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【26歳の哲学】手段、目的、生きる意味【全文公開】

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これは「僕」の人生における迷いの振り返りである。ほとんどの26歳の皆さんとはまず共感し合えない内容であることを、あらかじめ申し上げておく。読み物として読んで欲しい。

26歳の僕は何を考えていただろう。

生きていく意味が「手段」に冒されることが、基本的には大人になるということである。意味が通じるかわからないが、この頃の僕は、手段と目的の概念をただひたすら往復していた気がする。

かつて子供だった僕達は、「目的のために生きる」という関係性に意味を見出していた。できることをやるのではなく、できるかどうかなど構わず、「やりたいことをやろう」としていたはずだ。

いつしか、人は「できることをやる」ことに人生を最適化してゆく。できることが生み出す効果、それを最大化することが、生きる目的そのものとなってゆく。何故なら、「できる」という予測可能な成果、すなわち「約束」こそが、共同生活の「通貨」となるからである。

「大人」とは、共同体の概念が要請するものだ。共同生活をしないなら、「大人」なんてものは必要ない。

「大人」になれなかった大人を、一般に社会不適合者と言う。社会不適合者とは、要するに「社会のルール」を自分が生きる「手段」と認めることができない者のことだ。「手段に意味が冒される」ことに、大きな抵抗があるのだ。「できる」ことを、ただ皮算用が成り立つというだけで、行動原理のトップに置けないのだ。

大多数の人は、手段に疑義を挟むことなどない。誰かと競争をするにおいて、スタートラインを疑ったところで、文字通り「意味」がないからだ。手段は手段でしかなく、そこに「意味」などない。誰かが引いたスタートラインとゴールラインの間をただ走ることが「社会で生きる」ということであり、そこに「意味」などない。そもそも、そのスタートラインとゴールラインに合理性があるのか。知ったことではないしどうでもよい。その間をただ走ることしかできないから走るのだ。走ることが「できる」から走るのだ。文脈があって走っているわけではないのだ。

何故走るのかを問うた瞬間、「大人」は大人の資格を失う。

何故働かないといけないんだろう。

何故お金が必要なんだろう。

何故こんな社会に自分が貢献などしなければならないんだろう。

そんなことを考えても意味がない。それは、共同体を維持するための手段、ルールに過ぎない。何も考えず、あるいは諦めて、「社会」という外部手段で自分の存在を上書きできる者、それが「大人」である。

この物言いも、おそらく伝わらない人には全く伝わらないだろう。社会のほぼ全ての人々は、上書きしている自覚がないからである。

26歳の僕はどうだったろうか。

皆さんの想像通り、自分を外部で上書きできず、苦しみもがいていた。

26歳の僕は、いまだ、「意味」などというものにとりつかれていた。他者とのコミュニケーションの不可能性は中二病の頃から既に受け入れていたが、自身の生に意味がないことは、まだ到底受け入れられていなかった。

自分が生きていることには必ず大きな意味がある。

そう強く信じていた。

だからこそ、その意味を、「生」の意味を直視すればするほど、「死」という概念が僕の中でその領土を広げ始めていた。

生きる意味、それは、どれほど直視し続けても、掌からこぼれ落ち続けた。

「意味」とは何だろうか。

もはやその言葉の定義すら見失い始めていた。

様々な選択肢がある中で、自分の自由意志で何かを選び取ること、それこそが自分が生きていることの「意味」なのではないか。

そんな気がし始めていた。

しかし、自由意志とは何か。それも掌からこぼれ落ちてゆく。

もし、この世界の全ての現象が物理学的な決定論であるなら、自分の自由意志は初めから例の『悪魔』のものである。生きて何かを為すことは、ただ決定論の海に揺られているだけのことなのだ。自由などどこにもない。

自由はどこだ。

明日、もし自分が死んでいるなら、自分は何もしないという唯一の状態に移行する。仮に自分の意志で死を選び取るなら、その死を選ぶことすら決定論の悪魔の悪戯であるかもしれない。しかし、明日自分が何もしないという状態、そこには遂に恋い焦がれた、悪魔にも手出しができない、自ら選び取った「自由」があるのではないか。そんな気がし始めていた。

さて、健全な26歳とは、そもそも何をしているのだろうか。

仕事がどんどん楽しくなり、責任ある仕事を任され始め、どんどん上を目指して忙しくスキルをブラッシュアップしていることだろう。あるいは知の領域で生きる26歳は、どんどんその専門性を深め、より巨大で複雑な知的構造物を構築することに夢中になっていることだろう。

僕は、ただひたすら「死」を見つめていた。

手段。目的。生の意味。死の意味。

ひたすらそんなものにとらわれて、概念の反復運動で過ごした日々。

そして、そこで導き出された結論。

いま述べてきたように、僕はそれまでの人生を、手段より目的の方が尊いと感じて生きていた。「できる」ことをただ手段として頼るのではなく、「やりたいこと」を目的として目指す。それこそが人間だと感じて生きていた。しかし、もしかすると、実はそれは真実ではないかもしれない、そんな気付きの反転が、少しずつ存在感を増し始めてきていた。

目的を目指すことは、一見、夢という可能性を目指す自由な行ないに思えるが、実際は自身を「可能性」という概念に閉じ込める行ないである。

手段に頼るとは、一見、いまの可能性に縛られた刹那的で浅薄な行ないに思えるが、実際は手段こそが自身の刹那の「意志」を示し得る唯一の行ないである。

ある人間の人となりを判断するのに、気高い理想や壮大な計画、すなわちご立派な目的や夢を聞いても仕方がないのだ。

いまこの瞬間、どんな手段で問題に取り組むのか。

その「態度」を見れば判断できる。

目的で手段を正当化する人間は、そういう人間だ。目的という仮想的、人工的な概念で、目の前の現実、現象を平気で塗りつぶしてしまえる人間だ。世界をコントローラブルな人工物、支配物と見ている。

手段の積み重ねで目的に向かう人間は、そういう人間だ。手段という人間表現を積み重ねた後、そこにはちゃんと生身の人間が立っている。世界をアンコントローラブルな人間の総体、純粋な外部と見ている。

この気づき以降、僕は何かを成し遂げよう、何者かになろうという目的から決定的に解放された。遠い目的や夢ではなく、いま自分が生きているその瞬間こそが「生」の全てであり、だからこそ手段が全てなのだ。書物で得た知識ではなく、真にそう実感した。

目的で手段を選ぶ、目的による手段の正当化は、永遠に手段を殺し続ける。

そうではない。手段が目的を生かす、いや手段そのものが目的なのだ。

そう考えることで、少なくとも「生きる」ということを、以前よりはるかに前向きにとらえられるようにはなった。

では、自分が生きていることの意味とは?

そこでまた、はたと立ち止まってしまった。

手段そのものが目的であり、その瞬間と全力で向き合うことが生きることだとしよう。

生きるとは何なのか。それは何となくわかった。

では、生きること、すなわち、その瞬間と全力で向き合うことに、何か意味があるのだろうか。

その問題は、何一つ解決していない。そして、意味があるかないかと問われると、「ない」と答えざるを得ない。正確には「わからない」だが、「ある」ではないことは間違いない。

「意味」とは、文脈が生み出す関係性の記述である。

すなわち、構造そのものは意味を含まない。たとえば、千円札には物理的な存在物としての意味などほぼないが、社会の中で使用される文脈を考えれば、千円札の意味は容易に記述される。異なる表現をするなら、意味とは運動である。僕は、手段と目的の関係性の記述、その運動の中にこそ生きる意味があるのではないかとずっと目論んでいた。しかし、結局、手段と目的は一つに重なってしまったので、その目論見は外れてしまった。

生きることには文脈も関係性もなく、すなわち、そこに意味などなかったのだ。

「生きるとは何か」がわかり、そして、「生きることに意味がない」ことがわかった。

で、どうすんの?

恐ろしいことに、僕はそろそろ30歳になろうとしていた。

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