表現と空間 #3(全3回) 【哲学的研究】eスポーツとテレビゲーム、コミュニケーションの未来【全文公開】
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Introduction
表現の場、そして特にそれを現代的メディアに限った場合の特性について話してきた。今回が全3回の最終回である。現代的メディアにおけるコミュニケーションの具体例について少しだけ論じておきたい。
なお、eスポーツについては以前も取り扱っており、僕が書く文章としては珍しく歴史的な事実を参考にしながら具体的に書いた部分もあり、かなり読みごたえがあるはずである。まだ読んでいない、読んだけど忘れてしまったという方は、読み進める前にこちらも読んでみて欲しい。
ゲーミフィケーション
テレビゲームやeスポーツとは何かという定義部分の話は、以前の記事で触れたので、今回は具体例、その性質について話してみたい。
「ゲーミフィケーション」という言葉がある。やや古びたというかあまり流行らなかった感じもするが、ビジネスや教育などの文脈で使われる類の用語であるらしい。仕事や勉強をゲーム化することで参加者の取り組みを能動化しようという取り組みである。しかし、今の表現には若干の問題がある。「『取り組み』に対する取り組み」であるゲーミフィケーションの、その取り組みに対するゲーミフィケーションは存在するのか。普通は存在しない。構造をさかのぼると、最終的にその構造をデザインした誰かの強い動機にぶちあたる。つまり、結局のところ特定の誰か(再現性のなさ)に頼らなければ、これもまた自動的には成立しないということである。問題点があるとすればそこだろう。では、その特定の誰かの強い動機というものをサポートし得る要素は何か。話を一般的にすればするほど、それはお金しかあり得なくなる。話を局所に限るなら、やりがいという再現性のないものに頼ることで動機を導くことも可能だろうが、そういう態度が特定の職種の現場の過酷さを生んでいるのも事実である。
ゲーミフィケーションというワードで適当に検索でもしてもらったらわかるが、ほとんどの人はゲーミフィケーションの方法論に終始している。そして、それで良いのである。それを調べている時点でその人は能動的なわけだから、調べている人の動機をサポートする必要はなく、方法論の提示だけで良いのだ。とはいえ、ゲーミフィケーションの方法論を説明するなどという無駄そうな活動それ自体の動機はどこにあるのか。無論、利益のためである。
では、今僕がこの文章を書いている動機はどうなのか。わかりやすくお金に直結したものではないが、確かに僕の動機もまた利己的なもの、つまり利益のためである。それがどのような利益であるかは説明しづらいが、僕は自分のためにこの文章を書いているのは間違いない。
それはそれとして、そもそも何故仕事や勉強をゲーム化すれば、参加者を能動的に動かせるのか。まあ、早い話が報酬を小分けにして与えるシステムが作られるわけであるが、ただお金をばらまくような結果に対する報酬ではなく、途中の過程で何らかの満足感が得られるような場をデザインとして準備して与えることで、細かく動機に燃料を足してゆくということである。報酬という餌で釣る(ある種意図的な中毒化を行なう)ことになるのでそれを真なる能動性と呼んで良いのかはあやしいが、少なくとも動機を生み出す場を閉じた機関にできるのは事実だ。
皆さんも、多かれ少なかれ何らかのゲームに時間を忘れて没頭した記憶はあるだろう。ゲームという言葉をテレビゲームだけでなく幅広い遊びにまで拡張すれば、絶対に誰しもその体験は持っているはずだ。しかし、何故そんなにも没頭できるのか。
もちろん、ゲームというものが人為的にそうデザインされているからである。
ホイジンガとカイヨワから
日本人がカタカナの「ゲーム」という単語を聞いて想起するものは、テレビゲーム(videogame)である。以後、その狭い意味でのテレビゲームを取り扱うが、さすがにテレビゲームという用語は適用範囲が狭すぎる(最新FPSタイトルがテレビゲームと呼べるのかかなりあやしい)のでただのゲームないしvideogameという英語を用いることにする。
ゲームの本質は、もちろん遊びである。では、遊びとは何か。この際そこについても多少は触れておこう。
不勉強な僕でも知るレベルで最も真面目に遊びと向き合ったのは、ホイジンガとカイヨワである。異論は認めるが、ともかく、僕が知っているレベルのことを簡単に伝えておく。
ヨハン・ホイジンガはオランダ人の歴史家であり、いくつかの著書を残しているが、今日よく知られているのは歴史書ではなく『ホモ・ルーデンス』と名付けられた論文である。その中身から必要な部分だけ簡潔に取り出して言い換えておく。引用ではなく僕の言葉に置き換わっていることはご了承いただきたい。
まあ、だいたいこんな感じである。それまでの遊びというものに対する考え方は、日本語でも機能的に「遊び」を持たせるなどと言ったりする、その遊びに近いものだった。余剰エネルギーの表出、現実逃避のための代償、将来のための準備学習、要するに遊び以外の部分との位置づけで捉えられることが多かったわけだ。しかし、そうではなく、遊びとはより根源的で条件のつかない生の在り方のことなのだ、ということを言いたかったのだろう。遊びとは人生の「遊び」のことではないということだ。
先程もう一人名前を挙げたロジェ・カイヨワもまた知識人にはえらく人気で、皆さんも名前くらいは聞いたことがあるのではないかと思う。その著書『遊びと人間』からの引用をやたらと目にする。ざっくり必要な情報を僕の言葉でまとめておく。
こうして聞きなれない謎用語を使うと文章がおしゃれになる一方、その場での自発的な思考、それこそホイジンガ的な遊びの要素が失われるので、僕はあまり好きではない。普段ならやらない。やっていない。それでも、今回は説明上あった方が良いと判断したので、有名どころを引いておいた。理由は後述。
そもそも、こうした一個人の発想に基づいた分類が、全ての要素を余すところなくカバーしているかというと、相当疑問がある。こうした「文系的」発想の分類は、あくまで多くを捨象してでもいま拾いたいものを拾うための方法論である。「理系的」発想だと目の前のものを拾うタイミングを逃すことも多い。まあ、それはそれとして、内容を簡単に説明しておく。
アゴン(競争)は技能が結果に影響する遊び、すなわち競技である。能力は平等ではないかもしれないが機会は平等だということが本質にある。
アレア(偶然)はそもそもラテン語でさいころを意味しており、運試しの遊びである。技能は結果に影響せず、つまり努力するといった意志を放棄して運命に身を委ねることがルールとなる。
ミミクリ(模擬)は現実とは離れたそれでいて現実を模した架空の状態を作る遊びである。いまある数多くの文化的表現物、特に演劇や映像作品の類を楽しむことはこの範疇におさまるだろう。話を小さくすればごっこ遊びもそうだろうし、大きくすればテーマパークにもこの要素があるだろう。心理学的な物言いをするなら仮面というものにも関連は認められる。制服を着るという社会的な行為も部分的にはこの要素が反映されていると言える。
イリンクス(眩暈)は意図的かつ一時的に知覚の安定を崩すことで得られるパニックをある種の官能として受け入れる遊びである。公園のブランコ、ジェットコースター、そういう装置を用いるものが多い。ただでんぐり返しをすることも、それが遊びと感じられるなら、その範疇だろう。
さて、僕があまり好まない学者先生の引用をわざわざ行なったのは何故かというと、今回はコミュニケーションをテーマとしているからである。僕一人の頭だけを元手に言葉を紡いだ方が本質的には絶対に近道なのだが、コミュニケーションというものは近道だけが正解ではない。皆さんと話題を共有するために、敢えてお偉い学者先生にお越しいただいたのである。故人なのでお忙しい中無理にお誘いしたわけではないのが救いである。
というわけで、いま引いたお話も材料に含めて今後の話を展開していくことにする。
ゲームと遊び
僕はいま『ストリートファイター6』という格闘ゲームのプレイに結構な時間を割いている。以前は"VALORANT"というFPSゲームに時間を割いた。ここではそうした「謎活動」の理由の説明を兼ねて、videogameの本質について少し議論を進める。
videogameというのはコンピュータの演算で表現される遊び空間である。当たり前だが、自然空間ではない。実際に機能しているかは別として、参加者(プレイヤー)が飽きないための工夫が、制作者によって明確にデザインされ配置されている。元々videogameが一人用のオフラインゲームでしかなかった時代には、目的(楽しみ)はその中で閉じており、ゲームプレイはホイジンガの言う意味の遊びとしても認められそうなものであった。カイヨワの定義に頼るなら、ミミクリ(模擬)の要素が強そうに感じる。
ただ、本来ゲームとはゲームマスターとのコミュニケーションであるという重要な要素を忘れてはならない。つまり、videogameにも当然制作者というゲームマスターがいる。だから、一人用ゲームをプレイするのも、実はそれは一人遊びではなくゲームマスターとのコミュニケーションなのである。だから、バグなどが見つかればキレることになる。何にキレるのか。バグに対してではない。キレる対象は制作者(ゲームマスター)である。一方、自然の中で遊んでいて、「この地面バグって挙動おかしくね?」とキレることはない。物理法則というのは人知を超えた(コミュニケーション不可能な)ものなので、自然との対話は厳密な意味でのコミュニケーションにはならない。キレるという感情は対人感情である。もし現実に地面の挙動がおかしいとしたら、それはバグなどではない。地震という物理法則に基づいた現象である。そして、地震に対して人はキレない。地震がもたらす人間社会におけるその結果に対してキレることはあるかもしれないが、地震そのものに抱く感情は「畏れ」だろう。
videogameは一人用であろうがマルチプレイであろうがオンラインオフラインも関係なく、誰かが作ったという意味での人為的プラットフォームであり、すなわちメディアである。だから、僕は大人になってもvideogameを研究対象としてプレイし続けている。
一人用オフラインゲームしかなかった時代は、前回まで論じていた共有性はほとんど内在されていなかった。それが、ITの進歩と共に他のメディアとの外部接続によって多少なり共有性を持ち、例えば一人用ゲームをタイムアタックして結果を共有することで競技化したり、プレイ動画を共有することで動画を介した外部とのコミュニケーション要素を遊び化したりするようになった。
では、今日主流になりつつある、マルチプレイのオンラインゲームは、どうなのだろうか。オンラインである時点で既に共有性は内在されている上、外部メディアとの接続の親和性も高く、共有性もはるかに高まっている。
ゲームがプラットフォームだという話をすると、メタバース的な発想が短絡的に出てくるかもしれないが、いましているのはそういう話ではない。コミュニケーションをもっと広義にとらえれば、なにもMMORPGのようにチャットで会話をしなくとも、ただ対戦をするだけでも相手とのコミュニケーションは発生するという話である。むしろ言語的コミュニケーションを超えた部分での体験的コミュニケーションが発生するため、より意義深い。
そして、共有性が高まったことにより、videogameの遊びとしての位置づけも変化しつつある。制作者との対話という意味でのクローズドな遊びから、参加者同士での横の共有に意義を置いたオープンな遊びへと移り変わっている。
ホイジンガ的な意味での遊びの要素は、要するにゲームそのものの完成度、純粋にゲームとして面白いかというところにある。レビューで何点取れるか、みたいな話である。カイヨワ的な意味から今日主流のゲームを見ると、ミミクリ(模擬)であることには変わりないが、アゴン(競争)の要素がかなり強まっている。それはひとえに共有可能性の保証が裏付けになっているわけだが、競技タイトルについては単なるゲームとしての閉じた面白さをレビューすることはできない。面白さの本質がそこではなくなったからである。
eスポーツと呼ばれるような競技性の高いオンラインゲームにおいて、特にこれまでの単なる遊びとしてのゲームとの違いがはっきり表れている。もっと言うと、eスポーツはもはや遊びですらなくなりつつある。「格ゲーは遊びじゃねえ」などという冗談めいた言い回しがあったりするが、実際のところ、それは冗談ではなくなりつつある。
eスポーツが遊びでなくなりつつあるのは、目的がそれ自体で閉じなくなったからである。eスポーツはもはや「現実から離れた自由な活動」ではない。「現実に紐ついて縛られた活動」である。それは、実際の競技者にとどまらず一般のプレイヤーにとっても、である。たとえば、テニスやゴルフなどの古典的な意味でのスポーツにおいては、別にプレイを共有することが目的とならない(プレイ自体をただ楽しむという)文脈も十分存在し得るが、eスポーツにおいてはそもそも共有せずにプレイすること自体が原理的に不可能である。プレイの結果は、普通は何らかの共有可能な履歴として残る。そして、eスポーツタイトルでは、当たり前だが何らかの形でプレイヤーにランク付けが行なわれる。ランクマッチというシステムによってプレイヤーのランクが数値化されてゆくわけだが、明確に他プレイヤーとの比較を意識させられるランクというものが自分に割り振られ、それでもなお他プレイヤーを意識せずただ自分の純粋なプレイ体験だけを追求してプレイすることは不可能だ。もしそれができている人がいたとしたら、その人はeスポーツタイトルを本当の意味でプレイしていない。一人用オフラインゲームを楽しむ動機でeスポーツタイトルをプレイすることは、ゲームのデザインから外れた行為である。eスポーツタイトルのゲーム性をただ純粋に楽しむ行為はメーカー保証のきかない非推奨の使用法ということだ。eスポーツタイトルは、その最大の目的が競技性の担保にあるということを理解しなければならない。もちろん、制作側も可能な限りゲームそれ自体として面白いものにする努力はしているだろうが、「面白いけどバランスが悪い」では競技にならない。というか、特に対戦ゲームにおいては対戦バランスの良さこそが面白さそのものであったりするので、それ以外の要素は好き嫌い、趣味嗜好のレベルの話になってくる。ITは「ゲームの面白さ」の定義にすらフィードバックしている。
eスポーツに話を限ると、やや守備範囲が狭まるが、もう少しこの話を進めたい。eスポーツにおいては、基本的に技量に応じてプレイヤーにランクが付される。そして、一般プレイヤーがそのタイトルをプレイする最大の目的は、「ランク」にある。競技プレイヤーであればそもそも技量があるのが前提ゆえ、場合によってランクマッチをいちいち真面目に消化しないという場合もあろうが、一般プレイヤーはランクを高めることをこそ主目的としてプレイする。純粋にそのゲームがただ楽しいからプレイするという要素も副次的にはあり得るだろうが、繰り返すが、今日においてはそれは主目的ではない。ゲームの本質は変わってしまったのだ。プレイする楽しさという主観情報は非常に共有しづらいが、ランク付けという客観情報は一発で共有できる。
しかし、ランク付けそのものが目的にまでなってしまうと、それが古典的な意味での遊びであるのかどうか、それすらあやしくなってくる。というか、プロ競技者はそのゲームを既に遊びとしてプレイしていない。仕事なのだ。
一方、競技性のないゲームは、これまでよりも共有性が高まったとはいえ、まだまだ純粋なゲームそのものの楽しさがプレイの主目的たり得ている。競技性のないゲームは、早い話が映画などと同系列の消費コンテンツであり、そのものがプラットフォームになってコミュニケーションを担うという機能はない。
僕が「ゲームをやっている」と言うと、「アニメを観ている」と同レベルで認識されることが多いように思うが、意識としては丸っきり異なる。繰り返すが、丸っきり異なる。どう異なるかは、そろそろ理解いただけてきた頃と信じたい。
コミュニケーションの未来
ITのおかげでコミュニケーションの方法が多様化し、いまでは様々なソーシャルメディアプラットフォームがデザインされ、運用され、利用されている。そこでは、テキスト、画像、音声、動画など多岐に渡るマルチメディアを用いてコミュニケーションがはかられている。身体から切り離されたデータを用いて、という意味である。オンラインとオフラインのコミュニケーション特性について話をすると、まず最初にこうしたオンラインにおける身体性の欠如問題が挙げられる。では、eスポーツタイトルのようなゲームがコミュニケーションに用いるメディアは何なのか。テキストチャット、ボイスチャット、そういったものは本質ではない。プレイそのものがコミュニケーション言語だということである。もちろん、そのプレイ空間は疑似的(ヴァーチャル)なものではあるが、疑似的であっても身体的体験がコミュニケーション言語として利用可能になるというのは、オンラインメディアの可能性を広げる大きなヒントになるはずである。と同時に、それが当たり前になってくると、身体的体験という概念もまたアップデートされてゆくのかもしれない。
未来においては、我々は抽象記号としての言語を超え、体験すら直接コミュニケートできるようになるのだろう。ただし、きっとそれは今の意味での体験ではない。身体を伴わないいまとは別の意味での体験。身体を伴わないからこそ共有が可能になる体験。
身体を消したコミュニケーションにおいては、共有性は飛躍的に高まっていることだろう。そして、その時点で我々は本質的な意味できっと身体を失っている。その善悪はともかく、その流れはもう止められない。
それが僕のいまの興味の対象である。僕は今日も遊びではない遊びを続ける。生ある限り。身体ある限り。
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