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『世界は「関係」でできている』【読書のおと】……量子論の上質な入門書を紹介しつつ目の前の問題と向き合う方法についていま一度話そうか


簡潔な書評は上記リンク参照のこと。

ここでは、この書籍を紹介した僕の動機の背景について話をしておきたい。

ジェイラボ内の基礎教養部という活動の中で、僕が書評を書いたのはこれが三回目である。一回目は方丈記、二回目がサンデル氏の能力主義の本、三回目の今回が量子論のお話である。

とにもかくにも、読書というのは文字を読むことであり、そして文字の歴史はあまりに古い。それを体感しないまま徒に読書をしていても得られる情報は半減するだろうという配慮により、一回目は古典に触れる意義についてお話をした。古典マニアになれとは言わないし、僕も古典マニアでは全くない。ただ、活字表現の様々なバリエーションを文化として知っておくことは、思わぬところで自身を助ける。

次に、まさにいまこの瞬間、この時代について考える素材として能力主義のトピックを紹介した。古典マニアになり過ぎてもいけないのだ。結局考えないといけないことはいつだって目の前の時代についてである。例として取り上げた能力主義については、今後もnoteで記事化しつつ、たぶんYouTubeでも動画化すると思うので、良かったらフォローして一緒に考えてみて欲しい。

そして、今回量子論のトピックを持ち出した。時間は存在しないと言う著者の作を紹介しながら言うのもナンだが、過去、現在、未来というわかりやすい時間的な物差しに従って素材を紹介したつもりである。

実際に時間が存在するか否かというのはさておき、我々人間は時間の流れという感覚から逸脱して生きることはできない。究極に情報を抽象してゆけば新しい視野(量子論)は広がるはずだが、それは人がマクロな存在物としての己の人生と向き合うための視野ではない。それでも、そこで数多重ねられた先人たちの議論から得られるアイデアは捨てがたい。

もう一度流れをおさらいしておく。

我々が向き合わねばならないのは、もちろん、目の前の「今」である。しかし、今だけを見ていても「今」はわからない。過去(古典)から得られるものは、僕の私見ではアイデアそのものではない。表現力である。古典のアイデアそのものは古すぎて陳腐化しているものがほとんどだが、歴史の重みを知ることは自身がこれから文章で何かを表現しようとしたときに特に活きてくる。ジェイラボのメンバーには自身で文章を書いて公開してもらう機会を持ってもらっているが、文章(自然言語)の表現の振れ幅を見ていると古典にどの程度触れて生きてきたかは大体わかる。これは、新しいアイデアとの直結を求めるような研究の最前線で必要な素養ではないと思うが、人に何かを伝えるときに絶対に活きるし、自身の理解の大きな補助にもなる。これから多少なり情報を発信する立場に立つ可能性のある者は、最小限触れられる程度の古典には触れておいた方が良い。

そして、いざ目の前の「今」と向き合うためには今の情報に触れなければならない。最も重点を置くべきなのは、もちろん今の情報に触れることである。これに関しては、特に僕が強調せず放っておいても皆それなりには取り組むだろう。そして、問題にぶち当たった時に、「今」の中に答えが見つからなかった場合、多くの人々は次に古典(過去知識)に答えを探しにゆく。先ほどから言っている通り、古典から得られるのは表現の幅である。以前方丈記を紹介したときには、古典を読む意義を「現代との比較において本質をあぶり出すための羅針盤である」といったような形で話したと思うが、基本的には同じことである。本質をあぶり出すことは厳密には新しいアイデアを生み出すこととは異なるからだ。たとえば古典を羅針盤として目の前の問題の本質をあぶり出せることこそが、そのまま表現力の幅ということである。表現と理解は表裏一体であり、理解がなければ表現はついてこないし、豊かな表現ができるならその本質をよく理解しているということである。逆も然り。表現力がついてこないならそれは理解が追い付いていない証であり、十分に本質を納得した事柄については当然豊かに表現できる。表現力と理解は同値関係にある。「わかってんのにうまく説明できない」は嘘ということだ。

古典に触れる意義は「今」の「超克」ではなく、あくまで「理解」のためである。では、仮に理解したとして、その後その問題を超えるためにどうすれば良いのか。どう考えれば良いのか。それは、古典には書いていない。僕もいままさに並行して「能力主義」について記事をまとめているところだが、いくら古典に当たっても、どこにも答は書かれていないことは知っている。ここから先は自分で考えるしかない領域である。

「今」の情報にどれだけ触れるかによって、Socialな知、参照的な知が決定される。情報に触れれば触れるほど、その知は大きく膨らむはずである。しかし、知とはその「大きさ」を競うものなのだろうか。もし、そうだと皆さんが言うのなら、仕方がない。僕は皆さんとは袂を分かって生きてゆくことになる。僕はそう思ってはいない。

僕にとっては知は「深さ」である。これは自然言語表現なので意味の振れ幅がひどいが、少なくとも大きい方が勝つようなものではない。僕も「今」の情報にはたくさん触れる努力はしているが、触れた素材はいつも底が抜けてしまうくらい掘り下げて使い古して抜け殻にしてしまう。断じて、磨き上げたり棚に並べてコレクションしたりなどしていない。人間には寿命があるのだ。知のコレクションを大きくして一体何になるのか。

では、掘っても掘っても底が見えない問題、古典の世界では想定されていなかったような問題にぶつかった時、それを単なる知のコレクション化でとどめないためにはどうすればよいのか。もちろん、自分で考えて何とかするしかない。しかし、「自分で何とかする」とは何なのだろうか。そのために必要な物は何なのだろうか。

必要な物は、想像力である。言葉遊びではあるが、創造力と言っても良いかもしれない。古典(過去)を研究していても、それは育まれない。「自分で何とかする」ためには、新しいアイデアを思いつくことで突破口を開かねばならないわけだが、では、新しいアイデアとは何なのだろうか。

新しいアイデアへたどり着くための僕なりの方法は、既にあちらこちらで散々お話はしてきているが、全てを追えていない人も多いだろう。そのエッセンスを伝える最適な素材として、本書を紹介している。

新しいアイデアとは常識の埒外にあるものであり、そんなものを想像(創造)できる者も、当然常識の埒外にいる。ある種の狂気でもなければ不可能なことである。狂気という単語に抵抗があるなら、勇気と言っても同じことだ。

その狂気ないし勇気があったとして、前人未到の地へ踏み出したその先で求められるものは何だろうか。そこで必要なものは「知」ではない。

「理」である。

そこは誰も知らない世界なのだ。既知を持ち込むことは世界を歪めることを意味する。もっとも人間の認知メカニズムとしては、既知(先入観)を持ち込むのは自然なことなようではある。たとえば視覚の認知においては、感覚入力の処理に先立って既知のパターンとの照合が行なわれるらしい。そして、既知を押し付けた照合の結果、既知のパターンで処理できない差分のみを新たな入力として受け入れて処理する。無駄な情報処理を発生させないという、効率による適応なのだろうが、実は我々はそもそも初めからありのままの世界など見てはいないらしい。先入観とは比喩ではなく認知そのものなのだ。人間は生来的に、十分な知性を持った(既知のパターンを手に入れた)後に未知の世界をありのままになど、むしろ受け入れないようにできている。

知性を持つとは、未知を捨てて既知に引きこもるというイノベイティヴとは真逆の意味だったのである。

これでメディアに登場する知識人の言動が理解できるだろう。

それでも、誰も知らない世界へ踏み込んでゆく狂気、勇気を持ちたいなら、どうにかして既知を捨ててシステムに抗い赤子のように真っさらな認知を行なわねばならない。既知の延長では届かないその世界の姿を、真っさらな認知の末、アブダクション(推論)という「理」によって捕まえる。それが新しいアイデアへたどり着くということである。

ようやく今回の本の内容に少し触れるが、この本からはいま僕が長々話してきたような一連の経過を凝縮したロヴェッリ氏のこれまでの人生がありありとにじみ出ている。

量子論という「理」の最先端にいながら、非常に広範な人文学的な「知」を表現力として不可分に織り込んでいる。「知」と「理」の素晴らしい相互作用が見て取れる稀有な文章である。まさに、過去と現在と未来が全て重なり、時間など存在しないという概念を見事に体現している。知性に文系も理系もヘチマもないということを知って欲しい。

以上が、僕が今回この本を皆さんに紹介した動機、背景である。

ついでの効果として、この本を丁寧に読めば、少なくとも量子論的な謎スピリチュアルに引っかかることはなくなるはずである。量子論的スピリチュアルは総じて「理」ではなく「知」によって啓蒙活動が行なわれている。量子論を理論ではなく単発の知識として引用し、都合の良い何物かと結びつけるということだ。そこに整合性のとれた「理」はない。量子論の「理」がわかっていれば、そんな奥行きのない「知」の欺瞞工作はすぐに見抜けるはずである。

気がつくとそろそろ筆を置こうかという頃合いであるが、まだ背景の話しかしていない。せっかくなので、中身についても少しだけ触れておこう。

この本から一般人が得られるアイデアの肝は、

  • 量子論が生まれる歴史の裏事情

  • 仏教的「空」概念の物理

  • 量子もつれの直観的理解

  • 我々生物にとって情報とは何か

くらいであろうか。最後に挙げた情報云々の話は僕自身やや考察を交えて得たアイデアなので、単純な読解では届かないかもしれないが、それ以外については本文中に丁寧に書かれている。シュレーディンガーの奇行の話も面白いし、この本のタイトルにもなっている「空」の概念も僕がこれまで抱いていたイメージが物理学と重なって面白かった。本質には中身がなく中身がないことが本質ということだ。まあ、これも日常から問題意識を持っていないと若干想像しづらい可能性はある。それは物理学というよりは哲学の問題である。あとは、量子もつれというわけのわからない現象について、詳細を捨象してわかりやすく伝えてくれている。その分理解の一部は失われているだろうが、割り切りとしては素晴らしい。本質の伝達可能性を捨てて表現をわかりやすくすることには、僕は常々反対の立場を示してきたのだが、この本は例外だ。それだけ「表現力」があるということである。前提とされる物理の知識はよくあるごちゃごちゃした入門書とは比ぶるべくもなく圧倒的に少ないと感じるが、初歩の量子論(二重性や不確定性原理)の自然言語的な説明くらいはわかっていないとしんどいかもしれない。しかし、素養としては物理知識よりもどちらかと言うと人文学的な文章理解能力の方が求められる気がする。稀有な物理学啓蒙書である。

最後に、本書はあくまで物理を知らない人向けの本ではあるが、逆に物理を知っている人が一般向けにそれをどう表現できるのかを学ぶという観点も持ち得るので、全くもって万人におすすめできる。

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