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【短文メモ】情報科学と哲学と物理学と数学と世界と私と仏教【全文公開】


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ジェイラボ内の学びの一環として部活動という装置を設定している。私的な学び場の可能性として今後一定の価値観を提示できればと思っている。いま行なわれている活動の中では、教育や芸術といったメタな分野を除くと、情報科学、哲学、物理学、数学辺りが大きな枠組みになると思われる。

この4つの分野の関係性について、物理学と数学については既に述べたことがあるが、

情報科学や哲学も含めて改めて整理してみた。

短いメモ程度のものだが一応以下に公開しておく。


たとえば、ただAという情報は存在しない。まずAがアルファベットのAなのか16進数のAなのか別な何かなのかがわからないと、何もわからない。そして、たとえばアルファベットだとするなら、Aの前にアルファベットはなく、Aの後ろにはBが続くという関係性が存在する。それらはルールでもあるがそのまま結果でもある。そう「決めた」関係性の結果である。

情報とは突き詰めれば関係性というルール(結果)そのものを指す。関係性のブラックボックスは「私」。私は「私」を観察できず、だから情報科学は「私」の外側しか語り得ない。情報で「私」はわからない。情報に記述できるのは「私だけがいない世界」。つまり、「私」は関係の中に溶けてしまっている。それを「空 - くう」と呼ぶ。一方、哲学において記述されるのは己の感覚それのみであり、それは「私だけがいる世界」。つまり、「私」こそが世界という丸ごとの構造そのものである。私の痛み(身体)を切り捨てて忘れ去ることができない不器用な哲学に「私」の外側は語り得ない。

情報科学は大局的に人間社会に寄与するが、ただ一点「私」をとりのがす。いまや哲学は人間社会にほとんど寄与しないが、ただ一点「私」のみをとらえ続ける。

これらは重なり合って互いを補完説明するものではない。情報科学と哲学は、同じものの異なる視点からの言い換えといった類ではなく、初めからピッタリ重なりを持たない。つまり、「情報科学的でもあり同時に哲学的でもある」ことは不可能ということである。

物理学と数学にもこれに近しいものは感じる。「私」の発見(私の一般化)を動機に含む数学には、情緒や痛みといった身体性を感じることがたまにあるが、物理学に対してそれを感じることはない。物理学は、数学という私的道具を利用して世界から「私」を消すこと(世界の一般化)を動機にしている。別な言い方をするなら、物理学者は「自然」に対して破れないルール(世界)を構築することを動機にしている。物理学とはすなわち自然科学である。数学はどうだろうか。数学のルールは数学のルールである限り初めから破れ得ない。数学とは私の外延だからである。数学が破れるとは私が破れるということだ。私が破れるとは何か。もちろん、そんなことはあり得ない。破れることのない、世界の最後の砦が私なのだから。デカルト氏も「我だけは在る」と言っていたはずである。

最後に、「空 - くう」という仏教世界観の用語を使ったことについて一言。

もちろん、空の思想が仏教の本質であるなどということは全くないとは知っているが、敢えて

「情報科学と物理学は仏教であるが、哲学と数学は仏教ではない」

とでもまとめておけばキャッチーではあろう。特に「情報科学って要するに仏教なんだよねー」とでも言っておけばウケる界隈は多そうである。

僕は日々、座してただ己の身体とのみ向き合い続けているが、もちろん、誰にもウケない。


なお、物理学(量子論)と「空 - くう」の関係については、以前紹介した一般書がわかりやすいのでオススメしておく。


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