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セルジュの舌/あるいは、寝取られた街【9/13】

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 翌週の月曜日、担任の江藤が学校に復帰した。
 あの黒い服のハゲ頭が予言したとおりに。

 江藤は和男の葬式にすら、顔を出していなかったのに。

「みなさんおはようございます。ちょっと体調を崩しちゃって心配かけちゃったけど、みんなは先生に会えなくて寂しかったかな? ……わたしはみんなに会えなくて、とっても寂しかったよ。教師になって2年目でこんなことを言うのはちょっとおこがましいけど……やっぱり教師、っていうのはわたしの天職なんだと思う。わたしは教師として職を得て、この学校のこのクラスの担任になりました。それはたぶん、運命だったんだと思います。わたしはこの町が大好きです。この町に育まれた、みなさんが大好きです。この町の人々が大好きです。これからも、わたしは許される限りこの町で教師として精一杯がんばりたいと思うので、よろしくお願いね♪」

 ダークスーツに白ワイシャツという凛々しい装いで教壇に立った江藤は、一気にそう語ると、ペコリとお辞儀をし、生徒たち全員にウインクまでしてみせた。

 生徒たちはまるで先手を打たれたように、呆然としている。
 恵介もその中の一人だ。

 
 あの黒い服の男たちが言っていたこと、それが実現したのだ。

 乱された服でむせび泣きながら、警察署へ車を走らせていた江藤の姿を……恵介は確かにこの目で見た。

 生まれて初めて……いや、これからの人生、そんな機会またあるかどうかわからない が……自分の目で見た“犯罪被害者”の姿だった。

 あの夜、幼児のように教え子の前で泣いてみせた江藤は、剥き身の素顔を晒していた。
 
 それが、恵介の記憶に刻 みついている。
 しかし、久々に出勤してきた江藤の様子はどうだろう?

性的ボーコーの件はどうなったんだよ?」

「……セルジュは? セルジュはどうなったわけ?」

「なんで……あんなに元気なの?」

「ちょ……どうなってんだ一体?」

 完全に好奇心の出鼻をくじかれた生徒たちが、ヒソヒソ声でつぶやいている。
 しかし誰も、江藤にほんとうのことを聞く勇気はないだろう。

 だいたい、セルジュが逮捕後、3日で釈放されたことに関しても、生徒たちはあまり大きな関心を示さなかった。
 多少の噂が飛び交いはしたが、その話題の重要性 は他愛のない噂話と同じようなものだ。

 たとえば友里江が頼んだら誰でもヤラせてくれる女だ、とかその類の噂と同じで……
 誰もほんとうのことを知らない。
 
 ほんとうのことは、いつも誰の想像よりも不可解なものなのだろう。
 

「それではひさびさに、出席をとりましょう♪ 相川さん、赤城くん、飯田くん、家永さん……」

 
 名前を呼ばれた誰もが一瞬、不可解な顔をしながらも、その表情を打ち消す。
 まるでセルジュと江藤の間にあった事実が塗りつぶされていくように。

 恵介の記憶にくっきりと刻み込まれていたあの夜の江藤の嗚咽、乱された服、警察書に ふらふらと入っていく彼女の後ろ姿……それがどんどん不鮮明になり、輪郭を失っていくのを恵介は感じた。

 昼休み、恵介は職員室の近くの廊下に立ち、江藤がやってくるのを待った。

 昼休みが4分過ぎ、廊下の向こうから江藤がやってくる。
 すれ違う生徒たちに、

「よっ!」

「元気してた?」

「最近どう?」

 などと声をかけている江藤の姿。
 以前から、この学校に務める教師たちのなかで突出した若さと快活さを誇っていた江藤だ。

 あの事件が起こるまでの姿と、いま恵介が目にしている彼女の姿は、少しも変わらないのかも知れない。

 すべてを忘れれば、なんの問題もないのかも知れない。
 すべてを忘れ、和男の死も不幸な死だったと自分を無理矢理納得させ、あの黒い服を着た男たちのことも幻だったと考え、これまでどおりの日常を示す べきなのだろうか?

 江藤が恵介の目の前までやってくる。
 二人の視線が、直線で結ばれる。
 彼女に掛ける言葉は、なにも思いつかなかった。
 
 しかし、意外なことに……足を止め、口を開いたのは江藤のほうだった。

「……元気にしてた?」

「えっ……」

 恵介の頭の中は、一瞬に真っ白になる。

「あの夜は、びっくりさせちゃってごめんね……驚いたでしょ?」

 そう言って江藤は首をかしげ、くりくりと大きな瞳で恵介の顔を覗き込む。
 恵介はぞっとした……

 その目が……とても人間の目には見えなかったからだ。

「あっ……あの、おれ、べつに……なにも……」

そうよ

 間髪入れずに、江藤が言った。
 
 首をかしげたままで……あの目でじっと恵介の目を見つめたままで。
 江藤の黒目はエナメル加工されたように真っ黒だった……以前とはまるで違う色だ。

 恵介の背筋に、さらなる戦慄が走る。

なにも、なかったのよ」

「せ、先生……」

「なにがあったか、あなたは見てないでしょ?」

「……」

 セルジュの家に向かって、抜かるんだ字面にパンプスの踵を取られながら、頼りなげに、いかにも頼りなげに歩いて行った江藤の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。

 しかし、それがまるで黒板にチョークで書かれた文字のように、せわしなくかき消されていく。
 
 あの日、江藤が口にした、こんな言葉も。

“さっきいろいろ話を聞かせてもらったけど、ほとんどがきみ自身が見たことじゃないでしょ?”

“あのね、わたしは……自分の目で確かめて、相手と話してから判断したいの”

 確かに江藤は恵介にそう言った。
 はずだ。

 恵介はもう強制的に完全消去されつつある記憶に、なんとかすがりつこうとする。
 しかし江藤はそれを許さなかった。

「見てないわよね? もし見ていたとしても、それをあなたが覚えていることで、誰かがしあわせになる?」

 江藤は笑顔を崩さない。
 プラスチックでできた、安物の仮面のような笑顔を。
 

「……で、でも先生」恵介の最後の抵抗だった。「……いいんですか? これで……」
 

 そこで江藤は、少しだけ寂しそうに笑った……ほんの一瞬だったが。
 でも、工場で量産されたような笑顔がすぐに戻ってくる。

「いいも悪いも、なにもなかったんだもの……どうしようもないことなのよ」

 
 江藤はそう言うと、魅力的な尻を振り、鼻歌を歌いながら職員室へと帰っていった。
 ピシャリ、と職員室のドアが閉じられる。

 廊下には、生徒たちが昼休みの残りの時間を隅々まで満喫しようと、笑いさざめいていた。

 日常が戻ってきた。
 クラスに和男がいないだけで。
 これですべて元通りだ。

「いや」

 恵介は口に出して言った。

「そんなバカな……それで……それでいいわけねーだろ?」

 セルジュの家には一日平均8人の人間が訪れる。

 ほとんどが女性で、恵介が知っている人間も何人か含まれていた。
 恵介の学校に通う女子中学生……もちろん、友里江や恵介以外に……の顔も何名か見受けられた。

 最寄りの高校からも何人もの女子生徒が。
 車で乗り付けてく る主婦たちもいた。

 ときには、歩行器を押してやってくる老婆さえいた。

 その中に死んだ親友……和男の母が含まれていたことに関して、恵介はもはやショックを感じなかった。

 あの黒い服の三人組の車が、セルジュの家にやってきたことはない。
 そのときのために、佳祐は父親の一眼レフを持ち出して待ち構えていた。

 江藤の復帰から恵介が学校に行かなくなって、一週間になる。

 恵介は毎朝、きちんと決まった時間に起き、朝食を食べ……和男の葬式の一件以来、千帆は恵介と朝食の席をともにすることはなかった……登校するふりをして、カバンに父の一眼レフをつめ、自転車で出かける。

 行き先は町の西の外れ、セルジュの家だ。

 
 ちょうどセルジュの家が見える場所に、農家の物置小屋を見つけた。
 そこが恵介の監視小屋となった。

 あの黒い服の男たちも、どこかからセルジュの家を監視しているのだろう。

 セルジュの家を監視している恵介のことも。

 しかし、恵介は気にしなかった。
 なぜ、セルジュの家を監視しようと思ったのか、自分でもよくわからない。

 しかし恵介は、何かにとりつかれたような執念で、セルジュの家を見張り続けた。
 

「セルジュ! セルジュっ! 出てきなさいよっ! いるのはわかってんだからっ!」

 ある日の朝、セルジュの家のドアを叩いている女を見た。
 その後ろ姿で、それが誰であるかわかった。

 あのコンビニで、セルジュと濃厚なキスをしていた地味なアルバイト女子学生だ。

「なんで最近お店に来ないのよっ! そんなに忙しいの? そんなに他の女のアソコを舐めるのに忙しいわけっ? ……あんた一体、何様のつもりよ? なんで……なんであ たしに、こんなことができるのっ?」

 女は、まるで拳でドアを打ち破ろうとでもしているかのように、乱暴なノックを続ける。

 しかしセルジュの返事はない。
 庭に、あの異形の犬の姿もない。

「死んでやるっ! 死んでやるからねっ!」

 女は叫び続ける……そして叫び疲れると、あたりを見回して、手頃な石ころを見つけると、フォークボールのフォームで一階の窓に投げつけた。

 以前、和男がコンクリートブロッ クで打ち破って、いつの間にか貼り直されていた窓ガラスを、また打ち破る。
 派手にガラスが砕ける音。

 しばらくコンビニのアルバイト女は、まるで魂が抜けたように呆然と立ちすくんでいた。
 セルジュの家からは、何の反応もない。

 恵介はセルジュが在宅しているのを知っていた。

 昨夜7時ごろ、理容室を営む飯塚さんの若い妻……噂では結婚前は都会で、看護師をしていたという……が、高校生の娘を伴ってセルジュとともに母娘で家の中に 入っていった。

 いつも張り込みは夜7時には切り上げるようにしているので、朝までの間にその母娘がセルジュの家を後にいたかどうかはわからない。

 しかし、1週間セルジュをじっくり監視し続けてきた恵介にはわかった。

 家に誰か、女たちがいないなら……セルジュはあのアルバイト女のためにドアを開けるだろう。

 そして玄関先で、あのパッとしないダサめのジーンズに包まれた尻を掴み、あのショートカットの髪をくしゃくしゃにして、むしゃぶりつくようにキスをするだろう。

 そしてあの……“セルジュの舌”で、あの女の口の中を蹂躙しつくすだろう。
 この一週間でそんな場面を何度となく見てきた。

 かなり長い間、女はその場に立ち尽くしていたが……やがて踵を返し、とぼとぼと元来た道を歩き始めた。

(そんなにがっかりすることないのに……)

 恵介は無言で彼女の背中にエールを送った。

(セルジュの身体が開けば……そしてあいつの気が向けば、またあいつはあんたのとこに現れるよ……)

 セルジュは基本的に、午後にならないと動き出さない。
 彼はまず朝、昨夜から家に連れ込んでいた女を追い出す。

 追い出された女たちは、みんな夢見心地のような、夢遊病者のような足取りでドアから出てくる。
 セルジュは玄 関口で、女たちに別れのキスをする。

 今日、2時ごろ出てきたのは、理容室の奥さんとその高校生の娘。

 いったい、母娘でセルジュの家に訪れて、何をしていたんだろう?
 ……想像することはできるが、それが画として浮かんでこない。

 若い母親と娘は名残惜しそうにそれぞれセルジュにハグをすると、熱いキスを交わし、さっきバイト女が返っていった道をキャッキャ キャキャと笑いながら連れ立って帰っていった。

 セルジュの家には時々、少年も訪れる。
 セルジュの好みは中学生の少年らしい。

 “え? まさかあいつが?”

 と思うような顔を何度も目撃した。
 ほとんどが学校で見かける顔だ……中にはクラスメイトも何人か含まれていた。

 少年たちはセルジュの家のドアをノックして、中に入っていく。
 そして、女たちよりは比較的短時間で、ドアから出てくる。

 セルジュは恵介と同じ年頃の少年 たちのを掴んで抱きしめ、抱き上げると、ほかの女たちにするように熱いキスをして、送り出す。

 女たちがそうされているのを見るのより、少年たちが同じことをされているのを見るほうが、恵介にとってはおぞましく感じられた。

 ……その様子を見ると、死ん だ和男のことを思い出す。
 そして、考えまいとしても、そのようにセルジュに誘惑された少年たちを自分と重ねずにおれなかった。

 セルジュが外出する時間は、まったくの気まぐれだった。

 いつもぶらぶら、よたよたと巨体を揺すりながら徒歩で出かけては、自転車で帰ってくる。

 おそらくスーパーの駐輪場やコンビニの前に停めてあったものを拝借してくるのだろう。

 セルジュの家の前には、まるで急な雨の日に買われては道端に捨てられるビニール 傘のように、大量の自転車が乗り捨てられていた。

 

 ある日、セルジュが出かけたとき……
 恵介は十分な距離を置いて尾行した。

 とにかく、町中におけるセルジュの行動は、法順守意識もモラルも道徳も、何もかもを無視していた。

 いたるところで立ち小便をし、一日40本以上のタバコ……フランス産の「ゴロワーズ」だ……をポイ 捨てし、コンビニのカウンターに立っているのがあのバイト女であろうとなかろうと、人目もはばからず万引きをした。

 スーパーに行っても同様だ。

 陳列された牛乳パックやチーズ、ヨーグルト、ワイン、ビールの6缶パック、即席ラーメンのパック、魚の切り身や牛肉・豚肉・ 鶏肉のパックなど食料品を中心に、あらゆるものを堂々と万引きした。

 殺虫剤や洗濯用洗剤(洗濯なんか、セルジュがするわけがない)、入浴剤(入浴もしかり)、紙おむつや子ども用のキックボード、ピクニック用の断熱性マット、ビーチボール、ハンガー、カセットコンロ、とにかく目につくものはすべて、コート のポケットに押し込み、押し込めないものは腕に抱えたまま、会計を済ませず堂々と店を出て行く。

 店員たちがセルジュを咎めることはない。

 コンビニでもスーパーでも、毎年何十人もの小中高生や主婦、老人たちが万引きでつかまり、店側で厳重注意されるか、運が悪ければ補導・逮捕されている。

 それなのに、セルジュに関しては店員たちも客たちも、まるで見て見ぬ振りを続けている。

 

 ……一体、どういうわけだろう?
 ……コンビニにもスーパーにも、あの黒い服を着た3人の男たちが現れて、何らかの圧力を加えたのだろうか?

 
 ……それとも セルジュがあまりにも計り知れない異様な存在なので、店員たちは恐ろしくて手を出すことも、声をかかることもできないだけなのだろうか?

 もちろん、万引きはセルジュの外出の主目的ではない。
 セルジュはあらゆる家に訪ねていった。

 いまは和男のいないあの家も含め、何十件もの家庭を。

 女性が一人で暮らしてるマンションの部屋も
 ……それには、担任教師である江藤のアパートの部屋も含まれていた。
 
 それぞれの家にセルジュが訪ねれば、やがて家の中から、セルジュと女たちの声が聞こえてくる。

“どナイや、そレ"、そレ" 気持ちえエんやロ" …………おレ" ええんか  ええのんか

“ああっ……いいっ! そこっ! セルジュっ! たまんないっ! もっと、もっとおっ!”

 亭主がその家に在宅している場合もある。

 男たちはセルジュが自らの妻を蹂躙している間、家の外に出て耳を塞ぎ、うずくまっている。

 何人かの男は、外にも出 てこない。
 締め出されている男たちは、和男の家でみたゾンビのような父親そのものだった。

 女が一人暮らしの場合は、マンションやアパートが壊れそうなくらい、セルジュと女は雄叫びをあげる。
 が、その隣近所の住人たちの家は、静まりかえっている。
 
 まるで死んだように。

 
 その日もセルジュはふらふらと家を出て行った。

 恵介はセルジュの後をつけた……セルジュはその日、スーパーでりんご一パック、トイレットペーパー、物干し竿、豚の塊肉、サバを堂々と万引きすると、次にコンビニに立 ち寄り、また菓子やビールを万引きした。

 そして昼勤のアルバイト少年……まだ高校生くらいだろうか? ……とカウンターで熱いディープキスをして、バックヤードに 消えていった。

 恵介はしばらくコンビニの外で待った。
 20分ほどで、セルジュは店から出てきた。

 セルジュはまたもコンビニの前の自転車を無断借用すると、それを押しながら町の中央部に向かって歩き出す。

 セルジュの後をつけながら、恵介は明らかな不安を感じた。

 ……この道のりは……
 ……いや、でもそんなまさか。

 しかし、セルジュが自転車でふらふらと蛇行しながら進むのは、この町の中で恵介にとって見慣れた、歩き親しんだ道のりだった。

 その頃にはもう時刻は午後7時を過ぎていた。

 セルジュの背中を追い、恵介は自転車を漕ぐが……その行き先が自分の予想している場所ではないこと を、ただひたすら願っていた。

 心臓の動機が高まる。

 神さま、神さま、神さま、神さま、神さま、神さま、神さま……
 ……お願いだからセルジュの行く先を変えてほしい。
 自分の悪い予感を、裏切って欲しい。

 お願いだ、それだけはせめて

 しかし、恵介の予想は裏切られた。
 

「そ、そんな……あんまりだ……」

 セルジュが自転車を停め、インターフォンを鳴らしたのは……
 恵介が父と母、そして妹の千帆と暮らす、彼の家だった。
 

 目の前に、幕が降りたように暗くなる。
 気がつくと恵介は、自分の家の門の前で、膝をついていた。


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