Think difficult ! part6「感覚の牢獄において<表現する>とは何か」 -書くとは書かないという自覚【全文公開】
"Think difficult!"を説き続け、そろそろ終わりに近づきつつある。
考えるということについて、基本的に僕の書いたもの(表現)を読む(受け取る)という形式を前提としてお話ししてきた。では、ここで突然ベクトルを逆転させて、皆さんから僕に向けて語れと言ったら、ちゃんと語ってもらえるだろうか。前のめりだった姿勢が一気に失われないだろうか。
考えるというのは、頭の中でぐるぐるした情報を出力して固定し、その情報も含めてまた情報を入力してぐるぐるして出力して、また入力して、出して入れて出して入れてを延々繰り返すことである。じっと腕組みして虚空を睨み続けることは、決して考えることではない。考えるとは、悟りを開くことではないのだ。思索にただ「耽る」こととは違う。具体的な入出力の手続きを通して情報を整理し、情報の次元を上げる(情報を構造化する)こと。それが考えることである。つまりは、考えるということの本質から自らが「表現者(出力者)」たることは切り離せない。
なので、今回は、表現者として「表現する」ことについてお話をしてみたい。職業的に表現という行為と向き合っておられる方なら、多少の自覚はあるかもしれない。
表現することは、表現しないことの輪郭でできている。
僕がいま作った「表現」である笑
ただ、この表現を僕の意図した通りに解釈していただけている方は、一万人に一人もいないだろうと思う。それは、頭の良し悪しではない。僕は大して頭は良くない。僕の感じるように日々物事を感じているかという、単なる慣れ、意識の問題である。もっと言えば、そもそも解釈に正解などない。正解はないが、ただ、表現への自覚があるなら表現者の意図を汲み取る解釈はできるということである。しかし、それができる人は一万人に一人もいないとすら感じるのである。何故か。
簡単な話だ
表現に「自覚的である」ということは、生きていく上で必須ではない、むしろ、どちらかというと邪魔でさえあるスキルだからだ。よほど職業的に求められるか、強い自意識がない限り、普通は身につかないスキルである。僕は、どうやら自意識が過剰であるらしい笑
さて、表現と言ってもかなり幅が広いので、今回は言語的表現、要するに「日本語を書く」ということに的を絞ってお話しする。その他の言語や芸術手法による表現については、各自、既にお話しした「アナロジー思考」を利かせて意味を受け取って欲しい。
本論に入る前に、再度念を押しておくが、「自覚的表現者であること」は、生きていく上で必須なスキルではない。今回のお話は、実は自己啓発にも通じるようなお手軽な話もたくさん含むとは思うが、僕は自己啓発を目的としては「表現」しないので、それだけは了承の上で読み進めていただきたい。
ではいこう。
文章を書き慣れていない人に文章を書いてもらうと、まず例外なく「書いて」しまう。何を言ってるのかわからないかもしれない。文章で何かを書くという行為は、情報量という意味では、増やす行為ではなく減らす行為なのだが、その自覚がまるでない人が、あまりにも多い。もちろん、頭の中でぐるぐるして出てくる、表現したい「原風景」「原イメージ」のようなものがベースにはなり、その情報は創造物であり、「増えたもの」として良いと思うが、そこをスタートラインにすれば、後は「減る一方」というのが正しい情報処理である。世界が色を持っていても、我々は木炭で白黒のスケッチをするしか術を持たないのである。描けば描くほど、どんどん情報は目減りする。しかし、イメージを言語で固定する、捕まえるという行為の「瞬間」を「創造」と捉えている人が多い。「創造」は皆さんの考えている一段階前に既に終わっており(創造は神様が終えている)我々は創造物としてのイメージを「選択」しているだけである。
たとえば、「赤い靴」を表現するときに、基本的には「赤い靴」と書くしか選択肢がない。自覚的表現者でない人は、「いやいや、そんなことはない」と主張するかもしれない。「赤いくつ」「あかい靴」「あかいくつ」「アカイクツ」英語で「レッドシューズ」はては「あかいシューズ」など表現方法はいくらでもあると言うだろうか。
僕が言っていることはそういうことではない。どんな語彙を選択しようが、語彙の問題ではない。「選択」している限り、それは全て「差異のない」同じ次元の行ないであり、決して「原イメージ」をそのままは出力できていない。「赤い靴」であれば視覚的イメージが元になるだろうし、「穏やかな川のせせらぎ」であれば聴覚と触覚が元になるかもしれない。解釈の揺らぎがほとんどない数式表現ですら、僕はイメージの「解釈」だと感じている。揺らぎはなくなっているかもしれないが、だからと言って、「E=mc^2」が宇宙の「原イメージ」をそのまま保持できているとは到底思えない。それは、数式でなんとか固定して切り取ることができた、世界のほんの一側面であろう。ともかく、そういう「感覚」を「言語」に統合、変換して解釈を入れた(スケッチとして切り取った)瞬間、基本的には「原イメージ」とのつながりは断たれる。だから、言語は本質的には虚構(フィクション)しか作り出せない。これが、自覚のスタートラインである。
さらに話を進めると、実は「原イメージ」自体も既に「選択」の洗礼を受けてしまっていることに気づけるだろうか。そもそも、我々は「感覚器官」に依存した「感覚」しか「感覚する」ことができない。感覚を超えた存在については無視するしかないのだ。ハナから我々は「切り取った世界」の選択しかしていない。「全宇宙的世界」に住んでいるとは口が裂けても言えないはずである。しかし、ほんのひと部屋間借りしているだけの住人であるにもかかわらず、我々は家主(創造主)に対してあまりにも大きな顔をして暮らしている。もっとも、この厚顔無恥さこそが、人間の才能なのかもしれないと考えることもできるし、そもそも人間の感覚だけが全宇宙なのかもしれない。
しかし、「論理的」に考えれば、我々の全ては借り物である。
たとえば、「我々には自由意志があるか」なんてことについて議論するむきもあるが、そんなことは正直どうでもよい。我々は自由意志と「感じて」暮らしているのだから。そして、我々には「感覚」しかないのだから。
たとえば、「不老不死に憧れる」人もいる。それもどうでもよいことだ。命にしがみつこうとしている、その意志が何なのかが、そもそもわからないのだから。死への恐怖も快楽を求める性欲も基本構造は同じである。借り物の感覚だ。もちろん、死を恐れるという「感覚」は「感覚する」人にとっては「存在する感覚」ではあるのだろう。でも、どのみち我々は感覚の外へ出ることは、永遠にできない。唯一の可能性は、新たなる人工生命にそれを託すことであろうが、それはまた別のお話。別の機会に譲る。
ともかく、我々は「感覚の牢獄」で生きている。我々の営みの全ての限界は「感覚」にある。哲学においても物理学においても、皆、その限界にぶつかっている。考えるという営みの限界は言語にあるが、そもそも、考える以前に生きることに境界線がある。
「有限」という概念がある。数学的に「大きさに限りがある」概念として認識しておられるだろう。しかし、限界というのは何も量的なものしか指さないわけではない。我々は感覚器官によって閉じ込められている。こうした質的な有限も、全く同じ意味であろう。3という数字が有限な数であることと、それを考えている我々が限られた感覚しか持たないことは、「数学的に」全く同値であろうと思う。
そろそろ、話においていかれはじめたのではないだろうか笑
話を先走らせていることにも、当然意図はある。内容へアクセスするためのギャップを大きくすることで、なるべく「読む」ことを自覚してもらえるように配慮している。簡単な表現ばかりを選択すると、皆、するっと飲み込んで、何食わぬ顔で「はい、次」などと言い出す。食べたくせに何食わぬ顔をする。そこに、味覚(自覚)はない。
今回のテーマは何だったか。表現として、書くことと書かないこと。
そう、全宇宙的に見れば、圧倒的に書かない(書けない)ことの方が情報量が多いのだ。絵を描くとき、普通、筆(それがアナログであれデジタルであれ)に全ての注意が向かう。描く瞬間はそれで良いのかもしれない。ただ、表現としてそれが受け取られることを考慮するなら、筆の意識だけでは足りない。描くとは、キャンバスに絵を描き足す行為ではなく、筆で余白を削る行為なのである。そう認識して初めて、表現の「メタ」が理解できる。
おそらく、人の脳は画像認識においても概念理解においても、細部まで全てをありのままにアナログ処理していない。一定のパターンに落とし込んで基本OS内部で勝手にモデル化を行なっている。だからこそ、犬は犬だし、猫は猫だし、三角形は三角形なのである。だから、「犬」と書けば「犬」と伝わる。「△」を「三角形」と認識する。それは脳の基本OSに組み込まれた機能である。要するに、ほとんどの人はそこに甘えた表現しかしていないということだ。そして、日常的にはその方が良いのだ。想定を超えた負荷の高い処理を毎日こなしていると、脳が熱暴走してしまう。しかし、表現に「自覚的」であるとはどういうことかというと、そうした「意味が伝わる仕組み」を理解しながら表現するということである。それはつまり、『「犬」と書けば「犬」と受け取られること』を自覚しながら「犬」と書くことなのだ。その時、意識は「犬」には向かっていない。「犬」と受け取られることの自覚とは、「犬以外」つまりキャンバスの「余白」を意識する事である。余白を意識して初めて、脳の基本OSの命令から逸脱することが可能になる。それこそが、表現における「メタ」である。
愛する人に「愛してる」と伝える時に、「愛してる」と言葉を語ることは時と場合によっては重要ではあるが、その言葉だけでは基本OSに組み込まれたデフォルトの「愛してるのモデル」が互いの脳内で反復、再現されるに過ぎない。愛してると真に伝えたければ、愛してると「伝えない」ことの中にこそ答えがある。これは、「愛してる」と言うなということではない。日常言語としての「愛してる」は生活を円滑にする潤滑油であり、それは「表現」ではないというだけだ。僕は愛する人にはちゃんと「愛してる」という言葉も伝える。それは別次元の話、というだけである。
「表現」というのは受動的な行ないではない。受け取られ方を計算せねばならない。その計算のために、余白の設計が最も大切なのだ。余白を意識することこそが、脳の基本OSの呪縛から逃れる近道である。
そして、実はそれこそが、「賢くなる」ことへの近道でもある。脳の基本OS任せでは、たとえば数学の難問は解けるようにならない。「賢くなる」とは、無意識を「意識化する」ということである。それもまた別のお話だ。いつか別の機会に話そう。
僕が何故こんなにも言外の余白を意識して生きているのか。余白の意識は適度であれば生活を豊かにするが、やり過ぎると日常生活の負担にしかならない。僕の場合は、ただひたすらに幼少期から他人に理解されないという体験を重ね続けた結果がこの有様、というだけである。謙遜は美徳ではないので正直に話すと、僕の頭の良さは、まぁ、そこそこだろうとは思う。受験的な情報処理能力はその辺に転がっている東大医学部生くらいはある(あった)と思う。しかし、僕の特性はそこではなく、むしろ偏差値という決められた方向から外れた「異常さ」にあるのだろうと思う。たぶん、基本OSがずれているのだ。組み込まれた基本OSが異なる人しかいない中で意思の疎通を図ることが、幼い僕にとってどれほど重労働であったか。そこは、僕がいくら「柴犬」と言っても「セントバーナード」としか受け取ってくれない世界なのだ。僕はそれを自分では「柴犬」と認識しながら仕方なく『セントバーナード』と表現して生きのびてきた。そういうひたすらに「自覚的な」行為を積み重ねて生きてきた。だから、僕は頭が良いのではなく、頭が「おかしい」のだと思う。念の為に言っておくが、それは僕という人間が故障しているという意味ではない。設計段階でずれているだけで、設計後の僕自身の機能は正常である。
しかし、ズレていたとしても、ズレを認識し「自覚」することさえできれば、なんとか「表現」を維持することはできる。どうにかここまでやってきた。
皆さんがマジョリティなのかマイノリティなのかはわからないが、ともかく、表現の本質について伝えたいことは以上である。情報伝達は原則として脳の基本OSに則って無意識無自覚に行なわれる。だから、無意識無自覚な世界を超えて何かを伝えたいなら、メタ視点を持って、出力するそばから入力をフィードバックするカタチで表現をしなければならない。そのための近道が、余白を意識することである。それが、「書くとは書かないという自覚」というタイトルの意味である。感覚の牢獄の中で「書く」には、メタ感覚が要るということだ。
書きたいことを書きまくるのではなく、書きたいけど書けないこと、書かない方が良いこと、の領域を意識する。元も子もなく言ってしまえば、「感情に任せて書きたいことを書くな」ということである。書きたいことを書きなぐっているうちは、それは表現ではない。書かないことで書くことこそが表現である。
この一連の文章も、当然「書かれていない」余白をこそ意識して、すなわち、どの程度まで読み取られ得るかをこそ意識して、書かれている。「表現が誰にも理解されない」という体験を重ねれば、いつか皆さんにも真意が伝わる日は来るかもしれない。
この一連の文章は、その日をいつまでもここで待っている。いつかまた、「表現が誰にも理解されない」という体験を重ねたとき、もう一度会いに来て欲しい。
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