【22歳の哲学】可能性という不可能性【全文公開】
2021.03.24 本記事は全文無料公開といたしました。価格表示についてはただの字数に応じた設定です。投げ銭とでも考えていただければ幸いです。
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前回に続き、僕自身の人生の悩み、迷いを振り返ってみる。
18歳の頃、わけもわからずただただ感じていた不安は、19歳、20歳と歳を重ねるうちに徐々に現実の輪郭を顕にし始める。既成の価値観で自身をしっかり上書きすることが社会に適合することである。当たり前だ。価値観を共有することで、人間は意志の疎通が図れるようになったのだから。しかし、それができれば世話はない。立派な社会人として生きてゆける。問題はそれができない場合だ。
大学を卒業して就職する。一般的には、そこからが社会人としての人生の始まりである。しかし、就職という行為の意味が、社会不適合者には理解できない。そもそも何故お金を稼ぐために「働かねばならないのか」が理解できない。理屈はわかる。人間が社会生活を送るために必要なエネルギーを各自で分担し、生み出したエネルギーを貨幣で交換する。それが国民にとって公平な在り方だ。不公平はあってはいけない。ほとんどの皆さんは、そこに何の疑問も抱かないし、それが正しい生き方であることを僕も疑うわけではない。でも、実感が持てなかった。そこへ参加することが自分の人生、自分が生まれてきたことの「意味」とつながるのだという実感が、まるで持てなかった。何故公平である必要があるのか。何故社会から外れて生きることが許されないのか。
まだこの頃の僕は生まれてきた「意味」なんて幼い考えにこだわっていた気がする。当時の自分の発言ではっきり覚えているものがある。
僕は、努力で何かを勝ち取りたいのではない。生まれ持った才能をただ消費したいのだ。
そういう趣旨の発言をしていたことが、強く記憶に残っている。この痛すぎる自意識がどの程度他人に伝わるかはわからないが、当時の僕は、才能を消費すること、それこそが生まれてきたことの「意味」だと感じていた。
努力して実現できることなど、別に僕がやらなくても誰かがやるだろう。なら、僕しかできないことって何だろう。そういう理屈である。僕という一回限りの個人の人生だけが為せる何かを為す。努力でたどり着けるステージ以外なら何でもよかった。才能とは一回性である。自己啓発などでよく努力する才能なんて言って、才能と努力を同一視する向きがあるが、厳密にはそれは違う。努力することも才能の一形態とする定義はわからなくはないし僕も方便としては使用するが、でも、それは本来の才能の定義からは外れている。才能とは唯一無二であることだ。そして、僕はその「言葉」にずっとずっと囚われていた。
東大を辞めたのは、特にその「言葉」の影響が強い。東大を卒業して官僚になって安定した人生を送ることを家族、親戚一同、皆が望んでいた。それは、努力で到達し得る中ではかなり「おいしい」ステージだったろうと思う。しかし、僕には耐えられなかった。東大卒で官僚になる人間なんて山ほどいる。当時の僕は、そう感じていた。そして、よりマイナーな選択肢ばかりを選び続けた。むしろ、「マイナーであること」が選択の理由になっていた気がする。本末転倒である。結果として唯一無二になるというより、唯一無二という「共通観念」に漸近する方法を模索していたのだ。
つまり、努力で到達できないステージに、努力で到達しようと抗っていた。その大いなる矛盾に気付いたのは、随分後になってからだ。当時の僕の努力は完全に空回りしていた。結果たどり着いた先は、唯一無二ではなく単なるマイノリティであった。
自分には可能性がある。それは誰しもが感じていることだ。そして、歳をとるごとに可能性の幅が狭まってきたと感じ始める。しかし、そもそも可能性という表現はポジティブな表現なのだろうか。どうも僕はこの言葉にとてつもない閉塞感を感じている。
無限の可能性がある。どんな選択肢を選んでも良い。本当にそうだろうか。それらは全て、「可能性が存在する」あるいは「選択肢を選ぶ」ということが大前提になっている。我々は、可能性を拒否することはできないし、選択肢を選ばないこともできない。「可能性を拒否する可能性」や「選択肢を選ばない選択肢」なんて表現は、あっという間に自己言及性の矛盾に陥ってしまう。
つまり、可能性や選択肢という「言語表現」は無限には広がらない。だから、我々は言語で人生について考えている限りにおいて、自分の無限の「可能性」を掘り起こすことはできない。若者が陥るひとつの罠である。
当時の僕は、自分探しという若者特有の行ないを上から目線で小馬鹿にして笑っていた。しかし、理屈で詰める行ないが有限な対象しか扱えないのであれば、むしろ自分探しのような理屈の通らない「馬鹿っぽい」行ないこそが自分の「可能性」を広げたのかもしれないと、いまなら思える。
可能性とは不可能性だ。皆さんにも僕にも、いまの人生を選ぶ以外の可能性などなかったのだ。そして、これからの人生も全ては不可能性の手のうちにある。それは良い悪いではない、事実である。少なくとも、我々の認知の範囲においては、それは絶対の事実だ。認知外のことは知らない。
ここに一つの事実がある。
「明日僕が何もしない」ことは、明日生きている限り不可能だ。
しかし、実はそれを唯一可能にする方法がある。
死ぬことである。
自殺の理由として唯一正当化できるもの。
それを見つけたのはこの頃だった。
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