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書評「情報の文明学」(梅棹 忠夫)

ほぼ日刊イトイ新聞が「ほぼ日の父」と呼ぶ本があります。1960年代に情報産業社会の到来をいち早く予告し、無限の可能性と将来性について言及した、梅棹忠夫さんの著書「情報の文明学」です。

人の感覚に訴える産業が「情報産業」

本書では、農業から工業へ、そして情報産業へという進展のイメージを、内胚葉、中胚葉、外胚葉という発生学的な比喩を使って説明しています。

つまり、生きることそのものを保証する『食う』ことを中心とした食料生産時代としての農業社会が、内胚葉的な時代とすれば、食うために「取る」「作る」の工業社会が中胚葉期。そして発生学的には、次は「感覚」を中心にした情報社会が、外胚葉期のように来るはずである、というわけです。

外胚葉というのは、人の身体に例えると脳神経や感覚器官の事を指します。したがって、今後は人の感覚に訴える産業が栄えるというわけです。したがって、人の感覚に訴える産業のことを「情報産業」というのであれば、メディアやネット業界に関する仕事だけでなく、鍼灸師やトレーナーなどの仕事も、広い意味で「情報産業」と言えるのもしれません。

情報産業が虚業か否かは新しいテーマではない

本書の冒頭「放送人の誕生と成長」という項目には、放送人の職業意識として以下の文章が書かれています。

実業ということばに対して虚業ということばが成立しうるものとすれば、これは一種の虚業意識である。
実業の世界のまっただなかで、みずからも実業を名乗りながら、
その従事者が虚業意識をもっていたとすれば、これは精神衛生上によくないことはあきらかである。

ライブドア事件の頃、「ネット業界は虚業である」という声が聞かれました。当時、急速に台頭するネット業界を揶揄することばとして「虚業」という言葉が使われましたが、本書を読むと、1960年代から既に情報産業が虚業である、という考え方があったことがわかります。

本書発売当初、「虚業」と評されたのは、新聞やテレビ局や出版社などのメディアでした。こうした旧来のメディアが、ライブドア事件の頃にネット業界の事を「虚業」と批判していたことは、皮肉です。

情報の価格を決める”お布施”理論

本書では、情報産業における価格決定についても言及しており、情報産業には農業社会や工業社会の時の原価計算の原理をもちこむことはできない、と書かれています。ではどうするのか。本書では、情報の価格決定法のヒントとして「お布施」を挙げています。

お布施の額を決定する要因として、2つ挙げています。ひとつは、坊さんの格。もうひとつは、壇家の格です。格式の高い家、あるいは金持ちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつきません。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働とは無関係である、というわけです。

これは現在のインターネット経由で流通する情報の価値判断基準にも通じます。ネットの情報は、誰が書いたのか。誰が紹介したのか。ということによって、情報の価値が決まります。こうした見解を1960年代に既に指摘していたことに驚かされます。

本書には記事で紹介した項目以外にも、情報産業が中心となる社会が、どのような社会になるのか、人々の考えはどのように変化するのか、どのような経済発展をとげるのか、ということが分野別に具体的に書かれており、1960年代に出版されたにもかかわらず、今読んでも唸らされるばかりです。今の時代を生きる上で、基本的な考えがすべて詰まってます。

※2014年に書いた記事を再編集しました。

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