病気で苦しむ人々を救う活動をした人のエピソードを読んで先生が満足する授業でした。エ◯バの証人はカルトであると散々教えられました。 (編集済)

蜆一朗@老害

シト君のジグソー法への問題意識が今一つ掴めなかったので、ジグソー法の補足も含めつつ質問させてください。

(知識構成型)ジグソー法というのは、指導要領の指針である「主体的で対話的で深い学び」を実現するために、東大のグループが提唱したものだったと記憶しています。具体的には

⑴ 問いを共有する
⑵ 各個人が現時点での答えや考えを言語化する
⑶ グループに分かれて資料や課題に取り組む
  (エキスパート活動といいます)
⑷ ⑶で違う課題に取り組んだ人たちでグループを作り、
  自分の担当分を説明しつつ、最初の問いに全員で取り組む
  (ジグソー活動といいます)
⑸ ⑷での各班の意見を共有する
⑹ 再び個人に戻り、自分なりの考えを深める

みたいな流れをとります。皆さんも学生時代に「席が近い者同士で組まれた学習班で課題をやって、代表者に発表させる」みたいな活動をやったことがあると思いますが、ここでは最初の問いを共有しているものの「取り組む課題が班ごとに違う」のがミソですね。
 自分の答えを追求しつつ(主体的で)
 他者の異なる考えと出会うことで(対話的で)
 自分の考えの質を上げていく(深い)
ことをコンセプトとしているようです。文科省らしくて素晴らしいですね。たとえば僕が今パッと考えた数学での実践例では

・ある単元で教えたいことを3つ同時並行で取り組ませる
  ex) 合成関数について教えるとき、
   ⑴ 合成するときには定義域と値域に注意する
   ⑵ 関数とその逆関数を合成すると恒等関数になる
   ⑶ 関数とその逆関数のグラフの位置関係
  などを(すでに知っている)簡単な例で確認させる
・1つの問題に対して複数のアプローチを考えさせる

みたいな実践例があるかと思います。(ここからが本題ですが)シト君の「論理を追うことを目的とする」という授業の方針のもとでは、

・論理に複数の解釈などないので、そもそも方法論として適さない

という問題意識がある、ということでしょうか。それとも他の先生の実践例を見て

・「学習班Aでは第1段落、学習班Cでは第3段落を訳して説明」みたいな、何のつながりにも伏線にもなっていない単なる役割分担に終わっている

という点を批判している、ということでしょうか。

 ちなみに僕自身は、ジグソー法は
 ・賢い子が多く集まらないと成立させること自体が難しい
 ・自分の課題で手一杯になって他の子の発表を聞く余裕がない
というデメリットが大きいのであまり好きではないですが、管理さえうまくいくのであれば、
 ・1つの授業で多くのテーマに触れられる
 ・手を動かす時間を取れる
というメリットもあるかと思います。僕自身がこんな授業をやられたら馴染めなくてサボっていたと思いますが、今の時代は自分で処理しきれないことを他の人の頭にやってもらうことも大事なスキルであるとは思います。 (編集済)

にしむらもとい

本日にて表現研のWSは終了です。

表現研は未来部と表裏一体の活動であるとお話ししました。運営側の部活動としてはもう一つ図書委員会の設定もありますね。これら運営部活動に参加くださっている方は、基本的になにがしかの形でジェイラボに貢献しようという気持ちを持ってくれている方だと思います。

ジェイラボも運営を開始して5年以上経ち、皆さんも様々な変化と共に今に至っていると思います。当初と比べて、また違う意味でここに参加する動機を持ってくれている方も増え、それはそれで良いことだとは考えています。それでも、ジェイラボを僕が始めてここまで続けてきた経緯、僕が場の信頼度を担保しなければ成立しなかったこと、などを改めて考えてもらい、皆さんがここにいる意味をちゃんと納得しておいてほしいと思います。

WSももう何年も続けてきましたが、結局本来の意味通りの「ワークショップ」はこれまで一度たりとも実現できていないと感じています。今回も、例えば僕が散々使い古して何なら「もう飽きた」くらい言って欲しい「デジタルとアナログ」についての質問をしたのも、皆さんがどれだけジェイラボとちゃんと接してきたかを見たかった側面がありました。僕がこれまで動画やブログ記事で発信してきた程度の内容は、もう4、5年もここにいるなら普通に理解していて何なら代弁できるくらいであってほしい気持ちがあります。その観点から見ると、僕の質問に限らずWSで出された質問に一つも回答してくれなかった方々は参加者というより傍観者であり、おそらく一部存在するであろうWSで提示されている文章を全く読んですらいない人はもはや「部外者」とすら感じます。

今年度は大きな節目になるということをそれとなく年度初めに伝えた気がしますが、改めて強調しておきます。僕が皆さんにジェイラボでしてほしいことは、自分自身の「表現」です。本当は外部への情報発信の活動に皆に参加して欲しい気持ちはありますが、少なくとも、この閉じたコミュニティの中で自分自身を「隠さず」表現する。「隠さず」と言っているのは、「一定以上の頻度で」という意味と「自分の弱みは見せないという態度を取らない」という意味です。座談会において、表現研部員の西住がジェイラボは「話が通じる場である」ということを話してくれていましたが、自分を隠したままこの場に居座るということは、話が通じると信じているメンバーへの裏切りであると理解して、コミュニケーションにおいては自分を隠さず出して欲しいと思います。

あと一つだけ。表現研の活動を通して皆に伝えたいことは、とにかく「興味の幅を固定して自分の世界を閉ざさない」ということです。忙しい方に無理にゲームをしろとか、映画鑑賞して評論を書けとかを強要するつもりはありません。皆、目先のやるべきことを優先してください。ただ、時間がないなりにどんなことに対しても興味だけは持って欲しい。

僕がいま表現研でやっている活動は、同人的なものではないということも、どこかで話したと思います。同人活動は全くもって素晴らしく尊いものだと思いますが、仮に僕が同人活動をしていたとして、この場で皆にその活動への参加を強要すれば、それは皆の意志を無視したパワハラ的行為になると思います。つまり、ジェイラボの活動を全体として見た時、それは同人活動ではありません。そして、その運営に関わる部活動もまた同人活動ではない、というかあってはならないと考えています。人の出入りとしてはこの場は基本的に閉じていますが、価値観は閉じていないということです。もちろん、始まりからして僕の思想が強く反映されている(べき)空間ではありますので、別に「多様性」など反映されている必要はありませんが、それが今後どんな価値観へ変遷していくのか、その可能性については閉ざすつもりはありません。

もし、ジェイラボが皆さんにとっていま生きている価値観の根幹に全く関係のない存在で、様子見をしながら「つながりを感じる」ための趣味の場であるなら、僕と皆さんの付き合いは今年度が最後になると思います。この年度では「皆さんの『表現』により多く触れられること」を期待しています。

それでは、二週間表現研のWSとして時間を取らせていただき、ありがとうございました。

西住

WSお疲れ様でした。

個人的に表現研を通してやっていることは、とにかくどんなものでも受け入れるということです。何事も、やる前からわかったつもりになって、ゴチャゴチャと言い訳をつけつつ、結局やらないことは、誰にとってもよくあることで、自分も若い頃はそうだったと思います。ただ、今後の人生では、できるだけそれを避けようと思い、何も縛らないという、ある種の縛りプレイを自分に課して生きています。結果的には、その方が色々人生はうまく行くのではないかと感じています。ただこんなことは誰かに言われたからはいそうですか、とはならないでしょう。たとえ過去に戻って自分を説得しても絶対に話を聞かないと思います。結局はどこかの時点で自らの気づきによって変わるしかありません。

表現研ではない個人の表現としては、とにかく自分の主観の意見を発信することを意識してやっています。メモリーズオフのコアレビューはまさにその一環です。決して遊びではありません。自分の主観を発信することは、自分の幸福に繋がっているという実感があります。ただしこれも、自分の幸福だけを追求するのが本当に幸福なのかという話で、それだけでもしょうもないな、という感覚も抱いています。なのであらゆることを受け入れてやっていく表現研と、自分の主観を発信するコアレビューは、両輪で回っていくのが健康的であると結論づけて、今回の締めにします。

2週間ありがとうございました。

匿名希望

日付が変わったくらいの広義の今日と言える時間帯にどうせ終わるだろうと思い,後回しにして投稿遅れました.

これまでも,あまり話したくないような過去の暗い話など,かなりおおっぴらにしている方であるものの,
ブチギレ体験をこの場で話すことはさすがに正直迷ったのですが,
上の投稿を読んで,話しますと,自分の場合は,大抵は,親族関連ですね.
正直,私にとって,親は金銭的援助が有ること以外は,ライアーゲームで騙しあいの敵のような存在に感じており,誰に何と言われようと,今後も真に心を割って話すことはもう一生ないですし,今後行うつもりもないです.
親と電話越しで話してブチギレた際に,何度もiPhoneを叩き割り,怒鳴り散らかして,親にブチギレてiPhoneを修理出した回数だと,3回以上はあると思います.(ユニットバスを蹴り,ユニットバスの壁を割ったこともあります.(賃貸で退去費で10万かかりました.))
とにかく,
自分にとって都合が良いように誘導しようとしている,
会話の背景にうす汚い意図・ねらいが見え隠れする.
探りいれるような会話.
そのようなものを感じ取った際にとんでもないくらいイライラしてブチギレているのだと思います.
探り入れられて弱みをみせてしまうと,いつか,
それを恥として使ってくる場合もある(というかこれまでもいくらでも有ったからこそですが),
なので,親には一切腹を割って話すことは無いですし,常にいつでもブチギレる体制をとって話し,ブチギレる際は,
弱みを一切見せることがないよう,相手を圧倒的に威圧するようにするのと同時平行で頭を五感をフル回転させるつもりで相手の狙いを絶対に見抜いてやる,というような感じで,とんでもなくブチギレていますね.
ただ,理性で,相手を殺してしまうなどの一線は絶対に超えないように徹底的に意識しています.例えば,人を殺めてしまうとか,超えてはいけない一線を超えてしまうと,こちらが大きな損害を被りますし,それなら,相手の立場が悪くなった際を,陰湿な方法で,後々狙い撃ちする,という方向に頭を働かせるようにしています.ここだけは徹底していますね.
また,これまでの関わり合いの中で,高校受験の際などを初め,囲い込んでゴリ押しで言う通りにさせられた上に,それで上手く行かなくても,
こっちのせいにされてブチギレられる,というような経緯もあり,もう信用は一切していないです.
なので,何か連絡があった際は,初めから脅し口調で喧嘩腰で,この場では見せていないくらい,とんでもなくブチギレていると思います.
私がブチギレている際は,このくらいがイメージに近いかもしれいないです.

シト

WSお疲れ様でした。

表現研を通して今まで意地で見ていなかったアニメを見たり、ゲームをしたりと、興味の幅を少しでも広げて世界を閉ざさないことを意識しています。僕自身は自分の世界に引きこもるタイプなので、最初は非常に抵抗がありましたが、徐々に慣れていきました。

仕事の方でも少しは柔軟に動けるようになったので、目にわかる変化としてはそういうところに出ているなと感じます。

2週間ありがとうございました。

15日目

@||: けろたん

その他の授業について数学は、授業は演習問題を解きつつの教師への質問タイムでした。講義は事前に動画として配布されていたと思います。いわゆる反転学習というやつでしょうか。 学習効果が高いのはわからないところをわかるようにするところであって、そのためには教師はリソースを質問応答に割くほうが良い、という理屈は一応理解していました。教師のことをサボっているという生徒もいたのは覚えています。 他には、癌から復帰した体育の教師がポロッといいことを言ったことを、深いなと思いながら聞いた記憶があります。

シト

1.そのような授業をすると褒められますね。管理職とか教員にw。今、教える立場になっても効率は悪いと思います。ただ、書かれているようにワイワイ感は高められるので、授業は成立しやすいと感じます。

2.2学期からは反転学習、google formでの解答、授業内では自由進度で行こうと思っているので、僕のことをさぼっていると思う人は増えそうですw 教えたがりではないので、教員から見ると僕はおかしいのかもしれない。

シト

① 英語で英語をというのは最近の話なのでそうだと思います。

② それはきついですね。音楽の授業は選択でとるものなので、そこまで厳しくされるとつらいです。 (編集済)

シト

これ以降はフォロースレッドの方に書いておきます。

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