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宗教と科学 -自殺について- 科学と医療の限界【全文公開】


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活躍盛りの有名人の自殺のニュースを目にする。悲しいニュースである。部外者の人間にそこまで思い至ったその理由はわからない。いや、たとえ親密だったとて、真相などわからないのかもしれない。人間の幸せは外的に固定できる基準などでは測れないというのを痛感する。

幸せなんて、本当にただただ本人の気の持ち様でしかない。それは仮説ではない。結論である。僕はお金への執着はもう持っていない。お金を必要以上にいくら持っていても幸せとは全く関係がないというのは痛感する。その話はよくしているので、今回は触れない。ひとことだけ言っておくと、少なくともお金があれば、「お金を使う」ことで人生の余白を埋めることができる、すなわち、人生を早送りできる。それを幸せと呼ぶのだというなら、別にそれでよいが、僕はそうは思わない。それだけだ。また、地位や名誉を得て賞賛されることも、それ自体が人生全てを薔薇色に塗りつぶすほどの幸せではない。それは、まさに、こうした悲しいニュースからもわかる。自殺された有名人の多くは、はたから見ているだけではその理由が見当たらない。つまり、皆に羨ましがられることだけでは、本人の幸せを充足することを保証できないということだ。

ずっと言ってきていることだが、現代において、古典的な意味での宗教が力を失っていることに、僕は多少なり問題を感じている。科学が宗教と対立する構図は良くない。非科学を徹底排除しようとする「若い」科学啓蒙家なんかの活動を見ていると、僕は違和感を覚える。本当にずっと言っているが科学も宗教と本質は何ら変わらない、というか僕は科学は宗教の範疇だと感じているし、だから自分の幸せの有り様を保つために何かを無「根拠」に信じることは、決して悪いことではない。科学も実質宗教なので、正しいと信じているだけだ。根拠? 根拠って何だ。根拠とは科学の文脈内で準備された道具立てであり、自作自演も甚だしい。

論理的に矛盾がない。だから正しい。

それを、論理思考が苦手な人に根拠として提示できるだろうか。そういう時、科学の側に立つ人は、論理思考ができない人間に全ての責任を押し付ける。それは、宗教を信じない人間を断罪する宗教家とどこが違うのだろうか。

計算結果が現実の物理的挙動に対して概ね破れておらず、未来予測が成立する。

いつか破れない保証はどこにあるのか。そもそも計算するとは何なのか。我々は思考するという神様から与えられた機能の範疇で踊っているだけである。思考してわかることは思考の中のことだけだ。思考という行為の輪郭くらいはつかめるかもしれない。でも、思考が「直接」現実に届くことは、決してない。

話が、大げさに感じるかもしれないが、要するに、いまの我々は論理一辺倒で塗りつぶされた宗教の下に暮らしているので、情緒的な拠り所(ホームグラウンド)を持つことが難しい。

心が疲れてダメになりそうだと友人に相談すれば、きっと、精神科でうつ病かどうかをチェックすることを進められ、「頑張らなくても良いから」といった紋切りな対応をされることだろう。自分を追い詰め過ぎない心理学的アプローチなんかを語ってくる輩もいるだろう。うんざりする。

これが、統計である。

統計的に最も効果的であるとされる対応で、個別の情緒的揺らぎも全て塗りつぶされてしまう。

もちろん、科学的統計的手法によって救われる人々は、かつてよりも増えただろう。「古典的な意味での宗教」が全てだった中世なんかよりは、いまの方が、間違いなく良い世界に感じるだろう。僕だってそう感じる。

しかし、よく考えて欲しい。我々はいまの世の中に立って、過去を見ている。俯瞰しているわけではない。だから、どう考えたって、過去と現在を公平に評価していない。魔女狩りが行なわれていたような、我々から見ればひどすぎると思われる時代だって、その時代に生きている人々を現代に連れてきて、はたして本当に現代の方が素晴らしいと100人中100人ともが感じるかはわからない。

僕はいまの世の中が昔よりも悪くなっていると言いたいわけではない。ただ、科学や統計や医学というのは、合理的に利益を享受するための手法であり、合理性だけで解決できない問題に対しては全く無力どころか害悪ですらあることがある、ということを心の何処かに留めていて欲しいと願う。

現代の科学が人類に多大な利益をもたらしていることは疑い得ないが、個人にとってお金が幸せと関係がないように、人類にとっても合理的利益の追求だけが幸せであるかはわからないし、たぶん違う。

統計で塗りつぶさない。それは、ひとりひとり全てに焦点を当てるという意味ではない。そんなことをするには、もう人類は増えすぎた。我々が互いをどう扱うか、ではない。我々自身が、自分は他人と一緒に塗りつぶされる存在ではない、ということを強く自覚する。

他人と違っても良い

なんてきれいごとではない。

そもそも他人と違うどころか究極には相容れるものではない異物同士である

ということを強く自覚する。その自覚が、いまの時代を幸せに生きるためのひとつの解決策だ。多様性どころの騒ぎではなく、皆が皆、異物そのものなのだ。多様性という考えも、そう、根っこは統計である。

この間、人間は皆部品であることを自覚すべきだという論考を書いたが、

本当に、人間は皆、有り様の異なった「部品」なのだ。

僕は医師になる道からは外れてしまった人間だが、だからこそ医師とは異なる視点から、自殺願望は理解できる。医師は、患者を死なせないことが最重要命題であるから、願望の中身を理解することより、もっと単純に希死念慮が本当にあるかどうかを見極めてマニュアルに基づいた適切な対処をすることが、自殺しそうな人に向き合った医師の仕事の本質である。心身のバランスを取り戻すという意味では、それは他人ができる最大限のサポートであり、医師の仕事は尊い。なんとなく人生に疲れて、もう嫌になって、死にたくなった、医学はそんな人を数多く助けていると思う。しかし、自らの強い意志で死を選ぶようなケースには、科学も医学も全く無力だ。それは統計を外れているからである。

僕は死にたいと強く願う人間に対して、安易に死ぬなとは言えない。もちろん、全ての人には寿命を全うするまで生きて欲しいし、僕も生きるつもりだ。生きることだけが人間に唯一与えられた確実なものだからだ。でも、それが自殺してはいけない理由にはならない。だから、僕はただ、生きて欲しいと願うことしかできない。

いじめがなくならないのと同様、自殺もなくならない。我々が言語を扱うこととそれが同義だからだ。いじめも自殺もなくしたいなら、言語を捨てれば良い。言語を捨てて全てを認識の外に放り出してしまえば、いじめも自殺も、「理論上」なくなる。でも、そんなことできるはずがない。

我々は、言語を扱い、物語を作る能力を持ったことで、宗教(科学)という拠り所を得たと言える。しかし、一色に塗りつぶすことで、拠り所を失う人も確実に存在する。

僕のこの話も、きっと塗りつぶされて消されてしまう。

それを魔女狩りとまでは言わない。

やはり、統計である。

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