見出し画像

【表現評論】1年くらいひたすらnote記事を書いてみた〜世界考察とメモリーズオフコアレビュー〜 その3

⚫︎前回の記事

●書くという表現

何かを表現することにおいて、書くという表現はすでに古典の領域に入っている。特にゲームのレビューはそうなっている。ゲームに限らず、エンタメ系のレビューは概ねそうだろう。インターネット空間において、最初のレビューの場は、個人のHPだった。個人HPの次に来たのはブログである。文字数としてはおそらくブログに移った頃が頂点であったが、舞台がブログからSNS(主にX)に移り変わって、加速度的に文字数は減っただろう。そして今主流になっているのは、youtube等で動画として感想を語るスタイルである。もはや文字ですらない。ブログの再生数は知る方法がないが、動画媒体と文字媒体の再生(PV)数を比較すると、天地の差があるのではないだろうか。延々と毎日毎日少しずつ文章を書き、字数を連ねるスタイルはもはやクラシックであってモダンではない。ではこのクラシックスタイルを採用することに何か意味はあるのだろうか。チンタラ書くよりも思いのまましゃべった方が早くないか。コスパも良くないか。そう考えるは自然であり、それは多分正しい。文字情報のレビューなどいずれ消え去るだろう。そのうちというか、既に消え去りかけていると言ってもよさそうである。エンターテイメントを語る上で、文字はいらない。エンターテイメント以外はまだわからない。論文のようなものをしゃべり言葉で伝えることは可能なのだろうか。まだそこまで想像力が及んでいない。文字を読むこと自体が一部の変わり者の趣味になる。そんな時代もあるのかもしれない。書くことの利点はなんなのか。

●クラシックスタイルの利点

あえてクラシックスタイルの利点をあげるとすれば、作品を詳細に分析、検討できることにある。細部にわたって念入りに情報を読み取り、丁寧にレビューするということにおいては、書く行為に勝るものはない。しゃべり言葉のスピードでそれを成すのは不可能である。また、わざわざ文章を読もうという人は、多少長くなってもついてくるという期待ができる。動画で長々とレビューを喋り、3時間の動画になるくらい語り尽くせば、しゃべり言葉のスピードでも作品を詳細にレビューできるかもしれないが、そんな長時間動画は誰も見ない。見たとしても、ただ流しているだけで、まともに内容が確認されるとは思えない。一方、読解に3時間かかる文章であれば、動画よりは見てくれる人はいるかもしれない。

●利点は利点なのか

このようにクラシックスタイルの利点はあるのだが、この利点は果たして利点なのだろうか。もはや作品を詳細にレビューする行為自体が、現代的には不要な気がしている。歴史に残る名作、という表現も、どこか遠く感じるようになった。なぜかといえば、時代の変化が早すぎるからだ。今は10年前どころか、3年前の作品ですら古く感じる気がしている。色褪せない名作などない。全てが同様に、急速に、急激に色褪せていく時代に、作品を詳細にレビューする意味とは何か。そんな意味はない。その一時楽しんで、共有され、すぐに流れていく。それが今後の正しい作品像なのだろうと思う。レビューもしゃべり言葉で軽く共有されるくらいがちょうどいい。文字で長く語ることも不要だし、そんなに長い動画もいらない。5分10分で軽く語れることを共有する。それでいいのだ。作品をまじめに味わうことは不要である。すぐに流れていくものをまじめに語っていてもしょうがない。

●一般性と私

クラシックスタイルのレビューはもはや古典であって、現代的に一般的な意義はない。クラシックモダン以前に、全てがあっという間に流れていくこの時代において、長々とエンタメを語るという行為自体が不毛である。

ではコアレビューとは一体何なのか。意義がないと言っているのに、一体何をやっているのか。そもそも、一般的な意義がないことと、自分にとって意義がないことは、全くの別問題である。これを同じだと思っている人は、危険な道を突っ走っている。人間の不幸は一般性と私を混同するところから始まっている。一般は一般であって私ではない。私は私であって一般ではない。私を一般化すると、人は途端に学歴厨になったりマウント厨になったりコバンザメになったりする。悲劇である。一般性は一般性として理解しておけばいい。クラシックスタイルは時代遅れで、価値がない。わかったわかった。それはそれとして、私は私のやりたいことをやる。そうやって世界を彩っていくのが、人間にとっての幸福である。コアレビューはまさに自分の世界を彩っていく作業である。この彩りはいくら時代が変わろうとも色褪せない。なぜならこの彩りは私にとっての彩りだからだ。いつまで経っても、私にとっては色褪せない。そして世界には、私にとって、という頭文字以外に重要なものはない。もはやクラシックなスタイルで書くことの意義は自分の中にしかないのだ。

自分だけの人生を生きろ。これが書き手から見た表現の最終結論である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?